溺れる瞬間

津川肇

溺れる瞬間

 購買に並ぶ汗臭い男子の間をすり抜けて、自販機の前にやっと辿り着いた。五百円玉を入れ、カフェオレを迷わず選ぶ。そして、少し迷ってからレモンティーも買った。いつもと変わらないこんな冴えない日には、無難にレモンティーがお似合いだ。小銭をとりあえずシャツの胸ポケットにしまうと、冷たいパックの飲み物たちを両手に私は辺りを見回した。数学の課題を提出したらすぐ来ると言っていたみっこの姿はまだ見えない。自販機横のベンチが三年の女子に占領されていたので、私は仕方なく窓際の壁に背を預け、ぼんやりと外を眺めながらみっこを待った。


「すみません」

 彼の声は、ベンチに座る女子の賑やかな会話や、アイスコーナーの前でじゃんけんをする男子の掛け声をすり抜けて、私の耳に届いた。彼は私に背を向けているし、購買のおばちゃんにやっと届くほどの声量しか出さない。それでも、彼のさざ波のような声に私の心臓はいとも簡単に攫われて、ぷかりと浮いてしまう。そしていつも、ギリギリ足の届かないその海面の高さに、ぎゅっと胸が縮むのだ。

「シュークリーム、一つください」

 行列ができていた売り場の前はさっきより空いていて、陳列棚にはちらほら空白が見えた。おばちゃんは彼からお金を受け取ると、「ちょうどね、はい」とシュークリームを差し出した。

「あ、そっちじゃなくて、カスタードの。その黄色い、はい」

 

 彼の『き』の発音が少し空気を含んでいることに気付いたのは最近だ。穏やかな波のような声が、時々そうやって岩礁にあたって小さなしぶきを上げることに、私の他に気付いている人はいるのだろうか。上履きの色からして私と同じ一年に違いないが、彼のことはたまにここで見かけるだけで、私は彼の名前も知らない。知っているのは『き』の発音と、ホイップの入っていないカスタードだけのシュークリームが好きなことくらいだ。けれど、きっと彼は私の存在すら知らないだろう。

 彼はシュークリームを受け取り、小さくおばちゃんに頭を下げる。それから、黄色い包装に包まれたそれを優しく胸の前で抱え、私の目の前を通り過ぎる。いつも甘いシュークリームを食べているはずなのに、彼の体の線は細く、肌は夏を知らないかのように白い。彼の声を聞き、姿を見るのが最近の小さな楽しみだった。

 その時、彼の目がこちらをちらりと捕らえた。初めてちゃんと見た彼の顔は、その声や体に似合わず彫り深く、しっかりとした鼻筋と力強い目が印象的だった。一瞬のうちに、彼の視線に溺れてしまいそうになる。胸ポケットの小銭がじゃりっと音を立てたと同時に、息の仕方を忘れた心臓が海底にこつんと沈んだ気がした。


「ねえさっきの、サエキの弟じゃない。今年入ったっていう」

「え、そうなの」

 ベンチの会話に我に返ると、彼の姿はもう見えなかった。

「絶対そう。顔そっくりじゃん。でもサエキと比べて弟はパッとしないんだね」

 長い髪をふわりと巻き下ろし、シャツの半袖を小さく折り、校則すれすれのオシャレをした女子が言う。彼女たちの噂話のネットワークに感謝をし、会話を盗み聞きした。そして得られた情報は、彼が『サエキ』という名字だということと、彼に似て端正な顔立ちだがやんちゃな兄が三年にいるということだった。

 口を閉じたまま、さ、え、き、と静かに繰り返す。私の舌は、軽く前歯の裏を蹴り、少し後ずさってから横に背伸びをすると、上顎に当たるか当たらないかのところでコッと静かに跳ねた。彼の舌はどんな動きをするのだろう、としばらく舌を動かしていると、みっこが小走りで現れた。

「何か歯に詰まってたの?」

 みっこは私の動く口元が見えていたようで、笑いながらそう言った。

「違うよ、何でもない」

 笑って誤魔化したけれど、舌先には確かに『サエキ』の感触が残っていた。

「それより遅かったじゃん、昼休み終わっちゃうよ」

「ごめんごめん、職員室で捕まってて。カフェオレの分と合わせて今度なんか奢るから」 

「じゃあ今日は許す」

それから、みっこは数学のノートをつまんでひらひらと見せた。

「課題、何問か飛ばしてたのバレてて、再提出しろって」

「じゃあ糖分補給して課題やんなきゃね」

 私はぬるくなったカフェオレをみっこに渡し、レモンティーにストローを挿した。南棟に向かう廊下を歩きながら、私たちはとりとめのない会話を続けた。

「ああ、お昼抜いてんのに体重減らないし、説教は長いし、最悪」

「カフェオレってカロリー高いでしょ」

「飲み物はいいの。そっちだってレモンティー飲んでるくせに」

「これは無糖なの」

「はいはい、名前も知らない男子に片思い中だもんね。抜け駆けして先に痩せようとしてんだ」

「それとこれとは関係ないし、まだ好きとは言ってないじゃん」

「でも気になってるんでしょ。そろそろ話しかけるくらいしなよ」


 お互いにからかいながらも、みっこは私のまだ恋とも呼べない感情を応援してくれるし、私はみっこの成功しそうもないダイエットに付き合っている。そしていつも、私は迷いつつも結局レモンティーを買うし、彼はおばちゃんが何度間違えてもカスタード入りのシュークリームを指差す。明日は違う飲み物にしてみよう、と私はひっそり決心した。

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溺れる瞬間 津川肇 @suskhs

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