翻訳小説について、

スロ男(SSSS.SLOTMAN)

個人的所感及び実のない駄文

 そういえば俺って翻訳小説ほんと苦手で読めなかったよなー、というのをふと思い出して。なんとなくで始めるのでなんとなくで終わります。いつものこととかいうなッ!


 さて。翻訳が苦手なら読まなきゃいいじゃん、といまの若い子たちなら普通に思うんでしょうが、ホラ大とかができた当時は、まだまだ国産のホラー小説とかは少なく、読みたいと思えば翻訳モノに手を伸ばさざるえなかったわけです。

 しかも当時、『魔術は囁く』『火車』で話題をさらった新鋭の宮部みゆきが「キング好きです」とかいってて確かに『スナーク狩り』とか『レベル7』とか、ほぼキングフォロワーだよなあ、みたいのがあったりしつつ。

 ホラーといえばキングだろ、みたいな流れがあって、しこしことキングの文庫本を買うのですが、読めない!

 なんてゆーか、こう、まったく入り込めない!!!

 これね、今思い返すとなんですが、文体、翻訳調といわれる、あの感じが苦手だったんですね、きっと。

 江口寿史の絵に惹かれて読み始めた『探偵になりたい』(パーネル・ホール、早川文庫)とかは楽しく読めたわけですよ。しかし、その一方で、二作目が翻訳変わって、(あれ、なんか違う……なんかノリが違う)とかもあったりしたんですが、一作目は田村義進という方で二作目から田中一江なんですね翻訳者、その後は慣れたというか、バーチャルガールとかエンダーズシャドウとかでもお世話になるんですがw


 で。話を元に戻しまして、キングは買うばかりで一向に読み進められない(のに、なぜ当時の私はペーパーバックしかないザ・スタンドがあんなに気になってたのか? 荒木か、荒木飛呂彦のせいか⁉︎)が、一方でぽろぽろと泣きながら読むほどにハマった作家にディーン・R・クーンツというのがおりまして。いやあ、翻訳苦手な自分でもグイグイ読まされてぽろぽろ泣いたりしましたよ、『ウォッチャーズ』。好きな人は大体、文春文庫よりも、以前の扶桑社文庫のほうのクーンツ推してたようにも記憶してます。


 と、そんなことがあった大学時代の前、高校時代に、やはり話題になってたので買ったはいいものの、毎度読み始めると眠くなってしまうという作品がありました。

 ギブスンの『ニューロマンサー』です。

 あれはもう翻訳がどうとかいう話ではないですね。単に読みづらい。読みづらい……が、しかし結局あんなに何度も読み直した作品も少なくないのではないか?(当社比)

 さらさらと読めるからいい、共感できるからいい、なんてのもひとつの読書の楽しみだと思いますが、読みづらいからいい、わからないからいい、そういうのも読書の楽しみ方だと思います。あとになってから解るのも良かったりするし、読み直したところで多分理解わからないままだけどもいい——『ディアスポラ』とかね——とかもあったりしつつ。


 そうそう翻訳どころか小説ですらない『攻殻機動隊』という漫画があるんですが、当時何描かれてるのか全然わからないまま好きで何度も読んでねえ、『アップルシード』とかは周りキャアキャアいってましたが、よくわからない(話がわからないんじゃなくて、なんか盛り上がる理由がよくわからなかった)ながらも、おそらく士郎政宗がメジャー誌にキャッチーな要素詰め込んで出した攻殻ですら当時の私には複雑怪奇だったのです。

 まあ時代もあるというか、いまの若い子が読んでも何がどうでそこまで衝撃受けた人種がいたんだろうってなもんでしょうが。(しかし現在も私を形づくる、『人の生とは本来異質なもので、特殊な一過性の波紋のようなもの』という感覚は、攻殻の影響が大きい気もします)

 ネットといえば『ネットワーク戦士ウォーリア』とログイン(雑誌名)での知識ぐらいしかなかった人種にとっては、そうだったんですよ!


 ネットワーク戦士といえば、作者の矢野健太郎、ひと昔前に若い子だった人からしたら『アオイホノオ』で焔燃ホノオ モユルが所属してた漫研の部長というか創始者で知ってるかもしれない、クトゥルー漫画の第一人者がいるわけですが。まあ私と同世代からしたら『猫じゃないモン!』の人といったほうが通りが良さそうですが——クトゥルーとかも小説で知るより先にゲームだ漫画で知ったという人が多い時代でした。

 というより創元推理文庫ぐらいしかなかったのかな、当時は。青心社のシリーズが出始めたかな、というあたりか。


 あれ?

 翻訳小説の話ではなかったか?

 そうそう、そんな翻訳小説読むのは苦手、とかいう感覚というか、人というのも2〜30年ぐらい前にはわりといたよなあ、ということが書きたかったのでした。


 が。

 おそらく今の人は、翻訳家がものすげえ文章が下手で、とかでもなければわりとするすると翻訳小説読めるのではないか、と。

 村上春樹の小説を読んで、つまらん、とか、何が言いたいの? とかいう人はいるでしょうが、おそらく「文章が読みづらい」という人はあまりいないのではないでしょうか。

 それだけ、いわゆる翻訳調と呼ばれていた文章(文体)が、あまりに当たり前になってしまったのではないか、という感慨を、ただ書くだけの文章なのでした、これはw


 筒井康隆『旅のラゴス』、これ私大好きなんですが、いまも当時の文庫版のあとがき残ってるかしらん🤔 知りませんけど、作者の当人が「シノプシス小説」だか書いてたんですね。「濃縮コンデンス小説」だったか?

 でも、多分いまの読者が読んだら、そうは思わないですよね? 当時の私ですら、え、何言ってんのツツイセンセー、でしたもん。

 あれはあれだからいいのであって、あそこに変に諸々の(背景だの心理だのの)描写が入ってきたら台無しでしょう、と。けれど、そういうのが入ってこそ小説だ、みたいな風潮があったんだろうなあ、きっと。


 流石にいまでも『沈黙のフライバイ』(野尻抱介、ハヤカワ文庫JA)とか読んだ場合は、いやもうちょっと解凍・展開しても良いんじゃね? とは思いそうですが、そうではない潔さというか爽快感とかもあるよな、と思いつつ、そこらへんの冗長/過不足問題も時代的なものがあるんだろうなあ、きっと。


 翻訳文体の冗長さというかまどろっこしさ、とかはきっといまの若い人は感じないんだろうなあと思いつつ、けれども一方ではよりスピーディにキャラや物語を消費する方向にいってるのかなあ、とぼんやりと考えたりします。

 しかし、映画は字幕でなきゃ、なんて昭和のおっさんとかはついつい思ってしまうんですが、母語でさらりと内容把握しながら人物の表情や背景の小道具などをきちんと見てたほうが正しいのかもしれない、楽しんでるのかもしれない、などと思いつつ、翻訳小説がどうとかいう時点で、そもそもいまの潮流からズレてんのかも……、とため息が出ました。どっとはらい。

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