藍の言葉をあなたに

水無月睡臥

第一話 アオイとアイ

 迷い込んだ世界は、ただ青かった。宙に魚が泳ぎ、足下には水がそよいでいる。街灯はどこかほの暗くて、僕をみつめる彼女の視線が、なぜだか僕の心臓を突き刺した。






「ぼっ、僕はあなたの事が好きですっ! あのっ、ももっ、もし良かったらお付き合いして下さいっ」


 ずっと気になっていた人だ。僕は勇気をだして、ついに気持ちを伝えた。僕は知っている。言葉に出さなくては何も伝わらない。だから僕みたいな力のない奴は、言葉にするしかできない。それだけが自分を表現できると手段だと思っていた。


「はっ!? えっ? そういう趣味はないんですけど?」


 清楚で可憐なナツミさんに鼻で笑われてしまった。友達で良い感じに話せていたと思っていたけれど、それは僕の勘違いだったみたいだ。彼女の笑顔が大好きで、惚れてしまったけれど、迷惑だったみたい……


 また、後悔と悲しみに暮れる。この感情は一度や二度ではない。非力な僕には、言葉と誠実さだけしか取り得が無い。何度も自分の心を言葉にした。清廉に振る舞った。その度に打ち砕かれた。

 もうこれで最後にしようと思う。それを何度も繰り返した。それも、もう限界だ……




◇◇◇◇◇◇




「母さん。僕、今日は学校休むね」


「あっ、アオイ何言ってるの? 具合でもわるいの?」


「うん、少しだけ……優れない」


 特に身体に不調があるわけではない。ただ心が痛いだけだ。急に具合が悪いという僕に母さんは心配をした。不安そうな顔を見るとつい頑張りたくなってしまう。


「冗談だよ、今日も元気に学校いくよぉ!!」


「そう、よかった! アオイは元気なのが取り得だもんねっ」


 母さんのホっした顔が嬉しかった。嘘は嫌いだ。大嫌いだ。清く正しく生きなければいけない。嘘なんて吐くべきじゃない。なのに、この時だけはそれができなかった……


 学校に行く気にはなれなかったから、近くの公園をぶらぶらと歩いた。風が気持ち良くて、雲は揺らいでいて、悩みなんて空のどこにも無くてさ……何も考えなくていい時間が好きだ。


 学校が終わる時間までそうしていた。そろそろ家に帰ろうかと思っていたら……


「お前さぁ、学校こないで何サボってんの?」

「まじ、キモいんだけど!」

「マジ何なの!? 普通じゃなくねっ?」


 ナツミさんの取り巻き達が僕を取り囲んだ。冷ややかな、それでいて、ニヤニヤと楽しむような視線が僕を突き刺す。


 僕は負けたくない。負けたら駄目だ。だから僕の思いを伝えた。僕は自分にだけは嘘を吐きたくなかったんだ。


「うっ、うるさい!! 僕はぼくだっ! 僕の気持ちを伝えたかっただけだっ!」


「それがキモイって言ってんだよ!!」


「人が人を好きになることの何が気持ち悪いって言うんだっ!?」


 そう、人が人を好きになることは何も間違っていない。絶対にそう思う。思っていた。僕は間違っていない。はずだ。


「人が人とかそうゆうんじゃなくてさぁ、女が女好きになるとかキモくね?」

「うっはは キモい まじキモイっ」


「ちがうっ! 僕は、ボクはっ」


「女のくせにボクとか言っちゃうのもキモいんですけどぉ」

「ボクちんおやすみぃ」



 違う!! 違う! ちがうんだ……違うと言いたいのに言葉がでなかった。何も言い返せずに、ただ言われるだけだ。僕はこの日、また負けた。


 もうどうでもいいって、そう思う。そう思いながらフラフラと街を歩いた。何処をどう歩いたかなんて分からない。下を向いて、ただ足の赴く方に移動するだけ、ここが何処かなんて、どうでもいい。

 しばらく歩いていると、見たことのある風景にたどり着いた。偶然なのか必然なのかはわからない。

 崖際の原っぱだった。安全柵の向こうには崖があって、その下には川が流れている。どこか懐かしい場所だった。


 見覚えのある風景を懐かしんでいると、急激に吐き気を催した。頭がクラクラして、目の前がぐわんぐわんと揺れている。道端にでも吐いてしまおうかと思い、足下をキョロキョロ見渡したけれど、丁度よさそうな場所はない。そうしている間にも目眩は酷くなって、グルグルと視界がまわり始めた。


 何分、いや何十分経ったかも分からない。何とか、少しだけ目眩が治まり、やっとの思いで顔を上げたら……



 そこには見たことのない景色があった。目眩も吐き気も何もかも忘れて嘆息した。



「あっ、ああぁ!」


 なんて綺麗な藍色なんだろう。どこまでも深く青色と藍色の交ざった世界が広がっている。これが現実なのか、不調が及ぼす幻想なのか分からない。ここがどこかも分からない。ただ藍くて青くて、ただ綺麗で、宙にはお魚が泳いでいて、足下には薄く水が広がっていて、街灯が煌々と輝いているけど薄暗い。夜なのか、明け方なのかも分からない。気がついたら靴も靴下もズボンの裾もビショビショだった。空を這う電線みたいなものがノスタルジックで、わずかに人の世界の面影を感じる。


「なに? ここはどこ?」


 右を見ても、左を見ても知っている景色はなかった。ハッとして後ろを振り向くけれど……


 だだっ広い水平線が広がっている。


「ここどこ?」


 同じ事をもう一度呟いてしまう。急に自分が何処にいるのか分からなくなって、急に変な世界に来てしまって、戸惑うしかない。

 どうやったら戻れるのか、家に帰れるのか。それだけが不安になって心臓がバタついてしまう。


 辺りを見回すと誰もいない。いなかったのに……


 ヒタヒタと足音を立て、遠くから少女が近づいてきた。可愛らしい女の子。顔はまだ見えない。ゆっくり近づいてくる姿が何故か怖かった。あれはこの世のものではないと、本能が告げている。怖い、逃げないとだめだっ

 僕は少女を背にして走ろうとした――その瞬間、それを見透かすように少女は口を開いた。


「逃げないでっ」


 少女は「逃げないで」と、確かにそう言った。幽霊やお化けの類いにしか思えなかったけれど、逃げないで欲しいという懇願は、彼女と意思の疎通が可能と言うことを証明している。

 正体は分からない。孤独なこの世界で彼女は頼りになる存在なのかもしれない。色々と話してみる価値はある。そう思って、彼女がここまで歩いてくるのを待った。


 少女が間近まで来るとやっと分かった。私より少し背が低く、年下だろうか。改めて顔を見てみると……


「ひっ!?」


「なんで怖がるの?」


 目の前で顔を見ているはずなのに、表情が見えなかった。まるで絵の具で雑に塗り潰されているみたいにモヤがかかっている。


「そんなに怖がらないで」


 少女が首を傾げてそう言った。状況が分からない中、顔の見えない相手を怖がらないわけがない。


「でっ、でもっ」


「なんでそんなに怖がっているの?」


「だっ、だって……君はその、顔が……見えない」


「ふーん、見えないんだ……」


 少しだけ、がっかりしたように俯いた。その後、私を値踏みでもするように少女はしばらく私を見ていた。私はこの少女に聞かなきゃいけないことが沢山あるはず。中々言葉にできないでいると


「ねぇ、名前教えて」


「なっ、なまえ?」


 唐突に名前を聞かれた。自己紹介をする前に色々聞きたかったけれど、これも大事だ。隠す必要なんてないから私は躊躇もせずに答えた。


「僕の名前はアオイ。藍染めの藍の字、一文字でアオイって読むんだ。そう、丁度この世界みたいに綺麗な色のことなんだっ」


 力を入れて説明をした。自分の名前は大好きだった。両親が付けてくれた名前だ、青よりも碧よりも、もっと深くて澄み切った色。清廉で穏やかで優しい色。そんな願いのこもった名前。僕はこの大好きな名前を快く教えた。


「……ふーん。アオイっていうんだ」


 せっかく熱を込めて教えたというのに、期待した反応はなかった。どこか寂しげでいる。

 だけど僕は名乗った。不気味な相手だが名前を聞かれた以上、こちらも聞かなければ失礼になる。


「あの、きっ、君の名前はなんていうの?」


「…………」


「あのっ、君のなまっ」


「…………ぃ……ぼっ……ぁ……ぃ」


 俯き、暗い感じでボソボソと喋っている。僕は上手く聞き取れなかった。


「すまないっ、もう少しはっきり言ってくれないと聞き取れない」


「ァィ……アイの名前はアイだよ」


 少しどもった後、ようやく聞き取れる声で名乗ってくれた。


「アイって言うんだね。じゃあアオイとアイで僕たち名前が似ているね」


 そう笑いながら言った。笑顔で接して、快く自己紹介をして、アイと名乗る少女のご機嫌をとる。そんな打算が全くなかった訳ではない。それを見透かされたのか、あるいはそれ以外の何かか……


「アイはアオイのことが大っ嫌いっ!」


 顔が塗り潰されて見えないにもかかわらず、その表情に怒りを抱いていると感じた。

 迷い込んだ綺麗な世界。僕の胸には、これ以上ないほどの不安と焦燥が溢れかえった。今すぐにでも、ここから逃げ出したい。

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