眼差しと

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「ねえ、私と付き合ってよ」

 明日も見えなくなるような、どこまでも広がる暗闇の中。目の前のメアリーと名乗った人は、僕に泣き笑いをして言った。





「ねえ、待って」


 灰色に照った道を歩く、梅雨時期の一日。後ろからの声にも振り返らずに、僕は学校へと歩いていた。

 そこからすぐ、歩道側に見える一つの影。


「ん、おはよう」

「ん。じゃない」


 横を向いた僕の目に、走って息を切らした式波が映る。


「ねえ、いつも思うんだけど。折角家近いんだし、もう少し先に行くの待ってくれても良くない?」

「最近は遅刻ギリギリまで待ってるから、その苦情は受け取れないなー」

「じゃあインターホン鳴らしに来てよ、いっそ連打でもいいから。わかりやすく焦れたら、もっと早く出れる気がする」

「僕らもう高校生だよ? 幼馴染って言っても、もう家の前まで迎えに行く、は無しでしょ」

「……確かに。でもさ、後ろから追いかける側って挨拶どのへんでしたらいいかわからないんだよ」


 顔を上げると、式波が息を整えていて。走っている間に乱れたのだろう、そのまま前髪の調子を整え出す。


「そう。……式波、今日も髪整えてくるの忘れたの? 最近多いね」

「え、今日は違うよ? 風に髪が負けて崩れただけ。というか、毎日ヘアアイロンかけてくるのって時間かかるんだから」

「それは起きる時間が遅すぎるからじゃ。何分くらいかかるの?」

「二十分。朝の二十分だよ? 重いでしょ、朝には」


 そう言って式波は親指以外を櫛にして、目にかかった前髪を除ける。


「全く、女子がどれだけ身だしなみに気を使ってるかをもっと知るべきだと思うんだよね。主に私のために」


 式波が、手鏡から顔を上げて僕を見て。その瞳の光が眩しくて、僕は咄嗟に目をそらした。


「式波のために?」

「うん、だって私以外のことろくに知らないじゃん」


 酷い。そんな、人のことを石をひっくり返したら出てくる虫みたいに。


「……言い返したいけど、ごもっとも。とにかく、式波は頑張ってるんだよね。ごめん、おはよう」

「ん、わかればいい、おはよう。どう、これでいい感じ?」


 話を上手く回せない僕。これもきっと、僕が根暗だからなのだろうか。そう思うと、少し胸がすいた。


「似合ってる」

「よし」


 手鏡をしまった式波は、さっきまでよりも歩調を上げる。少しだけ置いていかれた僕が、それにコンマ何秒遅れて並ぶ。そして間もなく、小さな会話の花が咲いた。

 これが朝、日常だ。でも、学校についてからの日常とは少し違う。『日常』って言葉は過ぎ去ることを前提にするけど、この時間は無くならないでほしい。

 ただひたすらに愛しい時間。青春とは呼べなくても、それぐらい脆くて失いたくない時間。

 式波からだけ。他の人からは得られない、安心感というか、安堵感みたいな物が。

 僕が怖がらなくていい家族以外の唯一の人、いや、もしかすると家族を入れても。それが僕にとっての式波だから。

 まあ、僕がそんなことを思っていることなんて、式波にとっては関係なくて。僕はポニーテールの中に、一筋のオレンジ色を見つける。


「式波、何か今日、髪が少しだけ染まってる?」

「あ、気付いた? エクステ付けてみたんだけど。初めてだからこんな感じでいいかわからないんだよね。どうかな」

「似合ってる」

「良かった、ありがとう」


 心に嬉しさと哀しさ、勝手な思いがずしんと募り。瞬間、足が鉄みたいに重くなった。

 気にし過ぎかと思うけど、それでも意識せざるを得なかったから。

 先々月にネイルを覚えたと自慢されて、三週間前、良い髪留めを吟味させられた。

 そして数日前からは、手鏡を持ってくるようになった。

 式波を誉めるその言葉で、前を向いて歩くその足で、花の下の小石を一つ道路に蹴った。それは壁の方へ飛んで行き、跳ね返って穴の中、下水道へ吸い込まれ。意識していないと気づかないような、水底からの小さい音。下水からポチャンと音がして、それきり何も聞こえなくなった。


「なんかメイクとかあんま調べたことなかったんだけど。思ったよりずっと奥は深いし、時間も笑えないくらいかかっちゃう」

「式波、別に元々顔整ってるんだからそんなに頑張らなくても大丈夫だと思うんだけどな」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、今のうちにしとかないと、こういうことは。大人になったら失敗できないし、第一メイクとかは少しぐらいやっといた方が高校生っぽかったりするのかなあって思って。じゃない?」

「確かに。今のところ失敗は見たことないし、上手っぽいね」


 顔が暗くなっていないか気にしながら、精一杯の言葉で褒める。


「褒め上手。それが他の人にも出来たら友達も少しは出来ると思うんだけど」

「それは難しいかな」

「そんなんだからぼっちなんだよ、大学行ったら私もいないんだよ? 多少話しかけたりできないと」


 それで、式波は少し上機嫌になったけど。そこからすぐに怪訝そうな顔になって、焦らせるように僕に言った。 


「そんな大げさな言い方」

「神谷は大丈夫じゃないよ? 正直」

「頑張るよそうなったら」

「なるって言ってるのに……」

「心配ありがとう、どうにかする」

「うーん、もったいない」


 話を流してしまおうと、肯定でそれ以上の追及を抑え込む。案の定式波は勢いをなくし、気持ち顔も萎んでいった。

 話の流れが一つ区切れて、僕はもう一度下を向く。

 だって、そうだ。式波が正しいことなんて、とうのとっくにわかっている。

 今から僕が人と普通ぐらいに接せるようになるのは、多分僕が思っている、いやきっとそれよりも難しい。

 それでも、いつかは出来るようにならないといけない。それは僕も痛いほどわかっていて、今もその痛みに咽いでいるのに。

 式波と話せているのは本当に、僕の一切とは別で、式波が幼馴染で、そういう壁がない存在だからで。式波以外と接する時なんて、僕はただ流されているだけなんだから。 


「まあ、今は式波がいるから僕は幸せだし。その後の事はその時考えればいいよ」


 そうかなあ、と言う式波。

 我ながら酷い奴。だっていつかは離れなきゃいけない相手に、こんな縛り付けるような言葉を言うなんて。

 いきなり身だしなみに気を使うようななった理由なんて、式波に好きな人に出来たからに決まっているだろう?


「え〜? まあ、それならいいけど」


 珍しく顔を伏せる式波。俯いていて良く見えないけど、嫌な顔はしていないみたいだ。

 それならまだ、まだ大丈夫。式波から飽きられたらもうどうしようもないけど、少なくともまだその時は来ていない。だから泣くのも悩むのもその先も、今考える事じゃない。

 「本当にそれで良いのか」って、もしかしたら言われるのかもしれない。もしも式波に相談なんてしたら、絶対に言われるんだろう。


「ところで式波、今って何時だと思う?」


 スマホを懐から取り出して、歩幅を早めて言う。式波も腕の時計を見て、その目を大きく見開いた。


「え、もうそんな時間?」

「言ったじゃん、遅刻ギリギリまで待ってるって」

「あー、言ってたような、ごめんごめん。走る?」

「まだ一限目間に合うはずだから、走ろう」

「わかった!」


 先に走り出した式波を見て、心が薄い塩水で満たされて。

 僕は幸せだ。その言葉だけを抱きしめて、一本道を走り出した。



 ◎



 放課後のチャイムから五分。チャイムで目を覚ました僕は、眼と腕の筋肉で数学の板書をしていた。

 しとしと降り続く雨音の中、独りでシャーペンを動かし続ける。すると、前の方からドアの音。

 雨雲で薄暗くなった教室の中を、ゆっくり式波が歩いてきて。何の用だと言うような顔の僕に呆れて言った。


「神谷、本当に寝たんだ。授業聞いてたら夜睡眠削らなくたっていいのに、馬鹿だねえ」

「ん……。いいじゃん、寝たんだから頭は冴えてるし」

「学校の机で寝る一時間と家の布団で寝る一時間、どっちの方が健康にいいと思う?」

「……学校で一時間寝るのと、家で一時間延ばすの、どっちの方がいいと思う?」

「聞き返されても困っちゃうなあ」


 図星でもそれを認めると自分に辻褄が合わなくなるから、僕は減らず口を突き返した。すると、少し変な物を見る目だった目と顔が、ほんの少しだけ晴れやかになる。


「言わないとわからないみたいだから言うけど、心配してるんだからね? 幼馴染として」

「心には留めとくよ。……よし、板書終わり」

「神谷、全部内容理解した?」

「ある程度は」

「嘘つき、顔曇ったよ今。数学弱いんだからさあ」

「英語は強い」

「反論になってない。残りはどうするつもり?」

「どうにかするよ、追い追いおいおい

「……仕方ないな。私のノート貸してあげるから、明日の朝に返して。所々にメモ書きあるから、丁寧に板書を模、写、した神谷のノートよりもいいと思うよ」


 式波は鞄を机に置いて、罫線に沿って文字が整然と並んだノートを取り出す。


「何もそんないい方しなくても。……ありがとう」


 パラパラとノートのページをめくる。マーカーペンが一ページに三か所くらい散ってる、本当に読みやすいノートの見た目。先生が話すちょっとした解き方のヒントがいい感じにまとまってる、本当にメモが上手い人のノート。これから何を言われるのかわからないのにどうしてこんなに綺麗に書けるのだろうと思わずにいられない。


「ノート上手だね、式波」

「ん、それでやったらまだわかるはず。だから帰ろう。あ、聞きたいとこあるなら教えるけど。教えられたい?」

「嫌」

「じゃあ一緒に帰ろう」


 僕の机に手をついて言う。ロングヘアがペンを持つ手にかかって、心臓が少し跳ね上がる。


「あれ、今日は友達と帰らないの」

「私電車使わないから、どうせすぐ別れるし。たまには神谷ともいいかなと思ってさ。駄目?」

「そうなんだ、いいよ」


 雲の隙間から光が漏れて、きらりと髪留めに反射した。

 僕との思い出としての式波の髪留め、されど式波が誰かと思い出を作るための髪留め。その事実がぼんやりじんわり染み入って、体をゆっくりと満たしていく。それと引き換えに出ていったのは、僕の思い出の現実感。


「なんかごめん、色々頼って」

「そうだけど、わかってるならいいかな。そんなに気にしなくていいよ? 幼馴染だし、そういう義理事は神谷はちゃんと守るって知ってるから」

「ありがと。……恩も、ちゃんとある程度は返すようにするよ」

「そこは利子無しでも、全部返すって聞きたいんだけどなあ」

「うーん、それは」

「いいよいいよ。行こう? 外の雨、後数時間でもっと強くなるらしいからさ」

「……ありがとう」


 おかしいな。最近はなんで、こんなに式波を意識してしまうんだろう。今まで、なんとかやってきていたのに。

 まるで、これじゃ、これじゃ、まるで、式波のことが。

 いや、そんなのじゃない。僕は式波が大切で、だから離れたくはないし寂しいけど。でも彼氏ができたと言うなら祝福しないといけないんだ。そうだろう?


 ”        ”


「折りたたみは持ってるよね?」

「あれ、式波。何か言った?」

「え? 折りたたみ傘は」

「いや、その前」

「何も」

「え、そっか」


 おかしいな、今、何かが聞こえた気がしたんだけど。

 一瞬浮かんだそんな疑問も、すぐ露と共に消えていって。僕は式波を追って、外に向かった。



 ◎



「よっと。……そこそこ雨強いね。靴の中濡れないと良いけど」


 昇降口。傘を前に向けて広げた瞬間、ビニール傘に当たる雨水。空からのトツトツとした雨粒と、ボトボトとした屋根からの水滴が混ざって不思議な音を奏でている。

 梅雨の雨が、町全体を包んでいた。


「そうだねー、なんか久しぶりじゃない? 神谷と帰るのって。私が他の人と帰ってるからだけど」

「うん。友達いるなら友達大事にしたほうが良いだろうし」

「友達いないのによく言うね」

「もう少しくらいためらってくれないかな、そういう事言うのは」


 雨は、晴れより物の境目が際立つ。

 ぼんやりとした世界じゃない、この町のことを意識して。道行く人々が、一人一人区別されて見えて。だからこそ、朝よりも近くに式波がいて、二人なことを意識して。


「だってねえ。私いなかったら一人でしょ? 神谷」

「たかだか誰にも相手にされてないだけだよ」

「それが致命的なんだよ。神谷私の友達に、気持ち悪いって言われてるんだよ? 表情薄すぎて。それ聞くの辛いんだから私」

「う、それは……」


 式波が傘を回して言う。水気を吸ったその言葉は、普段のそれよりも重く。話して終わり、風と一緒に消えるいつもの感じとは違って。ゆっくりと、心の中に落ちていく。


「かくいう私も、神谷が何考えてるか今までわかったことないし」

「嘘だあ、最近は会ってなかったとしても、それより昔はあったでしょ、何か」

「何も考えてないだろうなと思ってた」

「それは怒っていいところ? 駄目なところ?」

「冗談だよ」

「良かった」

「でしょ。……ああ、神谷と帰ってると、やっぱり昔が恋しくなる」


 傘を持つ体で肩だけ伸びをしながら、遠くの方を見る式波。


「何いきなり、今日嫌なことでもあった?」

「あったことは、神谷と帰ってることかな? ……ちょっと、ごめんって。違うよ、神谷と帰ってると、小学校の頃思い出すってだけ。おかしいでしょ、一緒に帰りながら一緒に変えるの嫌って言うなんて」


 流石に冗談だろうと思ったけど、それでも少しは気が沈んで。思わず背を向けた僕に、式波は被せるように言った。


「昔?」

「うん」

「なんで。高校でわざわざ変わったんだから、昔とかもうそんな好きじゃなかったんじゃ?」

「そんなわけ。大人しいとからかわれやすいし、その度神谷に助けてもらってた自分が辛かっただけで、それ以外は大人しいままのほうが良かったよ。小学校の時は今よりずっと、神谷といる時間も長かったじゃん?」


 式波の顔が、ほんの少しだけにやけていた。多分何かを期待されているんだとは、いつもの式波の癖だからわかるけど。

 でも、何を待たれているのかを決め切るには、少し情報が足りなくて。


「そうだね。何、友達多いのは嫌なの?」


 小学校の時の式波は、僕が話しかけに行くまではずっと本を読んでいて。だからたしかに人脈も狭いし、助け船を出すこともなかったとは言わない。

 でも、今は真逆だ。僕はあの時よりつまらない形で、昔の式波の立ち位置にいる。だから、何かあるならそれだと思ったんだけど。


「……察し悪くない? 神谷」 


 どうやら外れていたようで、少し冷めた目で僕を見た。


「ヒント欲しい」

「いや、言ったら全部終わりでしょ」

 

 僕に背を向けて、ため息をつく式波。そのまま「あーあ」と不満げに言って、前を向いて無言で歩き出す。

 するとすぐ、間髪入れずに顔をしかめて。


「……え、やばい。ちょっと待って」


 一瞬血の気を引かせた後、また背を向けた。


「どうかした?」

「待って」

「待った」

「そういうの良いから、本当に困ってるの! 今」


 背を向けたまま、僕の声を潰すように手のひらを向けてくる式波。チャックを開けた学生鞄の中、隙間から中を除いている。


「気になる」

「じゃああの、えっと、ノー」

「ノー?」

「……ノー、NO。 神谷に言うことなんて何もない」

「……本当に?」

「そうだって言ってるじゃん! あーあ、私先帰るね」


 そして突然怒り出し、僕が何を言うよりも先に一歩先を踏み出して、そのまま前に行ってしまう。


「ごめんって。僕が悪いのかもだけど、待ってよ」

「知らない知らない。明日ちゃんとノート返してね、午前に数学あるんだから。じゃ」


 何かやっちゃったのかと思って、焦って呼び止めようとする。でも、式波は耳を貸さないまま、目の前の小さい水溜まりも見ないで、飛沫と共に行ってしまった。



 ◎



「何しよう」

 

 ぼんやりと家に帰って、夕飯も食べて少しした二十二時前。LINEで謝って二階に上った後、自分の部屋で暇になっていた。


「さっきは謝ったけど。……何で怒ったかわからないのに、何をどう反省しろと」


 昔の話をしていたら、式波が怒り出して。その理由はというと、今も全く知れたことじゃない。


「なんかやだなあ。そうだ、ノート返さなきゃいけないんだからやっとかないと」


 明日にも数学があるって言ってたっけ。返せと言われたんだから、その前に使わせてもらわないと。

 部屋の入り口横に置いた鞄から、一つだけ真新しい見た目のノートと、少し古びてきた筆箱を取り出す。


「友達が多くなって嫌とかじゃないなら、何で昔の話なんか」


 勉強机に腰を掛けたら、昼の様にゆっくりページをめくる。ざらざらと指に当たる紙の感触、綺麗に保管されて黒鉛の付着していないノートの縁。それに不思議さすら感じつつも、それ以上は気に留めずに少しゆっくり目に右指のページを左に弾く僕。すると、その時。


「ん」


 本当に一瞬の出来事。最近のページの左上の落書きを見て、僕の指はめくる動きを止めた。

 痛みのないゴムを当てられたような。白いページの黒い記述に、僕の意識は閉められた。まるで、意識に覆いでも被されたかのように。

 なのに、眼だけはそこに狙いを定めて離れない。危険信号にも似たそれは、受け入れ難さのようなもので。なぜか、どうしてかは説明できない。

 ふと目に入ったその文字を見て、いきなり頭が真っ白になった。


 ’どうやったら透と進展する?’


 先週ぐらいのノートに、赤鉛筆で書かれていた言葉。

 だってこの名前は、透は。もう数年前には式波も呼ばなくなった、僕の下の名前じゃないか。なんで、今にもなって僕のことを。

 理屈で考えてみろ。式波は変わって、僕は変わってない。僕を意識するくらいならもっと他の人だ、僕なんて良くないんだし。

 だけど、ここにあるのは僕の名前で。

 いや、でも、僕なんて。そんなはずは。


 ’透、ファッションとか疎いし、どうしたらいいんだろう?’


『全く、女子がどれだけ身だしなみに気を使ってるかをもっと知るべきだと思うんだよね。主に私のために』


 さらにめくった1ページが、今日の会話と重なった。

 あれも、僕で試していたとかじゃなくて、本当に僕に対してのことで?

 いや、そんなことない、

 でも。仮に、仮にそうだとしたら、ピースは少し揃いすぎているぐらいで。


 ’好きって辛い、友達より優先したくなるのに’


『小学校とかは、今よりずっと神谷といる時間が長かったっけ?』


 少し離れたページの方に、また同じような言葉があって。

 僕は、そのノートを閉じた。どんどん強まっていく嫌な予感が、それ以上読み進めることを許してくれなかったから。

 大丈夫だ。確かに順々に読めばそうなってしまうけど、毎授業その流れに則っているとも思えない。きっと好きな人だけは、僕以外のことを指しているさ。

 だって僕は式波の、ただの幼馴染なんだから。そうじゃなきゃ、僕なんて。


 ”流石にその理屈は無理あるでしょ、わかってるんでしょ?”


 本当にただの幼馴染から、あの言葉が出てくるか、だって? 

 いや、出てくる。だって現に目の前で、幼馴染の式波から出てきているじゃないか。そうだ、そうに違いない。


 ”本当に君にとって式波は、ただの幼馴染なの?”


 ああ、そうだ。そうだから、それ以上続きを聞かせるな。


 ”本当に幼馴染ってだけで、好きでもないやつに髪留めをわざわざ選ばせたり。ありえないって思わないの? もう確定だよ、諦めなって”


 そう思いたいのに、なんで。

 さっきまで、こんなこと起きたこともなかったのに。

 僕のような声。昼間に少し聞こえた気がしたものが、はっきり今になって聞こえて。なんでノートを閉じたのに、僕の頭は真っ白なのに、会話が続いていくんだよ。

 僕を抜きにして、僕主題の話が進んでいっているような。それが、これまでに感じたことがないぐらい気持ち悪くて。

 ノートを閉じると、呆然とした心地から急に真っ白だった意識が戻ってきて。不明瞭だった気持ち悪さに、『不愉快だ』と色がついた。

 しれがどうしようもなく嫌で、僕はベッドの上でうずくまる。でも、全然それは消えない。


 ”君は幼馴染特権で、大して魅力もないのに彼女に好かれたんだ。可愛そうだね、彼女幻滅するよきっと”


 冷たい床に落ちた。不愉快さが全身に伝播してきた。

 その時も脳に鮮明に、まるで耳を介していないみたいに聞こえてくる声。


 ”逃げるなよ、透”


 耳を力いっぱい塞いでも、それは鮮明に聞こえ続けてきて。

 僕は、必死にそれから逃げようとした。

 この声が聞こえてこない場所に行きたい、少なくともそれは家じゃない。こんな、家族がいるような場所じゃ、あらゆる音が消えはしない。


 独りになりたい。この光景から、この不快感から逃げ出したい。ここよりもっと、もっと誰もいないようなところへ行きたい。


 階段の煩い音がして、僕が一階に現れて。自室、玄関そして外。僕は傘以外何も持たずに、大雨の中へと飛び出した。



 ◎



 ただ足だけが前に出続け、鮮やかな藍のズボンが暗い紫になったころ。ようやく少しずつ落ち着いてきて、歩幅を緩め歩いていた。

 一体どこに来たんだろう、そう思って周りを見渡す。いつも使う通学路とは正反対にある、薄ら寒い雰囲気の道。運が悪かったら誘拐でもされるんじゃないか、そう思わされるような街灯の少ない道。それが今だけは安心できて、僕は電灯に導かれるように歩く。

 

 「最後にここに来たのっていつだっけ。帰るのは……まだ嫌だな」

 

 家、家、家。何もない道を歩いていくと、使われなくなった踏切に出会う。丁度いい、ここで少し休んでいこう。そう思って振り返ったら、左側に公園が広がっていた。


「こんなところに? まあ、家は多いし人も来るか」


 休むにはこっちの方がいいと思って、特にためらわず敷地に入る。すると、公園の中がきらりと光って。もっと進むと人影が、綺麗な青髪の同い年くらいの女性が、ビニール傘を差してブランコに座っていた。外からきらりと光ったのは、あのビニール傘だったらしい。

 傘をブランコの前側に差しているから、後ろ側の雨は防げていなくて。後ろ側のことを想像すると、少し肌寒くなる。

 

「……」


 すぐにその人も僕のことに気付いて目が合った。

 一人で休もうとしていた手前、本当は立ち去りたかったけど。目が合うとそれも気が引けて、僕は立ち止まって様子を伺った。


「どうしたの」

「え?」


 すると、女の人から口を開いた。声楽でもやっているのか、濁りの少なく聞きやすい声。

 でも、邪気。ものすごく歓迎されていない、そんな気がする声だ。性犯罪のニュースが流れた時に家の中に広がる、あの嫌悪感に似た拒絶の声。心なしか、睨まれている気すらする。


「何で来たの、ここにこんな時間に。いくつ?」

「……十九」

「嘘。雰囲気いいとこ十七とかでしょ」

「そう。じゃあ、そっちは?」

「十九、大学生。十九歳が周りにいっぱいいるんだから、騙せるわけないじゃん。名前は?」

「名前?」


 突然始まった質問攻め、目つきは悪いままの彼女、警戒しきったままの僕。突然始まったその流れに、思わず僕は身構えた。

 なんか変だ、この人は。

 明確に何かが怖いんじゃない。気持ち悪い理由があるわけじゃない。

 ただ、この場の雰囲気なんかじゃなく。何かがズレているみたいで、気味が悪くて。


「不審者だと思ってるでしょ」

「え、いや」


 当たり前。知らない人、それもこんなところにいる人なんて、信用しろってほうがおかしいし、思うことぐらい許してほしい。


「君もだよ。なんなら私は成人で君は未成年だから、私は君を交番に連れて行ける」

「それはちょっと、嫌」

「名前教えてくれたらやめるよ」


 でも、それすらお見通しで。じゃあどうすればいいんだと、誰に言うでもなく躍起になって。僕は彼女のいるブランコの側、柵のところまで歩いていく。


「……神谷」

「へえ。で、何で来たの? 徒歩でとか、つまらないこと言ったら通報するよ」


 僕の目をよく覗き込む彼女。その目は、焦点がわからない変な感じで。目が合っているのに、でも合っている心地がしなくて。まるで、目よりももっと奥の方に立ち入られているような、背筋が凍る嫌な眼差し。


「家出。家出って言ったら言葉足らずだけど、そんな深く言う義理はないでしょ」


 気迫で負けたらいけないと思って、僕も彼女にそう言葉を吐く。

 でも、どうもそれが彼女にとっては正解みたいだった。


「おお。家出、しかも少し変なことがあっての家出。つまり、親と揉めたとかでもないと」


 気づきにくいくらいに口角を上げて、濡れたブランコに座り直した彼女。

 その時に発された言葉の軟化で、僕も絆されて緊張が緩み。視線を上げたその先に、彼女の瞳がよく映る。

 まるで図書館で読みたい本を見つけたときのような、人の恋バナを聞くときのような。大きくも細まってもいない、でも高熱を帯びた瞳。

 そしてその目元には、大きな隈と腫れがあった。


「ねえ神谷、家出初めてでしょ」

「まあ、というか勘良すぎ」

「合ってたんだ。というか、夜中にそれは脇が甘いよ? 個人情報も自衛しないと」


 先に一人でいた方が言うことなのか、とぼそりと悪態をつく。事実僕の人間性次第では、今頃彼女が危なかったのだから。


「君もたかだか19じゃん。なんなら僕は男で、君は女」

「私、私かあ。確かにそうだね、よく考えたことないや」

「それでよく人に言うよね」

「いや、なくはないけど。音もなく近寄られて刺殺とかはもうどうしようもないから、それは外に出た時点で自己責任でしょ」

「そういうもの? ……でも良くないよ。僕が頭おかしかったら今頃危ないし」


 達観しているのか、もっと別の理由があるのか。僕の言いたいことが彼女に入っている気がしなくて、不気味な感じがずっと抜けない。

 いや、違う。不気味なのは。

 この人の目が、一回も僕の瞳から離れていないからだ。僕と最初に目が合った、一番最初から。


「へえ。なんか意外」


  試しに僕から目を離しても、戻したときにはやっぱりそこにある瞳。その上その目には温度があって、「目を合わせられている」のをひしひしと感じるような。


「何が?」

「家出する人ってもっと倫理のタガとか外れてると思ってたんだけど、君はまだ優しいんだね」


 まるで目をそらすのを許されていないような、吸い込むような瞳で彼女は言う。闇に紛れて、冷や汗が頬を伝った。


「いや、最低限の道徳」

「はー、最低限の道徳、なるほど……」


 何を言うのかと困惑する僕に、本当に不思議そうな反応の彼女。

 何かが変な人だとはもう十二分にわかっていたけど、蛇に睨まれた蛙とでも言うのか。いつの間にか、僕は逃げられなくなっていた。


「ねえ」

「何?」

「ちょっと興味出てきた、私はメアリーって呼んで。ねえ、神谷は何で家出したの?」

「え」


 もう少し、返事だけして話を聞こうと思ったけど。

 メアリーと名乗った彼女はそう言って、僕の方を見て固まる。


「どうしたの、口開けて。大丈夫、聞いておいて笑わないよ」


 言われて、眉間にしわが寄っているのに気づく。

 まだ、言っていいか怖い気持ちがあった。だって。今考えてみると、家出をするには、あまりにもしょうもない理由のように思えたから。


「本当に?」

「本当本当」

「それなら。……今日、幼馴染にノートを借りたんだ」

「うんうん」

「でさ。それに、僕に対する好意、みたいなのが書いてて」

「へえ。好きなの? その子のこと」

「……」


 それが、今もよくわかっていない。水と油のようでも、よく混ざったミルクコーヒーでもない。溶けきってなくて三々五々というか。まばらにちょっとずつ点在して、好きなのかもと、そんなことないが戦っているみたいで。


「うん、聞き方を変えようか。嫌いではないよね?」


 言葉を止め黙りこくった僕に、メアリーは追加で聞き直す。その後の質問に、僕はやっとのことで頷く。


「へえ、君も確かに少し変だね。ねえ、自分嫌い?」

「え。わからないけど、多分」

「じゃあ中々だ。で、神谷はそれにどう思ってるの? 好意を持たれていたっぽいってさ」

「考えたことも無かった。今日ノート見るまで、絶対僕以外の誰かが好きなんだと思ってたから」

「そうならそうで、悲しいじゃん。たとえ自分が好きじゃなくても、なんとなく自分がいらないって言われてるようで」

「……でも、人の恋は応援すべきでしょ?」


 そう、僕がメアリーに答えた時。


「なんで?」


 彼女の発したその言葉で。まるでシャッターが降りたかのように、僕の思考がプツンと切れた。


「……え?」

「いや、なんでよ」


 だってそれは、何でを聞くまでもなく、「そう」じゃないか。否定のしようなんて、あるはずもない。


「いや、なんでも何も」

「自分が好きな人は自分が手に入れるのが一番嬉しいでしょ」


 僕がどこから何を言えば良いのかを考えていると、彼女はいつの間にかブランコから立っていて。


「自分の私利私欲に沿わないなんて変だよ。私達は一番最後には一人になる、なのに自分本位で動かないなんておかしい。だから、最低限の協調性以上なんていらない。でしょ?」


 一歩、僕に近づいてきた。

 思っていたよりも背が大きい。僕が百七十二センチだから、この人は百七十センチくらいか。

 こんな時でも目が合って、なおも僕を見つめ続ける彼女。その瞳孔がこれでもかというくらいに開いていて、僕は思わず圧倒される。


「え、いや。……好きな人なら、自分以上に大切にしたい。そう思うんじゃ」


 責められているんじゃないかと思いながら、かろうじて振り絞った言葉。それを聞いて、彼女は。彼女はほんの少しだけ笑って、僕に向かってこう言ったんだ。


「なるほど、なるほど。神谷はそう思ってるんだ? …………ねえ、神谷」

「はい」

「好きになっちゃった。付き合ってくれない?」



 ◎



 深く深呼吸をした。そして、まだ遅刻するまでには余裕があることを確かめて。それで、僕は式波の家の呼鈴を押した。

 家の中から音がして、どんどん玄関に音が向かってくる。


「どちらさま、え、神谷!? 何で」

「え、昨日の今日でそれ? 言ってたじゃん、来いって。たまにはいいかと思ってさ」

「聞いてないよそんなの! まだ教科書入れてないからちょっと待ってて」


 ドアを開けた式波の顔が、僕を見るなりみるみる変わった。そのままドアすら閉めずに、廊下の方へ走っていく。玄関に来た時よりも大きい音に、思わず少し笑いが溢れる。

 昨日、僕はあの後逃げた。それほど本気で言ってるわけがないだろうと思ったし、仮にそうならそれこそ逃げたほうが良かっただろうと思ったから。

 どんな風の吹き回しだったのか、今なら気にならなくはないけど。あの時はただ、告白をしてきた時のメアリーの目が、あまりにも据わりすぎていて怖かったから。


「また明日」


 メアリーの昨日の声が、頭の中に反響する。無理やり逃げようとしたのを感づかれてか、さり際に取り付けられた約束で。実のところ、今日の夜を考えると気が重い。

 家で一旦、昨日のことは整理したけど。彼女の「自分の私利私欲に沿わないなんておかしい」という言葉。それと、最後まで僕からそれなかった彼女の目が、今の今まで僕の胸には残り続けていて。その言葉に一回従ってみたかったんだ。


「お待たせ、一体何のつもり?」


 突然押しかけたにも関わらず、ほとんど待たないうちに出てきた式波。

 そのまま僕を追い抜いた式波に、遅れないで後ろをついていく。


「いやいや、何もないけど。ただいっつも遅れてくるから、一回くらいこうやって圧かけてみるのも悪くないかなって」

「二度としないで」

「えー、昔だったらもっと喜んだのになあ」

「昔の話は関係ないでしょ。……あっ! ノート返して、数学の」


 式波が思い出したかのように、いつもより強めの語気で言う。僕もそれで言わんとしているところ、大事なことを思い出した。

 まだ、返事は何もできないじゃないか。

 なんでこれを考えていなかったんだろう、今一番大きな問題なのに。

 昨日から何も変わっていないままの僕。その上今の式波を見るに、百パーセントとは言わないにしろ、ほぼ必ず落書きの事を意識してる。


「ちょっと、聞いてる?」


 そのページは開かなかったことにしておこうか? 読むはずだったページは昨日一回開けたページだし、一発でそのページを開いて、見て理解したらそのまま鞄に突っ込んだ、でもいいだろう。幸いメアリーとは違って、式波はそんなに勘は良くない。

 不誠実だなんて、僕だってわかってる。

 でも、今適当に僕が何かを言うのは、人を弄ぶようなことで、その方が最悪に違いないから。


「ああ、ごめん式波。ちょっと考えごとしてた。えーっと、はい。わかりやすかった、ありがとう」


 だから、ごめん。


「どういたしまして」

「今度からの数学でも見せてくれると助かるなあ」

「駄目に決まってるでしょ、なんで私が神谷が寝るのを応援すんの」

「駄目か」

「うん」

「……」

「……」


 何も続きを言わずに歩く。だけど、横を歩く式波はやっぱり、ほんの少しだけ挙動不審。明らかにノートの内容に対して、僕からの言及を待っていた。

 申し訳ない、息が苦しい、気を遣うのは息が詰まる。

 思い直すと、告白文がそこらに書いてあるノートを渡したんだから当たり前だった。うまいことやり過ごせないかと思ってたけど、このままだと逆に気を悪くさせてしまう。

 というか、こんな式波、珍しいな。なんと言えばいいのか。

 いや、もういいか。

 今まで、言うと良くない気がしていたけど。

 認めるべきだろう。式波が、可愛いんだ。


「式波、そんなに表情多かった?」

「え、何それ。いつもと変わらないけど」

「そっか。……ちょっと待ってね、ノートの中身のこと、ちゃんと色々考えたいんだ。明日も家、行くから」

「え? あ、うん」


 焦りに焦って、口から無意識で出たその言葉。それに、式波はとてもきょとんとした様子に変わった。実際、発した僕もびっくりしていた。

 どうして、こんな積極的な言葉が。無意識で出た言葉と言っても、そもそも僕はこの事を考えたこともなかったはずなのに。

 一体僕の無意識は、どうしてこんな事を?

 あれ、そういえば。式波に引け目を感じなかった頃。それって、いつの時までだったっけ。


「……なんか今日の神谷、変な感じするなあ。昨日寝るの遅かった?」


 口を塞いで考えていたら、式波が話題を切り替える。


「あー。えっと、実はその通り」


 いけないいけない、今は目前の式波に向き合わないと。


「なんで?」

「ちょっと夜に散歩行きたくなって」

「え、じゃあそれからこのノート読んで寝たってこと!? 日跨ぐでしょ、そりゃ眠いわ」

「寝たの大体三時くらい」

「はいバカ、本当バカ。そんなんでよく私の家まで来ようと思ったね、寝ときなよ本当に」


 酷いなあと首を横に振る。式波はそれを押しのけて、さらに寝ときなとダメ押ししてきた。


「思いついたものは仕方ないじゃん」

「動物じゃないんだから、もっと先のこと考えなって」

「動物だけど、僕のこと無生物だと思ってるの?」

「怒るよ? 神谷」

「ごめん」

 

 なんだか、いつもより会話が楽しい。今までよりもテンポも良くて、会話が弾む。もしかして、これがあの人の言っていたことだろうか?


「はあ。それでどこ行ってたのさ」

「公園の方とか、適当に」

「徘徊みたい」

「そんな言い方しなくたって」


 まあいいや、それも後で落ち着いて考えよう。

 話の内容もだけど、質的にも。いつもと違う、新鮮な通学路だった。



 ◎



「よし」


 チャイムが鳴って皆が帰る。今日は式波も友達と帰って、僕は教室に一人だった。


「やっぱり不思議だ」


 朝のことを思い浮かべる。いつもと違う会話は、一番最初以外はしてなかった。なのに、今になってもまだ全然違ったように感じていて。

 二人が普通に話している、それは何も変わらなかったんだけど。

 それでも、一つだけ。思い当たる、いつもと違った箇所が一つあって。


「可愛いもんな、式波」


 朝に思い浮かべたときから、一日ずっとそれが頭から消えなかったんだ。


「もしかして、私欲って、こういう」


 誰の欲でもない、ただ僕だけの願望。そういうことをあの人は言ってたんじゃないかと、僕は納得しそうになる。

 でも、その瞬間。トクン、と、何かが脈を打つ音がした。

 親しいような、不快な感覚。それで、急に学校を出ていきたい気分に駆られる。

 初めてじゃないこの感覚。昨日に感じた、あれと同じだ。でも、なんで?

 あの時は、式波の好意を退けようとして襲われた。今は、全く違うじゃないか。

 何だって、僕は、どうしてしまっているんだ?


『あれ、今日は友達と帰ってないの?』

『……でも、人の恋は応援すべきでしょ?』

『いや、最低限の道徳』


 すると、突然昨日の言葉がフラッシュバックして。


 ”何考えてるの? 良くないよ”


 間もなく、あの時の違和感が。耳の中を伝って来たのではない、まして他人の声じゃない。ただ、声が意識の中に来た。僕の中に、ただ初めからいたみたいに。

 ……昨日の奴だ。あの、忌々しい声。僕を虐げる声だ。


「え?」


 ”こんな自分一人で会話してる君より、式波はもっと交友関係も広いし。ただ偶然幼馴染なだけの君が式波の彼氏だなんて、流石に駄目じゃない? 他の人と帰ってる事の方が、式波は圧倒的に多いんだしさ”


 いや、それは。そこだけ聞くとそうだけど、そこだけで判断するんじゃない、そう言おうとしたんだ。

 でも、そこ以外の僕の強みは、今の僕には思いつかなくて。


 ”ほら、君には何もできないんだ。こんな、どんな権威でもない声にすら言い返せない。でも、それでいい。君は目立たない方が良い。それなら彼女は彼女の好きな人と出会えるはずだし、そのほうが君は幸せでしょ?”


 頭の中が心を刺す。その一言一言が、神経を擦るかのように強く聞こえる。

 なのにどうしてだろう、その言葉が。どうしようもなく理不尽なことを言われてるはずなのに、不思議と凄く心地よくて。逆らった方が良い、それはわかるのに、僕は何も言い返せないでいた。


 ”そうそう。触らぬ神に祟りなし、この世はご利益より祟りのほうが多いんだ”


 声が言う。それに何も言い返せなくなって、僕は最後、絞り出すように声を出す。


「……これは、何がこんなに聞こえて」


 ”君自身が一番知ってるはずだよ? それなら”


「知らない、お前の声なんて聞きたくない」


 嫌に聞きなれた声に対して、僕は呻くように返した。今までで一番の嫌な予感。ほんの少し考えただけでも、これ以上聞いたらいけないことはわかったから。目に入るものを外に追いやってしまいたくて、頭を抱えて机に塞ぎこむ。何も聞こえない、何も見えない、何も考えない、それなのに。

 それなのに、それはそれは克明に。まるで自分の事かの様に、鮮明に脳に入ってくる。


 ”自分自身でしょ、他にここには誰もいないんだから”


 聞きたくなかった。何を頓珍漢なことをと思ったし、何より言っている意味を理解したくなかった。したくなかったんだ。

 前からわかっていた。わかっていたうえで、今まで意識して押さえつけてきたんだ、その歪みを。

 僕を縛り付けるこの声は、僕の為すことを縛るこの縄は。いつだって消えろと願っているのに、それでもなお僕の側にいて。そして僕を四六時中監視していた、あの違和感そのものだったから。


「なんで、お前は消えないんだ」


 ”お前じゃない、自分自身だって。だから僕に消えてほしいなら、君が消えないと。お前が僕に消えろと願うだけ、お前は僕のことを意識するし。僕の存在は願われた時、より強固にお前に固定されるし。第一、君が必要としたから僕がいるんだよ?”


 なんだ、それ。そんなの、もうどうにもできない。

 何もかもがどうにもならないことで、諦めるしかないじゃないか。

 僕は、机に伏して寝ようとした。 

 確かにずっと、そうだった。だって、向き合ったって離れようとしたって、こいつはいつだって消えなかったじゃないか? この、途方もない閉塞感は。


 ”僕の言う事を聞いておいたら、とりあえず安心だよ? そのためにいるんだし”


 そっか、じゃあいいか。一回寝て、それで帰ろう。



 ◎



 昼寝から覚めて家に帰り、もうかれこれ四時間が経った。

 僕の中にいたあいつは落ち着きを取り戻したみたいに、もうすっかり心の中に馴染んで、僕に対して何かを言う事も無くなっていた。

 僕が適当に生きてる限り、こいつは何も言ってこないらしい。この数時間で、それが段々わかってきた。適当の意味が二つあって、二つで全然違うって話はいろんなところで出てくるけど。これはもしかしたら、そう言うことなのだろう。

 僕がなあなあに日々を生きるのが、なんだかんだで一番いい、そういうこと。そういう、僕の絶対的規範。

 でも、何かが足りない。やっぱり、何かがおかしい。これは、何かが間違っている気がする。

 時計を見た、十時過ぎを指していた。時間もちょうどいい具合だ。

 一旦、何も考えるな。何も考えなくていい、ただ、昨日と同じ道をたどるだけで言い。あの人に、メアリーに会いに行こう。



 ◎



 公園は、昨日見た時よりも雨で水浸しになっていた。ブランコの方を見渡すと、昨日と同じメアリーの姿。

 僕は、少し重い足取りでメアリーに近づく。


「やあ。ちゃんと今日も来たんだ、偉い」

「うん」

「と言っても、私は何で昨日逃げられたのか、問いただしたいところではあるんだけど……神谷、元気無い? なんかあったの」


 メアリーが僕の顔を覗いて言う。その目は、昨日よりも腫れが引いていて。でも、昨日よりも隈が濃い。メアリーも何か、苦しいことがあったのだろうか。


「いや、昼ごろから体がだるくて」

「そうなんだ、思いあたりは?」


 僕は苦笑いをした。今日に何が起こったわけでもない。自分に怒られましたなんて言われて、彼女はどうすればいいのか。


「……笑わない?」

「うん」


 思いあたりはある。けど、言っていいのか。「変だね」とか、「そんな規範捨てなよ」で済まされるんじゃないかと思うと怖くて、即答するのに躊躇して。


「なら」


 でも、それでも覚悟を決めて言う。


「あの、昼に。帰ろうとしてたときに、考え事してたんだよ」

「うんうん」

「今朝、昨日に君が『私利私欲に沿わないなんて』って言ってたのが、妙に残ってて。それで、少し自分勝手に振る舞ってみたんだけど」

「え、嬉しい」

「それで、いい感じだと思ってたら。なんか『やめろ』って感じのことを、内側? の僕から言われた気がして。しかもその声が生温かくて、居心地が良くて。だからだよ。……おかしいかな? 僕」


 もしかすると、軽く流されるかもしれない。メアリーはこうは言ったものの、その覚悟をして言った言葉だった。

 でも、その返事は思っていたものと違っていて。


「うん、なるほどね。ねえ神谷」

「何?」

「ちょっと、私の話聞いてくれない? 神谷も昨日に聞きたがってた、私がなんでここに来たのかの話と。……それと、何で私がいきなり君に告白なんてしたのか」


 メアリーが、少しだけ息を吐いて言った。

 その時の彼女の様子は、昨日までの不気味で、怪しくて、輪郭のぼやけた、図りきれない何かがありそうな人とは全然違って。


「うん、気になってたんだ、お願い」

「いいよ。……あのね、私、彼氏だった人に振られたんだよ。つい最近、『愛が重い』って」


 本当に、【一人の大学生】としての姿に見えた。


「そうだったんだ」


 メアリーの顔を見た。一瞬だけ、振られた直後に告白されてるのか、と変な気持ちになりはしたけど。それ以上に、今彼女の目はどうなっているのかが気になって。その目を見たいと思ったけれど。俯いた彼女の両の目は、夜に紛れてうまく見えない。


「しかもだよ? その彼氏の方から私口説きに来たの、元々。その時に私言ってたんだよ、「私、重いらしいから止めておいた方が良い」って。それでもいいって言ってくれて、だから付き合おうと思ったのに。……それでこの結末なんだよ、もう、何もわからなくなっちゃって」

「うん」


 少しずつ、メアリーの顔がどんどん俯いていって、目が合わなくなっていったけど。

 雨でもないのに、その目から落ちていく雫で。少し上ずっていった声で、目元に集まっていく両の手のひらで、僕は胸を締め付けられていく。


「なんて自分勝手なって泣いて、自暴自棄のときに昨日君に会って。……私がおかしいことなんてわかってるんだよ。でも、昨日君に会ったらさ。君となら、もっと普通に付き合えるような気がしたんだよ。変だけど、君が私と同じ、嫌なくらい生真面目な恋愛をしているように見えて」


 泣きながら、でも今までで一番流暢に話す彼女の姿は、まるでその言葉そのものが涙の代わりに出ているかのようで。

 その声の上ずりが消えていく頃にそこにいたのは、【メアリー】なんかではなくて、一人の人間としての彼女だった。


「友達にも笑われたよ。恋愛なんてある程度好きな人と付き合って、ある程度の労力割いてやって、いい人を見つけるためには新陳代謝も必要だって。でも、恋愛ってそんなに雑に扱っていいと思えないじゃん。でしょ? だから神谷もそんなに深く考えたんじゃないの。ただ好きなだけなら奪えば良い。でも好きな人なら幸せを願わなきゃいけないって、馬鹿みたいに他人を思ってさ」


 そこまで言ったところで、メアリーは急に顔を上げて。そして、苦くて甘いオレンジみたいな、絶望混じりの笑顔で言う。

 それでわかったんだ。本当に不気味で、最初は何だと思っていたメアリーに、どうして僕が惹かれたのか。そして、何で僕たちが、こんなに苦しんでも報われなかったのか。


「ねえ、私と付き合ってよ。……どうやったら、これを耐えられるか教えてよ、もう一人は嫌なの」


 愛の重さなんかはそこまで大きな問題じゃない。僕たちはとことん不器用で、何かが極端だったんだろう。

 僕はメアリーの座るブランコのその周り、柵の1辺に腰掛ける。


「ねえ、メアリー」

「何?」

「僕の中で結論は出てるんだけどさ。その前に、僕の話も聞いてもらっていいかな?」


 突然のことを言い出す僕に、何を言うでもなく頷くメアリー。それで僕は、彼女への、いや、数年来に続いていた、心の不調への結論を纏める。

 僕は道徳に縛られていたんじゃない。むしろ、道徳に依存していて。きっとメアリーはメアリーでまた別に、何かを強く必要としていた。

 でも、それじゃいけない。僕たちはちゃんと、普通の人間にならないといけなかった。

 そう思って、ふと足元。いつも歩く時視線の先にあった靴に目をやった、その時だった。


「あ」


 思い出した。僕が、いつから式波に引け目を持つようになったか。そして、いつから式波のことが好きなはずだったのかを。


「どうしたの?」

「ああ、いや。……昔、僕の周りにめちゃくちゃなやつがいて。掃除当番を人に押し付けたり、牛乳を好きじゃない人に飲ませたり。皆に酷かったけれど、なんでか僕は他の人よりも目をつけられてて、嫌なことも多くされて。だから絶対、そんなやつに僕はならないぞって思ってたんだよ」

「……それが、神谷がそんな人間になった理由?」

「凄い大きかったんじゃないかな。本当に、価値の基準が道徳だけになっちゃうくらい。……でも、それじゃだめだった。極端な価値観を現実に無理やり当て込んだせいで、どこにも馴染めなくて苦しくなって」


 足が寂しいのか、声だけが響くのが辛いのか、キイキイブランコを鳴らすメアリー。僕はそのブランコの下の雨を、ただ見ていたくて眺めている。


「で、僕と、多分君も。やり方はまだわからないけど、もっと器用にならなくちゃいけなかった。粗雑に見える愛し方を、色々な思惑の結晶だと思えなきゃいけなかった」

「思惑の結晶?」

「うん。で、僕は君にはこんなのじゃなくて、ちゃんとした出会い方をした人と一緒になって欲しいし、僕も今好きな人を捨ててまで君を選ぶことはできない。だからごめん、付き合えない」


 無理だと、そこまで言った時。僕を循環していた言葉が、夏の空気に消えていって。もう、この言葉は僕のものだけではなくなったんだと思った。

 メアリーは、とても残念そうな顔をした。


「だよね」

「うん」

「いや、まあ。良かったって思ってるところもあるよ」

「なんで?」

「私が一瞬でも好きになった神谷は、ここで私を選んだりしない人だったから」

「なにそれ」

「本当だよ、これだったら、OKされてもパラドックスなのに。……はあ、やっぱり駄目か。ねえ神谷」

「何?」

「その子、どんな子?」


 メアリーは空を見上げて言った。


「いいの?」

「いいよ、どうせなら大敗したい。聞かせてよ、惚気話」

「そこまで言うんだったら……。小学校の時にね? 本好きで大人しい子だったんだけど。さっき言ったやつに嫌がらせされてる時、助けてくれた人なんだ」

「なんだそれ、勝てるわけ無い」


 メアリーが軽く笑って言う。僕もそうだねと笑い返す。体がずいぶん軽くなって、僕も顔を上げて夜空を見た。


「……私も、もう少し頑張ってみるよ、君の言ったことも試してみる」

「うん」

「ねえ、神谷」

「何?」

「そう言うなら、明日にはちゃんとしなよ?」

「……言われなくても、ちゃんと」


 本当に透き通った星空だった。



 ◎



 次の日の朝も、僕は式波の家の呼び鈴を鳴らした。

 昨日に言っていたからか、ドタバタと足音が聞こえることもなくて。ぼうっとしながら待っていたら、ドアが空いて光が差し込んで、式波が制服で顔を出す。一つ心の中で深呼吸した後、まっすぐ目を見ておはようを言った。


「おはよう神谷。昨日の今日だからね、用意は終わらせてるよ」

「すご。それが出来るのに何でいつも後ろから追いかけてきてたの?」

「さあ? じゃ、行こう」

「あー、それなんだけど」

「何?」

「えっとね、その……ちょっとそこ、にやにやしない」

「うん」

「はい。……遅れてごめん、付き合って下さい、式波」

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