銀の月が見える夜

八十浦カイリ

プロローグ 1 八坂雪穂

自分が自分でなくなる、自分を抑えきれなくなる感覚。

しかし、それは衝動、欲望。あらゆるものを解放してしまうような快感へと変わっていた。

己を縛っている枷を解き放て。

周りの事など見ず、目の前だけを……いや、目の前すら見るな。

ただ己の欲望のままに、すべてを壊し尽くせ。


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目覚まし時計の音が鳴る。

「うっさ……」

どこか焦燥を駆り立てるようなその音に、少女…八坂雪穂は不機嫌さを露にしながらのっそりとした動きでその発生源に手を伸ばす。

「ふぁ~~……ねむ」

長い欠伸をしてから、改めてベッドから立ち上がる。

寝起きの悪い彼女の起き抜けは、いつも不機嫌だ。

「ちゃんと起きられるのはいいんだけどさ、もうちょっと静かにならないわけ?」

すっかり止まった目覚まし時計を睨みつけながら、彼女は一人そんなことを呟く。


「雪穂おはよう、朝ごはん出来てるわよ」

「あよー」

リビングまで降りると、母親が朝食を作っているところだった。雪穂は興味なさげに、原型がなくなるほどに崩れた挨拶を返した。

「眠そうね、昨夜も遅くまで起きてたの?」

「寝れんかっただけだし」

「大丈夫?授業ちゃんと受けてる?朝ごはんも早く食べちゃいなさい。食べないと元気出ないわよ」

「いらないって、今食欲ないし」

「せめて少しは食べなさい」

「わかったよめんどくさいな」


面倒そうに応じて席に着いてからから、こんがりと焼け目のついたトーストを頬張る。

「最近学校どう?」

「あー、まあ。それなり……?」

「それなりじゃわかんないわよ。お母さん心配なのよ。雪穂からあんまり学校の話聞かないから。それにこの間の期末の成績も悪かったじゃない。授業ついていけてるの?」

「いちいち報告するようなことじゃないでしょうっさいな。大体もうあたし高校生なんですけど?小学生じゃないんですけど?」

「いくつになってもあんたはお母さんの子供なのよ」

「はいはいめんどくさ」

「またそうやって拗ねて。学校でもそんなんじゃないでしょうね」

「そんなんじゃない」

会話を交わしているうちに、机の上にあったトーストがすっかりなくなっていた。


「ごちそうさま」

「あれだけ言ってたのに結局食べてたじゃない。やっぱお腹空いてたんでしょ」

「だから何」

「もうちょっと素直になりなさいってことよ」

「あたしほど素直な人いないと思うけどね」

「よく言うわ、まったく誰に似ちゃったのかしらね」

「知らない。そんなんどうでもいいでしょ」

ゆっくりと席を立ち、今度は自分の部屋へと戻る。相も変わらず雪穂の表情は不機嫌そうだったが、眠気は自然と取れているようだった。


決して不機嫌というわけじゃない。何かに不満があるというわけじゃない。

ただ、ちょっとだけ素直になれない。

どことなく、子供のように振る舞うことにどこか恥ずかしさのようなものを覚えているのが、八坂雪穂という少女なのである。

姿見で確認をしながら、制服を着てお気に入りのヘアピンで長い前髪を留める。

十字のような形のヘアピンだった。

「……よし」

雪穂はこれを付けると、少しだけ気分が良くなるような気がしていた。

無意識のうちに行っている、学校に行くまでのルーティーンの一つだ。


「行ってきまーす」

「行ってらっしゃい、気を付けるのよ」

家を出る。学校までは電車に乗り、そこから10分ほど歩いての通学だ。

雪穂はこの電車に乗っている時間が、少しだけ落ち着く時間なのだった。

お気に入りの音楽を聴きながら、ガタゴトと揺れる電車の中で座って腰を落ち着ける。

どことなく、電車の窓から見える風景も好きだった。


「やば、寝そうだった……」

あまりに気分が良かったので、うっかりと意識を落としそうになる。

ここで眠ってしまったら間違いなく駅を乗り過ごして遅刻だ。

目的地に着いたのを確認して、ほっと胸を撫でおろす。

「それにしてもさっむ……」

気温が落ちつつある10月。学校までの道は、先月までと違って急速に寒くなっていた。

ついこの間までは気温が30度を超えていたはずなのに、今や20度を下回っている。あまりにも急速に温度が下がりすぎて、雪穂はもう風邪を引きそうなくらいだった。


学校に入って教室に着くと、早速雪穂の方に駆け寄る人影があった。

「ゆ~~~~き~~~ほ~~~~!おっはよ!!!」

「あー…おはよ」

「何だ今日は朝から元気ないなぁ!若いもんがそんな顔してるなんてよくないぞっ!」

「むしろそれは風子の方が異常なんだってば。あんた眠いとかないの?」

雪穂がそう言うと、風子はそれに対して首を小さく傾げる。

「むしろ朝眠いの?」

「めちゃくちゃ眠いわ。今もう既にそのテンションについていけてないんですけど」


「あっはは!でも言われてみたら雪穂がテンション低いのはいつものことだったわ!!あっはははは!!」

「え……何こいつの笑いのツボわかんないんだけど……」

自分とは対称的なほどにテンションの高すぎる風子に少し引きながらも、雪穂は自分の席に座りに行った。

「でも……なんか風子がいたら眠気取れてきたわ」

「っしょ?」

「うん」

綾崎風子は雪穂にとって、数少ない友人の一人なのだった。

何となく一人で過ごしたいと思っていたところに、無遠慮にも声をかけてきた存在。


雪穂は基本的に、一人が好きな人間だった。

放課後に友達と連れ立って何かをするだとか、何をするにも友達と一緒だったとか、そういったことが雪穂にとっては、どうにも煩わしいだけのことのように思えて、全く魅力的に思えなかったのである。

風子と出会った時のことを思い出しながら、一時限目の授業の準備として、教科書を机の上に出す。

この重たい教科書をずっと持ち運ぶというのも、正直雪穂にとっては面倒なことだった。


人生、面倒臭いことばっかだなぁ。

そんな15歳という年齢にしては早すぎることを考えながら、雪穂は今日も日常を過ごしていた。

「はぁ……やっと終わった……」

6時間目まで授業とホームルームを終えた雪穂は、すっかりへとへとになっていた。

それもそのはず、眠たい頭を振り絞りながら受けた授業は、集中するだけでもなかなか疲れるものだったのである。

「これはすっかり疲れて溶けちゃってますなぁ」

「むしろなんで風子はそんな平気なわけ」

「4時間目寝てた」

「そりゃね、あたしも寝る寸前だったわ。というかあの数学のハゲさ、何であいつの声あんな眠くなんの?」

「あっはは!!ハゲって!!!!確かにハゲてるけど!!!!」

思わず手を叩き笑い出す風子の方をよそに、雪穂は踵を返す。


「ありゃ、もう帰るの?」

「そりゃもうやることないし。風子も早く帰んなよ」

「あー、そういや雪穂はそういう子だったわ。夏休みの間に忘れちゃったのかしら」

「忘れちゃったのかしら、じゃないでしょ。わかってやってんだろ」

「私のことはもうお見通しってわけですか」

「そういうことにしといてやる」

夕陽に照らされた教室の中で、2人は今日もくだらないやり取りをした。

「雪穂さ、なんかいつもより笑ってる気がする」

「気のせいでしょ」

「いやぁ私はお見通しですよ?とりあえず、気を付けて帰んなね」

「風子もね」

「んじゃ、また明日ー」


普段通りに少しおかしなやり取りをしてから、雪穂は学校を出る。

どうせやることもないしと、家まで直行しようと最寄り駅まで向かい、電車で家まで帰りに行く。

行きも帰りもやや人の多い電車の中は、それなりに雪穂にとってもストレスの溜まる環境だったが、電車通学という道を自分で選んだ以上、このくらいは一種の必要経費であるというのが、彼女の中での認識だった。


駅を出れば、空はすっかり真っ暗になっていた。

黒いスーツとカバンの集団が、おそらくは自宅を目指して駅から散っていく。雪穂もそんな人たちと同じように、自宅を目指す。

暗くなっただけではない。気温はすっかり寒くなっており、体感温度は15度ほどまで下がっていた。あまりの肌寒さに、雪穂の足取りは自然と早くなっていく。

「はぁ…マジで寒い……この間までほぼ夏だったじゃん……」

雪穂の言う「この間」とは、実のところ2学期が始まってすぐの頃までの話なのだが、何はともあれ2ヶ月前までは冷房が手放せないような生活をしていただけに、このギャップになかなか身体がついていけていないのも事実だった。


「夏終わったと思ったらもう冬なんだもんな~~日本の四季どこいったんよ」

そんなことを愚痴りながら、どんどんと足取りの早くなる足を進めていく。

気付けば、家の近くにある路地まで来ていた。

普段は人通りが少なくて危ないから通るなと言われていたが、一刻も早く家に帰りたい雪穂は急ごうとそこを通ることにした。

「危ない危ないって言うけどね、お母さんもお父さんも心配しすぎなんだってば」

そう自分に言い聞かせるように、雪穂はすっかり真っ暗になった路地を通る。

時刻は18時過ぎ。そんな時間にそこまで危ないことは起きないだろう…と踏んでいた。


そんな時だった。

「……え?」

雪穂の頬を、何かぬるりとした液体のようなものが伝う。

それに驚いて、後ろを振り返った。後ろには何もいない。

「はぁ……」

小雨でも降り始めたんだろう。これはとっとと帰らなければ、と再び歩を進める前に、雪穂は液体のついた頬を拭った。

「……は?」

街灯の頼りない明かりに照らされただけの暗い視界の中でも、それの正体はすぐにわかった。

雨にしてはやけに生暖かく、そしてその嫌な生温かさのするものの正体は。


自分の頬から流れ出た、血液だった。

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