プロローグ 2 悪魔
頬を拭った雪穂の右手には、赤黒い自分の血がべっとりとついていた。それを自覚したからなのか、頬が鈍くだが痛み始める。
「勘弁してよ……」
何故、こんなことが起きたのか。訳も分からず、雪穂はそのままその場にへたり込む。
木の枝か何かで引っかきでもしたのか、あるいは何かにぶつけたのか。それだけならよかったのだが、雪穂は何かそれ以上の不吉な予感を覚えていた。
ゆっくりとへたり込んだ腰を上げて、あたりの様子を見まわす。
相も変わらず、頼りになるのは街灯の明かりだけで周りはよく見えない。しかし、何か人の気配のようなものは、何故かしていた。
「……誰かいる」
それに気づいたと同時に、何かに足を取られ、派手な音を立てて地面とぶつかった。
「痛ぁ……っ!!」
痛みにもだえながら、ゆっくりと立ち上がる。
そこにいたのは、ぼんやりとした影のような、何かだった。
「……は?は?何これ?え?」
目の前に起きている事象を、必死に頭を整理しながら呑み込む。
いや、しかし。雪穂にそれを呑み込むことは出来なかった。
そんなこと、出来るはずがなかった。
目測、2メートルはあろうかと思われる巨大な影。シルエットは人間とよく似ているが、何か巨大な爪や角のようなものが生えているようにも見え、その姿にはすさまじく禍々しいものを感じた。
足が竦む。まるで足がそのまま地面に縛りつけられたかのように、全く動けない。
「……何で、こういう時に限って全く動かないんだよ……っ!」
雪穂の脳内には、明確な「死」の恐怖が刻まれる。
大きな爪で引き裂かれる?
いや、巨大な手足で殴られるか蹴られるか。
あるいは、ただでさえでっかいあれが、もっとでかくなって私を押しつぶすかもしれない。
とにかく色んな想像が頭の中を駆け巡る。それらに共通しているのが、全て自分が「死んでしまう」という結論、結末。
その間に、何秒が経っただろうか。先ほど転んだ時の痛みもまたぶり返してきた。何で、こうなってしまったんだ。
そもそも、あれの正体は何だ。こんなの、見たことがない。
などということを考えている間に、無慈悲にも雪穂の身体へと巨大な腕が振り下ろされる。
腕だけで、彼女の胴はあろうかというほどの代物だ。
「(走馬燈って、本当にあるわけじゃないんだな……)」
最早自分が死ぬということしか想定してなかった雪穂は、最期にこんなことを考えていた。
面白いか面白くないかと言われたら面白くなかった人生だったが、この15年の人生。そんなに悪くはなかったんじゃないか。
うっかり閉じてしまった目を、ゆっくりと見開く。
恐れていた事態は、来ることはなかった。振り下ろされた腕は、彼女の身体へと届くことはなく、眼前で静止していたのだ。
大きな影が突如、霧散する。
そんなものは最初から存在していなかったと言わんばかりに、その場にその大きな影が存在していた証拠など、雪穂の身体に刻まれたいくつかの傷以外にはもうなくなっていた。
霧散した影が発した黒い霧が、だんだんと晴れていく。そこには……
雪穂より頭一つ分身体の大きい、輝く銀の髪を持った美しい青年が立っていた。
「君、立てるか?」
その容貌に相応しいような、低く響く耳に心地の良い声。その声に雪穂は安心したのか、ゆっくりと立ち上がることができた。
「はい、あの……すみません、もしかしてあたしを助けてくれたんです?」
状況が理解できないまま、男へと尋ねる。
「僕は元々喋るのが得意ではないので、簡単に説明する。あれは悪魔と呼ばれるものだ。……まさか既に襲われた後だったとはな」
「…っ、はい。マジで死ぬかと思ったです…」
悪魔。ゲームやアニメくらいでしか聞かないような言葉に、普段の彼女なら冗談か何かとしか思えなかっただろうが、あの禍々しい気配に人間とは思えないほどの巨大な身体。
悪魔だと言われれば、確かにそうかもしれないと思わせてしまうような、嫌な説得力があった。
頬の傷が、ビリビリと痺れるように痛む。青年の話を信じるならば、おそらくはこれも悪魔とやらによるものなんだろう。
「…あの、そもそも悪魔っていうのは何なんです?」
「この世界の裏側に住む存在。人間を襲ったり人間に取り憑いたりする」
何故襲ったり取り憑いたりしてくるのかについては教えてくれないのかよ、と雪穂は内心で不満を漏らすが、命の恩人相手にそんなことを言うほど、彼女も無礼ではなかった。
「説明は充分だろうか」
「あ、いえ……大丈夫です」
雪穂としては、早くこの意味不明な事象から立ち去りたいという気持ちしかなく、男の正体や悪魔というものの存在などは、正直どちらでも良かったのである。
「……そうか」
「何で、そんな寂しそうな顔してるんですか」
予定外のリアクションに、雪穂は少し困惑した。男の行動が読めない。さっきまで全くの無表情のような顔をしていたというのに、
今の彼の顔は、長身のおそらく成人であろう男性に対する形容としてはおかしいかもしれないが、まるで捨てられた犬のようというのが似合うような状態になっていた。
「何なんだこの人……」
「そうだ。目的の悪魔も倒したし、僕はもう帰る」
男は名乗ることもしなければ、何なら自らの職業すら明かさずに、その場を立ち去ろうとした。
しかし、異変はその直後に起きた。
「………っ、ぁっ……」
悪魔にやられたであろう頬の傷の痛みが、さっきよりもより大きく、雪穂を苦しめた。そしてそれと同時に、傷が開いて血がまた流れ出す。
「あああああああああああああああああああ……っ!!」
痛みはより激しくなっていく。流れ出す血も止まらない。最初は大きく叫んでいたものの、やがて声すら上げられないほどに痛みは増し、心臓の鼓動も早鐘のように早くなっていく。
「……っ、……っ、あぁ……っ……アァ……ッッ……!!!」
耐えられない、思考もできないほどの痛みに悶え続けて、遂に雪穂は意識を手離した。
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