幼馴染は馬鹿女

金平糖二式

幼馴染は馬鹿女

日曜日の昼下がり。

昼食を済ませて出てきたのはいいものの、実の所、どこか行く当てがあるというわけでもない。

気がかりだった、厄介ごとが片付いた反動もあるのだろうが……最近、どうにも気が緩みがちになっているのは自覚している。


アルバイト先の先輩からは、燃え尽き症候群というやつか、とからかわれたが……

あの人に言われたくねえなあ、と思ってしまうのは、少しばかり調子に乗りすぎているだろうか。

色々と世話にはなっているのは確かなのだが、普段の生活態度が態度だからな。

ソシャゲのガチャの為に給料の前借りを無心する度に、店長がガチギレしているところなど、何度見たかわからない。


さて、どうしたもんかね、とぶらぶらと街中を歩く。

何か買うものあったかな。直接連絡して聞いてみてもいいんだが、確か爺さん、今日仕事だったような。

退屈なのは平和である証だが、ちょっとくらいアクシデントなら歓迎したい気分だ。


……と、背後に誰かが近づいて来る気配を感じる。

道すがら通りすぎる通行人の類ではない。足運びが、明らかに俺を意識したもの……誰だ?

そうして振り返って、後悔した。


「……あれ、えっと、やっぱりソウ君……だよね」


……最悪だ。あんな下らない事、考えるもんじゃない。

久しぶりに遠出をしてみようと、少し足を延ばしてみたのが悪かったのか。

見覚えのある、ありすぎる顔だ。

セミロングの大人しそうな……整った顔立ち。

着ている紺のセーラー服は、俺が前に通っていた高校のもの。


本野和香。物心ついたころから、今、通っている高校に転校するまでは……ずっと一緒に過ごしてきた女。

分かり易く言えば、近所に住んでいた、異性の幼馴染というやつか。

今となっては、思い返す事さえ苦痛だが……俺の、初恋の相手……だった。


こいつの顔を見ているだけで、思い出したくもない記憶が脳裏をちらつく。

随分と前の話になるが……フラッシュバックする記憶で、何度食ったものを戻してしまったかわからない。

流石に今はこうして面と向かっただけでは、吐くような事は無い。しかし……やはり、気分は最悪だ。

なぜ、お前がここにいるんだよ。


無言で、その場を立ち去ろうとしたが、和香に肩を掴まれた。

身に染み付いた防衛反応から、すかさず手を払いのけて距離を置くが、和香は目に涙を滲ませて、こちらに声を張り上げ、食い下がってくる。


「待って!ごめん、おねがい。話をさせて。ちょっとで、ちょっとでいいの!」


「……街中で大声を出すな、目立つだろうが」


意識せずとも、舌打ちが出てしまう。

……今更、俺に一体何の用だというのか。


俺に事あるごとに、ご高説を垂れていたくせに……

教師でありながら、教え子である未成年からの誘惑に抗えず、手を出した、クソ親父。


その、誘いをかけた相手が。

俺が家を出るきっかけを作った、馬鹿女が。

元凶である、お前がどの面下げて、俺の前に姿を現してきやがった。





「えっと、ね。

私は部活で、他校との合同練習でこの辺りまで来て、その帰りだったんだけど。

……ソウ君は?」


「別に、お前がここにいた理由なんざ、聞いてねえ」


あそこで話をするには目立ちすぎる、という事で無理くり引っ張られてきた近くの人気のない公園で、和香は聞いてもいないことをベラベラと喋り始めた。

こいつの声も、仕草も、何もかもが酷く癇に障る。


「クソ親父とお前とは、縁を切るって方向で話はついてたはずだが。

俺とは関係ないところで、好きなだけケダモノみたいに盛ってろよ」


「総一郎さ……先生の事を、そんな風に言うのは、よくないよ。

ソウ君の、お父さんなんだから。

私が……言えた義理じゃないけど」


和香は、クソ親父を名前で呼びかけたことに気付いて、言い直すが……今更取り繕ってどうなるってんだ。

元々、ガキの頃から俺にかまってたのだって、クソ親父の気を引くためだったんだろうが。

確か、一目惚れだった、とかぬかしてたな。

後から聞いた話では、中学時代からもう関係を持っていたというのだから、心底笑えない。


「それと……先生とは、もう二度と会わないことになったんだ。

教職も、自主退職して……引っ越していったよ、私にだけは、連絡先も伏せられてる」


「……周りにバレたのか?ま、自業自得だな」


……あのクソ親父、そんなことになっていたのか?

養育費の名目で、金は振り込まれ続けていたと爺さんから聞いていたから、気にも留めていなかったが。


しかし、結局……駄目になったんじゃねえか。

クソ親父は大真面目に和香が高校を出たら、再婚するつもりだ、等と宣っていたくせに。

目の前の馬鹿女は、ガキの頃に亡くなったお袋の代わりに、俺の母親になるなどとしたり顔でほざいていたくせに。

笑えはしないが、嘲りの言葉の一つや二つくらいはぶつけてやりたくなるというものだ。


「訂正すると……皆に、って訳じゃなくて、私の身内に、かな。

……ソウ君が、さ。

その……予定より早く帰ってきて、私と、先生が……してたところを見つけて……

一週間ぐらい、家出して、戻ってきた事があったじゃない?」


「……ああ」


一々、嫌なことを思い出させる女だ。

覚えては、いる。忘れようとしても忘れられない。

あの時は……目の前の光景が受け入れられず、その場で戻してしまった。

胃の中のものをすべて吐き出しても、吐き気が収まらず……胃液しか出なくなっても、嘔吐しつづけて。


流石に気付いて、行為を中断し、介抱しようと近づいて来た二人の手を、激情のままに思いつく限りの罵倒をぶつけ振り払った俺に……

何を思ったのか、先に述べたような舐め腐った寝言を宣うクソ親父と和香。

その返答代わりに、二人の顔面に近くにあったクッションを投げつけてやって、振り返らずに家を飛び出たんだっけか。


「それで、ソウ君を保護してくれた人と一緒に帰ってきて……話し合いになって。

その時、私達と、縁を切りたいってはっきり言ったよね。

それと……『お前を、母親として見るのは、無理だ』って。

……今考えたら、本当にそうだなって」


和香が、目を潤ませて、俺をじっと見つめてくる。

やはり、その視線がどうしようもなく、癇に障る。

こいつは、昔からいつもそうだった。

同い年の癖して、姉貴分面してつきまとい、何もかも分かっているような面をして。

その癖、最後まで俺の気持ちには、気付きさえしなかった。


「……話し合いが終わって……ソウ君が、出て行った後ね。

先生が、さ。ソウ君が……凄い、酷い顔に、なってたって。

たった一週間で何があったのかわからないけど……あれは、地獄を見た顔だったって……」


それにあのクソ親父……随分と知ったような口をききやがる。

お前に、お前らなんぞに、俺の、何が分かるっていうんだよ。


「それで息子に、縁を切りたいって言わせるほど追い詰めて……

親として、教師として、男として……

自分はやってはいけない事をしてしまったんだって。

多分、ソウ君は、私の事が、好きだったんじゃないかって……

あの言葉で、頭が冷えて、ようやく気付けた、って。

私とも、もう、終わりにしようって……

自分は、どうしようもない屑だって」


……馬鹿に、しやがって。

もし、この場に、あのクソ親父がいたのであれば。

今更ふざけるな、と胸ぐらをつかんで、怒鳴り散らしてやりたかったが……得心の行った部分もある。

道理で、あの時……あっさりと祖父母の所に、俺を預ける事を了承したわけだ。

当時は、俺を体よく追い出して、和香と今まで以上に二人で過ごせる時間が増える事を、喜んでいたのだとばかり思っていたのだが。


要は、老いらくの恋に溺れ、やるだけやらかした後に、急に素面になって、後ろめたくなって逃げた、それだけじゃねえか。


「それで、その後すぐに、先生、私のお父さんとお母さんに連絡を取って……

今までの事、全部白状して土下座したの。

もちろん、相当揉めたんだけど……

結局、表沙汰になったら、私も社会的に、取り返しがつかないダメージがあるからって……

訴えられこそしなかったけど、私と二度と会わないってきっちり約束させられて。

後は、さっき言った通りだよ。

もう……先生とはそれっきり。

連絡も取れない。本当に、終わってしまったんだ」


和香は、そこで言葉を区切ると、俺の手を取って指を搦めてくる。

手のひらに伝わってくる仄かな熱に……困惑するしかない。

何のつもりだ、と反射的に振りほどく。

それに対し、酷く悲しそうな表情で俺を見つめてくる和香の事が、全く理解できない。

……何を考えているんだ、お前は。


「……馬鹿みたいだよね。

本気で家族になれるって……

三人で仲良くやれるはずだって、全然疑ってなかった。

結局、私がしたことは、ソウ君を深く傷つけて……

その家族を、取り返しの突かない形で壊しただけだったっていうのにね」


「……ああ、そうだな」


それだけは、同意できないわけではない。

自然と漏れてくるのは……溜め息だ。

あのときから頭の悪い女だと、思ってはいたが……

それを聞きたくもない話で、一々再確認させられるのは、気が滅入る。


「ごめんなさい……何をしたって、償いになんて、ならないと思う。

ソウ君の気持ちにだって、全然、気付かなかった……」


和香はそう言うと、俺の方に身を寄せる。

まだ、小学生だったころ……

お袋が亡くなって、やけっぱちになっていた俺に、そうしたたように……背中に手を回して抱きしめて。

振りほどこうとするが、先の反応から予想していたのか、ぎゅう、としがみついて離れない。


何だ、こいつ。一体、何を……


「それでも、少しでもソウ君の気が晴れるなら……

私の事、好きにして、いいよ。

いつまでも……なんだって、どんな事でも、するから。

私を、ソウ君だけのものに、してくれても、いいんだよ」


和香は、生暖かい吐息が顔にかかる程、顔を近づけて、潤んだ瞳で、俺の目を覗き込む。

ぎゅう、と俺を強く抱きしめたまま……唇を重ねようとしてくる。


有り得ない仮定ではある、のだが。

多分……あのクソ親父との一件を知る前であれば、俺はこれを、喜んで受け入れていただろう。

だが、俺の記憶には、あの時の事が、消せないものとしてこびりついている。

目の前の女が……酷く、気味が悪いものに思えてならなかった。

ふつふつと、忘れていた、抑え込んでいた何かが、心の奥底で、動き出すのを感じて……


「今更……ふざけんなよ!」


気付けば……目の前の馬鹿女を、本気を出して振りほどき、突き飛ばして拒絶していた。

その反応が、予想外の物だったのだろうか。

尻もちをついて、呆然とした表情でこちらを見上げてくる和香に対して……

腹の底から込み上げてくるのは……溜めに溜め込んだ、怒りの感情だ。


「……え?ソ……ソウ君?」


「あのクソ親父のお古なんぞよこされて、俺が喜ぶとでも本気で思ってるのか!

虫酸が走る……気色悪いんだよ、吐き気がする!」


「ソウ、くん……」


家を出てから……いくつもの、出会いがあった。

馬鹿をやれる仲間だっているし……クソ親父と違って、心から尊敬できる人も出来た。

今はもう……俺は新しい人生を生きている。

なのに。だと、いうのに。

どろどろと心の奥底に閉じ込めていた激情が、溢れ出す。


「もう何もかも終わった、てめえらがぶち壊して終わらせたんだ!

今更……今更、話を蒸し返して来るんじゃねえよ!」


新たに得たもので上書きされ、埋もれて、消え去っていくだけだった筈のそれを、この馬鹿女は……

ゴミみたいな自己満足で、わざわざほじくり返してくれやがった。

……こいつは、結局、あの時から何も変わっちゃいない。

自分のその時の感情だけ動く、身勝手な馬鹿女のままだ。


「……ふざけ、やがって!

和香……てめえ……俺の事なんて、一度もまともに見てなかった癖に、今更!

――ふざけるんじゃねえ!」


「あ……う……」


和香の目に溜まった涙が溢れ始め……やがて、頬を伝って滴り落ちて、ぽたぽたと、胸元や地面に染みを作る。

壊れたレコーダーのように、ごめんなさい、と繰り返し……泣き続けるその姿に、更に苛立ちが募っていく。

自分で自分が制御できない。握りしめた拳に、さらに力が籠り、みしり、と軋む。

溢れ出した感情に振り回されるままに、更なる一歩を踏み出そうとして――手が、止まった。


俺を止めたのは、ふと脳裏によぎった、バイト先の先輩がしてくれたくだらない馬鹿話だった。

彼女に振られたとか、浮気されたとか。二股をかけられたとか。

そんな話を面白おかしく笑い飛ばして、酒のつまみにする先輩たち。

彼らの中に交じる事で、少しは自分も……笑えるようになっていたんじゃないか、と思う。

なのに、俺は……こんな、事で?


「……アホらしい」


先刻まで抱いていた激情が、酷く馬鹿馬鹿しい事に思えて来た。

持ち上げかけた拳を、下ろして……この場を離れるべく、歩き始める。

やだ、待って、と縋り付くようにこちらに手を伸ばしてくる和香に向けて、はっきりと告げる。


「あのクソ親父を探し出して、また懇ろになろうが、別の男を咥えこもうが、知ったこっちゃねえが……

もう、俺には二度と関わらないでくれ。

前にも、一度言ったと思うが……今度は守ってくれよ」


俺の言葉に……絶句する、和香。

返事は、待たない。

足早に歩いて……俺は和香を置いて、公園から出ていった。


その後、和香がどうなったのかは、知らない。

知りたいとも、思えなかった。


ただ、しばらくしてから、爺さんに聞いた話だが……

クソ親父が、地方にある安アパートで、死体として見つかった、と警察から、連絡が来たそうだ。

首を吊って自殺していたらしい。


やはりそれも……どうでもいいことでは、あるのだが。

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