第29話 雨祭り ③

 ゴホン、と咳払いをしてから小泉さんは演説を始めた。

「今日来てくれてありがとうございました。今年小泉家が雨祭りを執り行うと聞いたとき、私はすごく緊張していたんです。上手く行くか心配だったし、私は学級委員とはいえ演説はあまりしません。だから、短くしたいと思います」

 小泉さんの声は静まり返った境内によく響く。

 俺は透き通った声にも、夜風にそよぐ黒髪にも目を奪われた。

「この祭りは、雨病で亡くなってしまった人の冥福を祈るために行うんです。特に、今日は私の友達、山口さんと橋下さんの冥福を祈りたいと思います」

 気のせいだったかもしれないけど、俺は誰かの鳴き声が聞こえた。もしかして、杏子あんずの声だったのか?

 俺は周りを見渡してみたけど、人が多すぎて杏子の姿がいてもわからない。

「ちょっと、友達を捜しにいくよ」

 と、俺は声を潜めて母に言った。

 大きな音を立てないようにしながら、俺は杏子の姿を捜す。

 杏子なら、ここにいないわけがない。なぜなら、彼女は誰よりも夏海の冥福を祈りたいはずだから。

 俺は「すみません」と言いながら合間を縫って、小さな鳴き声の主を捜し続けた。

 ややあって、俺は人気ひとけの少ないところにたどり着いた。案の定、涙を手で拭っているのは杏子だったのだ。

 その情けない姿を見て、俺は何を言えばいいのかわからなかった。

「あの、杏子だよね」

「は、はい。あ、雄己だね」

「あのさ、何を言えばいいのかわからないけど……。大丈夫?」

「だ、大丈夫なのよ」

 杏子は首を左右に振りながら言った。

 流れる涙は、まるで水飛沫みずしぶきのように四方八方に飛び散る。

「そう、私は大丈夫だから。夏海の冥福を祈りたいから……。もう、雄己がここにいる意味は――」

「ごめん。杏子の鳴き声を聞いてここに来たんだ。だから、このまま杏子を置き去りにしたくないよ。よかったら、俺と一緒に行かないか」

 俺が杏子の言葉を遮ってそう言うと、彼女は少し顔を上げて鼻をすすった。

「ありがとう。相変わらず優しいね、雄己。夏海にはそういう友達があってよかった」

 そう言って、杏子は母のもとに戻るまで俺についてきた。


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「もちろん、雨病を信じるか、信じないかは皆次第。でも、信じなかったら後悔するかもしれないので、じっくりと考えてください。友達を亡くすのは……本当に……苦しいですから」

 もうダメです。

 私はこれ以上、涙を抑えることができません。あと少しで演説が終わるのに……。

「そ、それでは、もう終わりの時間になっていますね。私の演説を聞いてくれて、誠にありがとうございました」

 私はなんとなくしっかりして、かろうじて最後の一言を口に出しました。

 静かだった周りの観客から、大きな拍手の音が響き渡ります。

 こうして、私はやっと自分を許せた気がします。もう、自分を責めなくてもいいと実感しています。

 あの日、堤防で田仲さんと待ち合わせた日。彼は同じようなことを言ってくれました。

 それなのに、私は今まで自責し続けました。

 でも、皆にこの演説をして、肩の荷が下りたような気がします。

 抑え切れない涙が頬を伝って、雨粒のようにポツンと落ちていきます。

 私は、嬉しいのです。

「おーい、小泉さん!」

 急に話しかけられ、私はびっくりしたままで周りをキョロキョロと見渡しました。すると、田仲さんと田仲さんのお母さんに、夏海のお母さんの姿が目に入りました。

 田仲さんはこちらに手を振っています。

 私は笑みを浮かべて、そこに向かいました。


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「小泉さんの演説に感動したなぁ」

 言いながら、俺は徐々に近づいてくる小泉さんを目で追う。

「いいえ」

 小泉さんの言葉に、俺は首を傾げた。

 小泉さんはなぜか唐突に紅潮して、顔を背けた。

「私のことを、三那子と呼んでほしいんですよ。……今更ながら」

 小泉さん――いや、三那子の返事に、俺は面食らった。

「ミ・ナ・コ……?」

 言い慣れない名前だった。言いながらも、俺は違和感を覚えずにはいられなかった。

「ありがとうね、雄己」


 ――ゆ、雄己って言ったのか!?


 俺は当惑した表情を浮かべながら、返答に窮した。

「雄己って呼んでもいいなんて、言った覚えはないんだけど……」

 その言葉に、三那子は口をぽかんと開けて、一歩後ずさった。

「ほ、本当にすみません! 私、うっかりしてしまって」

「だからって、そう呼んではいけないわけじゃないけどね」

 三那子は胸に片手を当てて、息を吐いた。再び口を開けて話すと、彼女の声がなぜか震えていた。

「そうですよね。雄己」

 三那子がそう言った途端、雨祭りの終わりを告げるかのように、一つの打ち上げ花火が夜空に光り輝いた。

 暗闇の中、三那子の輪郭が浮かび上がる。

 俺はその顔をじっと見つめながら、打ち上げ花火の爆発を待つ。

 数秒後、花火は夜空に七つの色を放ち、呆気あっけなく消えていった。

 母と杏子の話し声は爆発音にかき消された。

「これからも、よろしくお願いします」

 三那子の声がかすかに聞こえた。

 しかし、俺は何も言わずにいた。なぜなら、俺たちには『これから』はないことも、それに明日は母と東京行きの飛行機に乗ることも知っているから。

「雄己、帰るよー」

 と、母はきびすを返しながら俺に声をかけた。

 彼女たちの会話が終わって、杏子も帰りたがっている。

 俺は振り向いて母を一瞥してから、視線を三那子に戻した。

「ごめん。俺は明日、東京に引っ越すことになった」

 言いながら、俺は夏海に『さようなら』を言われた日のことをふと思い出した。

 三那子はあの日の俺のもどかしさを感じているだろう。

 再び目を開けると、三那子が名残惜しげに手を伸ばして、しかし俺の腕を掴まずに振り下ろした。

「ちょ、ちょっと! 待ってくださいよ、雄己!!」

 ひとりぼっちになるのが怖いのか、三那子の声が震えている。

「本当に、行くんですか?」

「ああ。……もっと早く言えばよかっただろうけど、いいタイミングがわからなくて」

 俺が苦笑交じりにそう答えると、三那子は目を伏せた。返事はしなかった。

 そして、また彼女の目から涙が溢れ出した。

 その悲しくて情けない顔を見ていると、俺は身動きが取れなくなったかのように立ち尽くした。

「そうなんです……。正直、私は何を言えばいいのかわかりません。でも、怒っていないんですよ。なぜなら、雄己が東京に引っ越したい理由がわかる気がするから。私も雄己に雨病に罹ってほしくないし。むしろ、東京に引っ越してほしいですよ」

 三那子は深呼吸をしてから、言葉を続けた。

「それでは……。これでさようならですね、雄己。でも、私はいつも君を待っているんですよ。いつか、きっとまた合うと思います」

 その寂しい響きの言葉に、俺は何も言わず、三那子の身体をぎゅっと抱きしめた。

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