第23話 『9月9日23時』

 いよいよ寝る時間が来た。

 夏海が徹夜したがっていたけど、俺は明日学校に遅刻したくないし、そもそも徹夜したことがないからできるかどうかわからない。

 夏海はまだ附属浴室エンスイートで歯を磨いているようなので、俺は先にベッドに入ることにした。

 子供の頃、母は俺が一人っ子なのになぜかダブルベッドを買ってくれた。そのおかげで、俺は毎晩よく眠って、自由に横たわれるようになったのだ。しかし、俺の部屋はかなり狭いので、こんなに大きなベッドは少し場違いな感じがした。

 夏海がまだ戻ってきていないので、当然天井灯はついたままだ。この状況では一睡も眠れないだろうから、俺はぼんやりと天井を見つめ始めた。

 気のせいかもしれないけど、雨音は小さくなっているように聞こえた。

 もしかして、雨はそろそろ止むのかな。おそらく、明日目覚めると雨はすでに止んでいるのだろう。長雨という言葉があるらしいものの、一日間以上続く降雨はあり得ないと思う。

 雨は人を狂わせるために存在するのだ。他人に迷惑をかけるものでしかない。それは、初めて雨を体験した俺の解釈だった。

 いくら雨を見ても、俺は魅せられることがなかった。雨音も耳障りだし、俺はとっくにうんざりしている。雨の中を外出した人のことがまったく理解できない。

 気がつくと、夏海がようやく浴室から戻ってきた。彼女は横たわっている俺とダブルベッドを何回か交互に見てから、なぜか頬を紅潮させながら口を開く。

「ねえ、雄己。ベッドが大きいし……」

 夏海の言葉が途切れた。

 そっぽを向いたまま、彼女はおずおずと再び口を開いた。

「そ、添い寝してもいい?」

 夏海の問いに、俺は突然上半身を起こし、「はぁ!?」と言葉を漏らしてしまった。

 俺が怒っていると思っているのか、夏海はびっくりして後ずさった。

「ごめん、馬鹿なことを言っちゃったね。今の無し」

 言って、夏海は俺を誤魔化そうと作り笑いを浮かべた。

 しかし、俺は彼女が雨病患者と仮定したからには、こんなことを見逃してはいけない。夏海は俺の幼馴染とはいえ、本当に俺と添い寝したいはずがない。だから、これも雨病のせいなのだろう。

「ちょっとおかしくなったよ、夏海」

 俺はそう口走った。夏海を傷つけたり泣かせたりするつもりはなかったのに、夏海はその言葉にうなだれた。

 そして、夏海はまるで世界を拒んでいるかのように、自室の一角にうずくまった。

「ごめん、雄己。でも、あたしは謝ることしかできないの。おかしくなった自覚があるし、普通のままでいたいのに、どうすればいいのかわからないの」

「まあね。夏海はそもそも、普通じゃなかったかもしれない。好奇心旺盛すぎて、いつも他人を心配させる。それでも、俺はずっと――」

 俺は危うく恥ずかしいことを打ち明けそうになった。打ち明け話が一時間前に終わったのに。しかし、言い始めたからには、何か言わなければ俺もおかしく見えてしまう。

 それでも、俺は嘘を思いつく暇はない。だから、俺は目をつぶりながら、もともと言いたかったことを言い放ってしまった。


「俺はずっと、夏海のことが好きだったんだ」


 ――やっちまったな、俺。夏海に告白するなんて。

 正直、俺は打ち明け話で夏海に告白したかったけど、勇気が足りなかった。雨が止むまで俺は夏海と時間を過ごさなければならないし、もし俺がフラれたら雨が早く止むことを祈るしかない。

 しかも、母は俺がフラれたことを知ったら、きっと俺をからかうに違いない。

 それなのに、俺は思い切って夏海に告白してみた。あとは彼女の返事を待つしかない。

 夏海の顔が腕に埋まっているせいで、どんな表情をしているのかわからなかった。

 それでも、俺は彼女に笑顔でいてほしい。


「あたしも、雄己のことが好き」


 それは、立ち上がった夏海の第一声だった。

 ようやく顔を見ると、両頬に涙の跡が残っている。


 結局、夏海は俺とダブルベッドに入ってしまった。

 俺は天井灯を切って、近すぎる彼女の身体からだをひたすら無視しようとしている。

 結構気まずいと思ったけど、夏海はむしろもっと近寄りたがっている。

 何回夏海を蹴ったり振り払ったりしても、彼女はしつこく押し寄せてくる。

 今はふざけている場合ではない。俺は溜息交じりに鋭い視線を夏海に送り、小言を言った。

「やめてくれ、夏海。眠りたいんだよ」

「あたしのことが好きだって言ったでしょ? だから、キスするよ」

 夏海は有無を言わさず俺に近寄ってきた。

 その見慣れた顔が視線を埋め尽くすと、俺は少し面食らった。

 これは、キスする準備なのかな。俺は母以外の人にキスされたことがないので、緊張も興奮もしている。

 そして、夏海は獲物を見つけた鷲かのように俺に飛びかかった。

 唇が触れ合うと、夏海の唇の熱さが俺の唇に伝わる。

 俺はされるがままに目を瞑った。

 これは夏海との恋の証なのだ。俺の家族以外初接吻ファーストキス

「どうだった? ファーストキス」

 夏海が身体からだを引きながらそう言うと、俺は彼女の顔が見えないように寝返りした。

 ――なぜなら、俺は頬を染めてしまったから。こんな表情を夏海に見せるのは絶対に嫌だ。

「良かったよ」

 そう言った途端、俺はいきなり睡魔に襲われた。

 視界が暗くなるにつれ、雨音が更に小さくなっていった。このくらいの音量なら、雨音は意外と心地よい。

 そういえば、ネットでは雨音系のASMR動画もあったっけ。俺にとって雨は雨病を連想させるから、いわゆる『閲覧注意』の動画だとずっと思い込んでおり、見たことがないのだけど。

 夏海に目をやると、彼女はすでに熟睡しているようだ。

 穏やかな雨音を背に、俺は難なく眠りについた。

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