第17話 俺たちが見たやらずの雨

 通学路を照らす陽光が徐々に弱まっていく。橙色に染まった空は薄暗くなり始めた。俺たちの影は長くなる。

 西日を見送ると同時に、俺と夏海は分かれ道で小泉さんに別れを告げた。そして、俺は夏海と一緒に家路についている。

「あのさ、夏海。小泉さんと喧嘩したよね……?」

 俺がそう言うと、夏海は悄然とうなだれた。

 空気を気まずくしたくないけど、喧嘩の件を放置してはいけない気がする。

「う、うん……。でも、あたしはわからないの。なんで小泉さんはそんなことを言ったのかな……」

「俺は少しだけ聞こえたけど……『なんで大丈夫なふりをしている』だったっけ」

「そう。でもあたしは大丈夫なふりをしていないよ。本当に大丈夫だから」

「ならいいけど……。でも、俺も――」

 俺も心配しているんだよ、と言いたかった。しかし、そう言おうとした矢先に、夏海の声が俺の言葉を遮ってしまった。

「あのね、雄己」

 夏海の横顔は逆光に照らされ、浮かび上がる。彼女の茶色い髪は少し金色っぽく見えた。

「あたし、実家に帰りたいと思う。母と相談したいの」

「そうか。まあ、まずは鞄とかを拾いに俺の家に行こうね」

 夏海は実家に帰るべきだと思う。母と喧嘩したのか、なぜか昨日は帰りたくなったようだったけど、ちゃんと母と話し合ったほうがいい。

「うん。ところで、昨日はありがとう、あたしを泊めてくれて」

「別に大したことじゃない。しかも、幼馴染なので意外と自然な感じだった」

 俺の言葉に、夏海は少し頬を染めた。

「と、とにかく、本当にありがとうね」

 夏海はなかなか礼を言うタイプではないので、本当に俺に感謝しているのだろう。

 俺は友達、いや、幼馴染として、正しいことをしただけ。それは夏海にかなりの印象を残したようだけど。

「な、せっかくだから、一緒に晩ごはんを食べないか?」

 一晩夏海との暮らしを味わった俺は、正直名残惜しい気分になった。だから、俺はもう少しだけ夏海が家に泊まったらと思って、そう提案した。

「いいけど、それならあたしの帰りが遅くなっちゃうね。これ以上お母さんを心配させたくないし」

「別に一緒に食べなくてもいいんだけど。ただの提案だったよ」

 俺は夏海を躊躇させてしまったかな。

 俺と時間を過ごし、晩ごはんを食べるか。それとも、実家に帰り、母と仲直りするか。それは彼女にとって、どれだけ難しい選択なのだろうか……。

「まあ、晩ごはんは六時ころに食べるよね? 二時間くらい泊まっても構わないと思う」

 夏海はそう言ってから夕焼けを見上げた。さながら試験で悩んで、答えが天井にあると思っている生徒かのように。

「じゃ、決めたわ。雄己と晩ごはんが食べたい」

 その言葉に、身体中にドーパミンが放出された。

 これからは夏海に二度と会えないわけではないのに、俺はなぜか彼女を独り占めにしたかった。

「さて、行こうか。俺の母なら、きっと美味しい晩ごはんを作ってくれるはず」


⯁  ⯁  ⯁


 晩ごはんを食べ終えると、俺は夏海と一緒に階段を上り、自室に入った。

 弁当箱、雑誌、くし、香水に化粧。夏海の学校鞄には、意外とたくさんのものが詰まっている。

 俺の学校鞄はと言えば、教科書と弁当箱くらいかな。夏海の重そうな鞄を見るだけで、俺の肩が痛くなる。

「なんでそんなにものを入れたの? 肩が痛いんじゃないか」

 俺の言葉に、夏海は振り返って鞄を担いでみせた。

「いや、大丈夫。多分肩が慣れてきたから」

 そして、彼女は踊るように飛び跳ねた。晩ごはんの糖分が多すぎたのか?

 俺は夏海を阻止できるわけがない。だから、俺は小泉さんのように、彼女を傍観しながら眉をひそめた。

 夏海が床に着地するたびにどしんと大きな音がする。これは近所迷惑にならないか、と俺は悩みながら頭を抱えた。

 ややあって、夏海は疲れてきたのか、学校鞄を床に置いて無断で俺のベッドに寝転んだ。

「ふあぁ、楽しかったよ!」

 と、夏海は喘ぎながらかろうじて言った。

「疲れているなら実家に帰らないだろ。っていうか、なんでそんなに元気になったの?」

「なんででしょね」

 俺は溜息を吐いて、夏海を催促するように自室のドアを開けた。彼女がそろそろ帰らないと、また一晩ここに泊まることになる。それは悪いことではないけど、夏海は実家に帰りたいと言ったので、そうしたほうがいいと思う。

「ほら、遅くなっているぞ。もう十七時だし、『これ以上母を心配させたくない』と言ったんじゃないか?」

 夏海は唐突に上半身を起こして、壁かけ時計に視線を向けた。

「あ、本当だ! じゃ、あたしは鞄を持って帰るから。晩ごはん、美味しかったよ。ごちそうさまでした」

「ああ、母に伝えるよ」

 俺は夏海を見送りに階段を下りると、玄関で靴を履いている彼女の姿が目に入った。

 壁に身体からだを預けながら、俺はその横顔を見つめた。

 一方の靴はもう履いており、今はもう一方の靴を履こうとしている。足の幅には少し小さすぎそうな靴と戦いながら、夏海の髪が左右に揺れる。

 ややあって、夏海は靴を履き終えた。いよいよ別れを告げる時間だ。

「じゃ、行くね」

「また明日」

 夏海は玄関のドアを開け、一歩外に出ていった。

 その遠ざかっていく背中を見送りながら、俺は手を振った。

 きびすを返すと、妙な音がした。言葉にすれば、『しとしと』が一番近いかな。

 ドアを振り返ると、何かが目の前にみるみる落ちて、地面にぶつかった。すると、小さな水飛沫みずしぶきのようなものが飛び散った。

 

 ――大海原の水面を歩む少女。


 俺はその悪夢ゆめをふと思い出した。どんよりとした曇り空の下で、俺は泳ぐ。その灰色めいた見たことのない雲は実在しないだろう。

 そして、彼女は空に水飛沫を飛び散らせて、それがぽつんと落ちてきた。

 それに濡れると彼女はいきなり狂ってしまい、俺を殺そうとする。

 自分に夢語りをしていると、俺は今更ながらその夢の意味に気がついた。その少女が一変したのは、雨病にかかったからだ。そして、空から落ちてきた――正確には降ってきた雫は雨のはずだ。

 それなら、さっき目の前に降ってきたのは――


 一つ。もう一つの雫が降って、消える。

 二つ。その後、地面に小さな水たまりが現れる。

 三つ。空が曇り始める。しかも、普通の白雲ではなく、俺が存在を疑っていた灰色めいた空なのだ。


 これ以上立ち尽くしてはいけない。やるべきことは一つしかない。

 俺は裸足にもかかわらずドアをくぐり抜けて、夏海の後ろ姿に駆けつける。

 彼女との距離が手が届きそうな程度になると、俺は手を伸ばし、つい彼女の後ろ髪を引っ張ってしまった。


「帰るなよ、夏海!!」

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