【完結】雨上がり、後悔を抱く
私雨
第一章 滑走路で待つ少女
第1話 着陸
『皆様、当機はまもなく
機長の声が機内に響いた。マイクの音質が極めて悪いせいで、その声は人間というより、音声合成のように聞こえた。
今年の夏休み、俺は家族と初めて海外に行った。正確には、スペインに行ったのだ。
日本と全く違う文化に浸った俺は戸惑っていたけど、俺は日に日にスペインに慣れてきた。
俺は家族と新しい料理を食べてみたり、プールで遊んだりして、一生忘れない思い出を作った。
そして、今日はいよいよ帰国の日なのだ。
東京から
騒がしい子供たちの親が何とかすればよかったのに、などと思いながら俺は悔しい気持ちで寝るのを諦めた。
――着陸まであと少しだ。
それを自分に言い聞かせながら、俺は母の鞄から一個のお菓子をこっそりと手に取り、すぐに口に含んだ。
飛行機に乗るのは初めてなのだけど、離着陸の時にお菓子を咀嚼したら、耳が痛くないと聞いたことがある。
飛行機が着陸したあと、皆が機内にずらりと並び、一人一人降りていった。
長い間座っていたせいか、俺の足取りは少しおぼつかなくなった。
無事に機内を出ていくと、俺たちは時差の激しさを実感させる朝日に目が眩んだ。今はスペインでは真夜中なのに、日本ではもう朝が来ている。時間の流れが全く掴めなくなった。
陽光に照らされた滑走路はどこか虚しく見えた。
爽やかな朝風がそっと吹いてきて、酷く長い飛行時間で疲れ果てた俺たちに活を入れてくれる。
息を呑んで目の前の光景をじっと見つめていると、誰かが俺に呼びかけた。
「こっちだよ、
その声は母や父の声ではなく、もっと久しぶりに聞こえた声だった。そのせいか、俺は声の主に気づくのに数秒かかった。
――彼女は俺の幼馴染、
俺はしばらく反応に困って、つい後ずさった。しかし、俺を狩っているかのように、夏海は俺に飛びかかって抱きしめた。
日光浴したのか、夏海の肌はいつもより日焼けしている。彼女は褐色の皮膚を引き立てる白いタンクトップを着ており、安っぽいサンダルを履いている。
今日の暑さのせいか、彼女は茶色の髪の毛をポニーテールにまとめている。ポニーテールが風に煽られて、左右になびかされていた。
至近距離で彼女を見ていると、俺は香水の香りがした。しかも、かなり高そうなやつ。香りはいいのだけど、ちょっと顔が近すぎるのではないか?
俺は
しかし、夏海は諦めなかった。俺と距離を取るつもりはなさそう。
ポニーテールが似合っているとか、香水の香りがいいとか言いたかったけど、俺にはそれを言う勇気がなかった。
そもそも、俺はなぜ『雄己』と名付けられたのだろうか。
「久しぶりだね、雄己!」
と、夏海は俺の胸元に顔を埋めながら言った。
そして、文句を言うような表情で顔を上げた。
「……寂しかったわよ」
ややあって、彼女は唇を尖らせ、ジト目というか上目遣いでこちらに目を向けてくる。
射貫くような鋭い視線を送られて、俺は驚いて更に反応に困ってしまう。
「ねえ、何か返事しろよ……。もしかして、海外で英語を喋りすぎて日本語を忘れちゃったのかな?」
「そんなわけないだろ」
と、俺はこれ以上からかわれないように口を挟んだ。
俺の言葉に、夏海はクスクスと笑った。
「ねえ、これから一緒に遊ぼうよ。あたし、本当に寂しかったから」
「そうか? 学校の友達はダメだったのか?」
「うん、彼らは全然あたしを遊びに誘おうともしなかったのよ」
「それは、皆が読書感想文で忙しいからのでは……?」
そう言うと、俺はまだ読書感想文を書き始めていないことを思い出した。そして、俺が溜息を吐きながら本を学生鞄に詰める記憶が脳裏に蘇ってしまった。
夏休み直前に課題を出すなんて、ずるすぎるじゃないか。せっかくストレスのない夏休みを過ごせると思っていたのに……。
でも、もしこの会話をしなかったら、俺は読書感想文を書かずに学校に行っただろう。マジで助かったよ、夏海。
本を読んだふりをするかと思ったけど、先生が後で俺たちの感想を訊くと言ったので、結局嘘をつくことができない。
夏海との会話を終わらせたあと、家に戻って今日中に本を読み終えたほうがいいだろう。
まだ一週間も残っているから、時間は問題ないと思う。他の人なら一週間だけで読書感想文はできないかもしれないけど、俺にとってそれはかなり余裕を持っているように思えた。
「あ、読書感想文だね! すっかり忘れてた!」
言って、俺を抱きしめていた夏海は唐突に身体を引く。
彼女の驚きに、俺の不安と緊張が完全に解けたような感覚がした。まるで肩の荷が下りたかのようだった。
安堵の溜息を吐いてから、俺は会話を進めようとした。
「実は、俺もまだやってないんだけど」
俺の言葉に、夏海は何かを思いついたのか、目を輝かせて笑みを浮かべた。
「なら、一緒にやってたら?」
確かにその選択も考えたけど、結局夏海と読書感想文をしたら集中できないと判断したのだ。
「ごめん、一人でやったらもっと効果的だと思うから」
「いいからいいから! せっかくだからあたしの家に来て」
可愛いと言える夏海にそう訴えられても俺は動じなかった。読書感想文を早く終わらせなければならないので、一人でやるしかないだろう。
「わかってるけど、課題を早く終わらせたいんだ」
俺がそう言うと、夏海は顔を歪んだ。俺はそれを彼女らしくない行動だと思い、思わず眉をひそめた。
「なんなのよ、雄己……。どうしてあたしはいつも置いてかれるのよ?」
夏海の態度はスイッチが入ったように切り替わった。そんな細かいことが気に障るわけがないのではないだろうか、と俺は思いながら返答に窮する。
――果たして、謝ったほうがいいのか? それとも、ほっておいたほうがいいのかな?
俺がその答えを見つけた矢先に、夏海の双眸から一筋の涙が溢れ出した。
一緒に読書感想文をやろうという提案を拒絶するのはいくら何でも誰かを泣かせるほど酷いことではないので、俺は心配し始めた。
「な、なんで泣いてるんだ? なんか、体調が悪いとか?」
「そ、そんなことじゃないってば!!」
そう叫んでから、夏海は突然走り出した。
俺は彼女を追いかけるかと思ったけど、飛行のことで疲れているし、とりあえず夏海をほっておくことにした。
当時の俺は、彼女のおかしい行動をわがままだと片付けてしまった。しかし、それが言葉にできないほど大きな失敗だったのだと、今の俺は痛いくらいわかっている。
俺はそれを一生後悔している。
――もっと早く気づけばよかったのに、と。
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