九作品目「夫婦喧嘩は犬も食わず、猫も眠る」

連坂唯音

夫婦喧嘩は犬も食わず、猫も眠る

 デクデク、という音を聞くと梅子は思わずそちらを振り向いてしまう。この音はここ数年で東京市で急速に増えた。見た目もやはり見慣れない。馬車よりも一回り小ぶりだが、見た目はまるで虫のようだ。四つの回転する足で体を震わせながら路を走行し、緑色の光沢をもつ車体はコガネムシのような甲虫類が持つ外殻に見える。自動車という虫が東京に巣食っているのではないかと思うほどだ。ふと、十年前に市内の青梅という駅付近で母とコガネムシを捕まえている光景を思い出す。

 

 そんなことをぼんやり考えながら、今日の新聞を広げる。

大見出しは『文壇の雄 芥川龍之介氏 死を賛美して死す』となっていた。梅子は記事の内容に目を走らせかけたとき、台所から「なあ梅子、なあこの本に載っている『ぜんまい』ってなに?」と夫が呼ぶのですぐに立ち上がる。

 

 台所に立つ夫の背はとても頼りなく見えた。仕事に出掛けるときの背はとても力強さが滲んでいるのに。

「ぜんまいも知らないの? 春の食材。野原に自生している渦巻の形をした植物のこと」

 夫の手元にはまな板と、開かれた料理本が置いてあった。開かれたページに料理名が記載されている。『ぜんまいと油揚の甘煮』の製法が三文ほどで綴られていた。

『乾したぜんまいを水に浸け軟くなつた時根の硬いところは切り捨てゝ一寸位に切り適宜に切つた油揚と共に一旦ざつと茹で其の水を捨てゝ醤油砂糖鰹節であぢをつけます。』と梅子が声にだして読み上げる。

 「これ私がいつも作ってるやつ。どういう風の吹き回し? あなた料理できるの? というより、これ作る気なの?」と言って梅子が夫の濡れた手に目を落とす。とてもきれいな肌をした甲だった。梅子の荒れた手とは違う。

「なんか急におれ料理したくなってよ。いや、梅子の料理が不味いとかいう意味じゃないからよ。その、梅子が普段、家でどういうことをしているのか知りたくなってよ」夫は梅子の目を見ようとせず、しどろもどろに返事をする。

「へんなひとね。だからさっきも急に洗濯物を洗って干してくれたわけ? あんた今日なんかへん」

「いいからよ。ぜんまい家にないだろ? 河川敷行けば採れるか?」

「ぜんまいはいつもお隣の陸奥さんから分けてもらってる。今からいく?」


 表札に陸奥という文字が入った家の前に梅子と夫は来た。玄関が開いているので、誰かしら家の中にいるのだろう。玄関に三毛猫がうずくまって寝ていた。

「陸奥さーん、隣の尾下ですけ──」梅子がそう呼びかけた時、奥から

「あんたずっと一日中寝転んで! あたしの苦労分かってるのっ。あんたのために飯、風呂、洗濯やってるわけじゃないのっ。召使いじゃないのよ、あたしはっ。あんたなんか、道端に落とされた馬の糞に寄ってたかる蠅以下の根性で、その牝馬みたいな腹だして畳に寝転ぶ資格もないわっ。逆玉の輿に乗って楽しいっ?」

「うるせえ、てめえ誰の金で飯を食えているんだろうと思ってんだ! 俺の行動に口ごたえしてんじゃねえ!」

「私の働いた金よっ。あんたの稼ぎは全て賭博に消えているじゃないっ。何いってくれてんのかしら」

 怒声が聞えてきた。睦月夫妻の声だろう。梅子と夫は少し顔を見合わせた。そして少し噴きだした。

「今日は睦月夫妻はご機嫌悪しゅうって感じね。いえ、今日もか。ぜんまいはもらえなさそうだから通りの商店街に行って買おうか」

 梅子はそう言うと、夫は

「そうしたほうがいいかもな。触らぬ神に祟りなしだ」と同じお道化た調子で答える。去り際にもう一度睦月家の玄関を見る。猫は家主の怒声に全く素知らぬという風に眠こけている。

「あの猫、奴らの夫婦喧嘩に慣れているようだな。全く起きやしない。まあ、あの夫婦、明日には同じ夫婦かって思うぐらい仲睦まじい姿で通りを歩いていることだろうよ」夫はそう言って、通りの方に歩き出した。

 

 ぜんまいや魚、醬油を商店街にて調達し、梅子と夫は帰路についた。

狭い小路を通って、家へと向かう。赤い光が二人を照らした。もう街灯がちらちら点灯する時間である。

「ねえ、あんたが今日料理をしようと思ったきかっけって、あれ?」梅子が前方を見ながら口を開く。

「あれ?」夫が前方を見据える。

「違う。方向は関係ない。睦月夫妻のこと」梅子が夫を肘で小突く。

「なるほど。俺が普段から睦月夫婦の亭主関白、いや、逆玉の輿の乗りぶりを見ているから、お前の家事を手伝おうと思ったと、お前は考えているわけか」

「違うの?」

「半分当たっているな。ああいう夫にはなりたくないよ。しかし、おれが料理を作りたいと思ったのは梅子のせいさ」

「私?」

「梅子の料理はほんとおいしくてな。料理に挑戦する前までは、おれにでも作れるだろうと高を括っていたが、想像以上に手間取る。お前は気づいていなかったかもしれないが、おれは何度か梅子の料理を自分で作ろうとしたんだ。どうも梅子の味が再現できなくてな。梅子に頼らず本を読んで料理を完成させようと思ったが、梅子がいないとおれはダメなようだ」

「今更何言ってんのよ」梅子の顔が少し火照る。

「なあ、おれは梅子を頼らなくてはいけないんだよ。だからこれからもよろしくお願いします」

「馬鹿。なにかしこまっているの」

 夫婦は小路を抜けた。

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九作品目「夫婦喧嘩は犬も食わず、猫も眠る」 連坂唯音 @renzaka2023yuine

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