丑三つ散歩
雨飴シシ
プロローグ
何かのために必死に走っているうちに、何のために走っているのかを忘れてしまった。足を踏み出すことにいっぱいいっぱいだった。そんな俺に残ったのは必死に走り続けて疲れ果てた重たい体だけだった。
アパートの扉を開けると夜風がTシャツの裾から入って来た。少しだけ肌寒くて短く息を吸い込む。もう八月も下旬にさしかかり秋が近づいているんだと思わされる。
アパートを出て近くの信号を渡ると、すぐに下り坂がある。坂は石レンガみたいになっていて、石レンガの溝にはどんぐりが挟まっている。
いつも見ているはずの景色も場所も歩く時間を変えるだけで、全く違う景色に見えてくる。俺は何だかこの全く違う景色が特別なものに映って嫌いではなかった。
坂を下り終えると右側に石畳で出来た道を吊灯篭が照らす、なんだか趣のある道が伸びている。門の閉じた深大寺へと続く道なりには営業時間外で真っ暗なそば屋が並んでいる。
休日の昼間にはたくさんの人を見かける道だが、こんな遅い時間にはさすがに自分以外の人影はなかった。
何店かあるそば屋の隣には自販機が置かれている。飲み物を売っている自販機とアイスを売っている自販機がそれぞれ一つずつ置かれている。
気分的には温かい飲み物を飲みたかったが、まだ八月の下旬。さすがに自販機の飲み物は冷たい物ばかりが並んでいた。
俺がボーっと何にしようか自販機を見つめている時だった。
「ねえ」
ふいに女の人だと思われる声が背後から聞こえて、ビクッと背筋が伸びた。
その際に自販機のボタンを押してしまったみたいで、飲み物がガタンと落下した音がする。
後ろを振り返るとセーラー服姿の少女が立っていた。胸元には白いスカーフが通されている。
「ねえ、君はこんな場所で何をしているの?」
首を傾げる少女の短い髪が揺れた。
「ねえ、聞いてるの?」
明らかに年下のはずなのに真っすぐと少女が見つめてくるせいでうまく口を動かせなかった。
「な、何って……飲み物を買いに来ただけだ」
「こんな時間に?」
確かアパートを出た時にはすでに夜中の二時を過ぎていた気がする。だから少女が疑問に思うのも自然ではあるが――。
「お前の方こそこんな時間に何やってるんだよ。見るからに高校生とかだろ? 補導されるぞ」
「私は補導なんてされないよ」
警察にはバレずに隠れれるという事なのか。さっき下って来た坂を登ればすぐに交番はあるが、ここら辺を警察が歩いているところは見たことがない。
まあ俺が言いたいのはそういう事ではないのだが。
「ねえ、もしかして君は暇な人?」
この少女は遠慮というものがないのか。それともただ単純にこいつに警戒心というものがないのか。それにしたって見ず知らずの赤の他人には多少は気を遣ってもいいものだとは思う。
「別に暇なんかじゃない」
「ほんとかな~?」
少女は顔を上げて夜空なんかを見始めた。態度といい、口調といい、こいつはなんだか少しだけむかつく。
それにほんの少しだけ顔がいいのもむかつく。
少女のことが鬱陶しく思えてきて、視線を逸らすように間違って買ってしまった飲み物を手に取る。
よりによってただの水かよ……。せめて炭酸水だったら良かったのに。
「暇なら君にお願いしたいことがあるんだけどさ」
「だから、俺は――」
暇なんかじゃない。そう最後まで言おうとして言えなかった。
さっきまで夜空なんか見上げていた少女の顔が息のかかりそうなくらい近くにあったからだ。驚いてつい後ずさってしまう。
「私のお願い聞いてくれるでしょ?」
少女の薄い唇が自分勝手なことを言い出す。
買った飲み物のペットボトルの蓋を開けながら俺は女とは反対方向に顔を背けた。
「聞くわけないだろ。てかなんで俺なんだよ。友達とかに頼めばいいだけの話だろ」
「ええーだって暇な人にしか頼めないことだし」
「だから俺は別に暇な人じゃないって言ってるだろ」
こいつは人の話を聞いていないのか。それにこいつに俺が少しバカにされている気がしてならない。
呆れながら俺はペットボトルの水を一口飲んだ。
「暇な君にね。私が出てくる小説を書いて欲しいんだ」
少女の方に顔を向きなおしたのと同時に体に力が入った。手に持っているペットボトルがへこんでいるのが分かる。
少女と目が合ったかと思うと、少女はまた顔を上げて夜空を見始めた。
話をしたいのか、夜空なんかを見ていたいのかハッキリしない少女の態度がむかついた。
でもそれ以上に俺は動揺してしまっていた。
無意識のうちにペットボトルを握る力が強くなって、ペットボトルが音を立てて少しだけ潰れてしまう。ペットボトルから中の水がこぼれ出てきて左手が冷たかった。
「どうかしたの?」
ペットボトルの潰れる音に反応したのか、女はまた真っすぐに俺を見つめていた。
「べ、別に……お前には関係のないことだ」
「関係なくないよ。だって君はまだ了承してくれてないじゃん」
「しつこいな! 書くわけないだろ小説なんて!」
むかついて大声を出してしまった。相手は見るからに自分なんかよりも年下の少女だっていうのに。
自分が子供みたいに思えて情けなかった。
「……小説なんてもう書きたくないんだ。それにもう、書けないんだよ……俺は……」
なんで俺、こいつにこんなこと喋ってんだろ。
口に出してしまったことを内心後悔している時だった。
左手にひんやりとした感触がした。ペットボトルからこぼれてしまった水とは違う冷たいものだった。
驚いて顔を上げると、俺の左手を少女が両手で包み込んでいた。
そして少女はまた俺のことを真っすぐに見つめて、
「君は書けるよ。小説」
力強くそう言ってくれた。
「な、何を根拠にそんなこと言ってんだよ、お前は」
少女の両手が俺の左手から離れると、そのまま少女は何歩か後ろに下がる。手を後ろで組んで下から覗き込むように俺の顔を見ながら。
「だって君は暇な人でしょ?」
短い髪を揺らして、薄いその唇で自分勝手なことを言って、少女は笑った。
人の話をまったくもって聞いていない少女に反論しようとしたが、俺が口を開くより先に少女が喋り出す。
「だから、また明日ここに来てよ。同じ時間にさ」
そう言うと少女はバス停の方へと突然走り出して、「約束だからね~。待ってるからね~」と言い残して走り去って行ってしまった。
「何なんだよ、あいつ……」
少女の走り去った方向をボーっと見つめながら、俺はもう一度ペットボトルに口を付けて水を飲んだ。
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