『Fantasie Impromptu』

平 遊

第1話 運命の扉

 中学校から戻ると、制服のままグランドピアノの椅子に座り、扉だけが描かれたシンプルなその絵を、美音みおんはぼんやりと眺めていた。

 学校から戻るなりグランドピアノの椅子に座るのは、美音にとっては習慣のようなものだ。ピアノのレッスン自体は少し前にやめたものの、習慣はそう簡単には抜けないらしい。

 美音が眺めている『扉だけが描かれた絵』は、昔から今美音が居る防音室の壁に飾られている絵だった。防音室には、祖父の愛したトランペット、祖母がよく子守唄代わりに吹いて聴かせてくれたフルート、父がよく吹いてくれたクラリネット、父の弟にあたる叔父がよく聴かせてくれたヴァイオリン、そして母がよく弾いてくれた、美音が嫌というほど練習をさせられたピアノが置かれている。

 美音の家は昔から音楽好きな一家で、祖父も祖母も父も父の弟の叔父も、皆それぞれに好きな楽器を演奏していたという。そこに嫁いできた母ももちろん、音楽好きだ。

 だから、美音も物心ついたときから音楽が大好きで、よくこの防音室に入り浸っていたものだった。祖父母も両親も叔父も、美音を殊の外可愛がっており、自分の愛する楽器を美音にも好きになって欲しいと望んでいたし、美音はどの楽器も好きだった。

 最終的に美音が選んだのは、ピアノ。母親が楽しそうに弾くピアノの音が、美音の心を強く掴んだからだった。けれども、楽しかったはずのピアノの練習は、いつしか美音にとっては苦痛なものでしかなくなっていた。ピアニストに憧れていた母親は、美音がピアノに興味を持ったことが余程嬉しかったのだろう。教育ママならぬ、その姿はもはや鬼のようなレッスンママ。お陰で美音は、友達と遊ぶ時間もテレビを見る時間も全てをピアノの練習に費やさなければならなかった。

 弾きたくもない曲の練習のために。

 美音はただ、かつて母親がそうしていたように、好きな曲を楽しく弾けるようになりたかっただけだったのに。

 一方で、同時期にピアノを習い始めた幼馴染の朱音あかねは今でもピアノのレッスンを続けていて、練習が楽しくて仕方がないと言っている。

 高校受験を理由に、美音はようやく母親を説得してピアノのレッスンから開放してもらうことができたのだが、ピアノの音を聴くたびに、朱音が楽しそうにピアノの話をするのを聞くたびに、心の中にさざ波が立つような落ち着かなさを感じるのだった。


 昔、祖母がこんなことを言っていたのを美音は覚えている。


『あの扉はね、不思議な世界に繋がっているんだよ。心が迷ってしまったときに、運命の楽器相手に出会える世界に、ね』


(私の運命の楽器は、きっとピアノなんかじゃなかったんだ……)


 膝の上の拳を握りしめ、美音は呟く。


「嫌い……大嫌い。ピアノなんて。もう絶対に、二度と弾かない……」


 吐き出したのは、誰にも打ち明けられなかった胸の中の澱。

 スッキリして凪ぐかと思った胸の中には、激しい感情が嵐のように渦巻いている。


(どう……して……?)


 やがて、湧き上がってきた涙で景色がぼやけ始めた時、絵の中の扉がわずかに動いたような気がした。


(まさか)


 椅子から立ち上がると、涙を拭いながら、美音は恐る恐る扉の絵の方へと近づく。


「え……ウソ、扉が開いて、る?!」


 とたん。


「キャッ!」


 突然、開いた扉に向かって吹き込む強い風の渦に体ごと持ち上げられた美音は、そのまま風に攫われるようにして扉の中へと吸い込まれた。



 ふと気づくと、美音は何かの上に座っていた。その美音を囲むようにして、美音と同年代と思われる4人の少年が、興味津々な目で美音を眺めている。


「えっと、あの……」

「気づいたみたいだな」


 耳のすぐ後ろから聞こえた心地よく響く声に、美音は思わず飛び上がった。振り返って確認すれば、美音が座っていたのは1人の少年の膝の上。


「えっ?!あっ、ごっ、ごめんなさいっ!」


 訳が分からないながらも、美音は恥ずかしさのあまり顔を真っ赤に染めて頭を下げた。そんな美音の周りから、クスクスと笑い声が沸き起こる。


「大丈夫だよ、みぃおん。ノアは座られ慣れてるし」

「そうそう。お気になさらず」

「それより、お顔が真っ赤ですよ?大丈夫ですか?」

「おいで、姫。俺が落ち着かせてあげるから」


 顔を上げれば、4人の少年は美音の直ぐ目の前にまで迫っている。そして、すぐ後ろには美音がその膝の上に座ってしまっていた少年が。


(もうっ、なにっ?!なんなのっ?!誰なのこの人達?!)


 パニックに陥って声も出ない美音に、後ろに立つ少年の声が聞こえた。


「ようこそ。運命の扉へ」


 その言葉に、美音の前に立つ4人の少年も口々に声を上げる。


「遅いよぉ、みぃおん!」

「いらっしゃい、みぃ」

「お待ちしてましたよ、みぃちゃん」

「会いたかったよ、姫」


 それぞれに皆、笑顔を浮かべて美音を見つめる中、ただ一人状況が理解できない美音は。


「……え?」


 ポカンと口を開けて、見覚えのない5人の少年の顔を順繰りに眺めたのだった。

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