骨まで愛して

平賀学

第1話

 体育の時間、準備体操でペアになった子があたしの小指を引っ張ったらちぎれた。

 小指は第二関節くらいからずるっとちぎれてとれてしまって、ペアの子――西村さん――もあたしも何を見たんだかわからなくて瞬きをした。遅れて、西村さんが悲鳴を上げた。西村さんの右手にはあたしの左手の小指(半分より先)がつままれていて、あたしの左手の小指があったところからは、どろどろ、暗い色の血がこぼれていた。かゆい。痛みはあんまり感じなくて、そう思った。

 体育の授業は大騒ぎになって、伝染する悲鳴やざわめきの中で、あたしたちを見た先生も青い顔をして、あたしを保健室に連れて行った。小指を取り上げられた西村さんはひきつけを起こしたみたいに泣いていて、友だちが背中をさすっていた。


 大きな病院で処置と、いろいろな検査を受けて、お医者様が一通りの説明をして一度席を外したとき、お母さんは額を押さえて倒れそうな表情をしていた。漫画みたいにわかりやすかった。

「どうして何も言わなかったの」

「聞かれなかったから」

 ここが病院じゃなかったら、お母さんは大声を上げていたと思う。

 お医者様の説明だと、あたしは体がゆるくなってるらしい。かっこいい響きの病名も教えてもらったけど、覚えなくてよさそうだったので覚えてない。とにかく、今ぐるぐるに包帯を巻かれている小指みたいに、体中がもろくて崩れやすくなってるんだと言われた。検査の結果次第だけど、それは表面だけじゃなくて、恐らくは内臓もだろうから、痛みにせよなんにせよ何かしら弊害が出ているだろう。それを誰もご存じなかったんですかというのをお母さんに気を遣った、刺激しないような言い回しでお医者様は尋ねた。もちろん、あたしは誰にも何も言ってなかったから、お母さんは空気の抜けた風船みたいな返事しかできなかった。

 長い、言いたいことをこらえるようなため息をついた後、お母さんはぼそりとこぼした。

「お父さんにも連絡しておくから」

 あたしは何も言わなかった。


 あたしの体がぐずぐずなことがわかったので、病院に入れられることになった。入院したら出てくることはない。そういう状態だというのをお医者様は説明してくれた。優しい言葉や声色を使おうとしていて、いい人なんだなと思った。

 クラスのライングループでみんな心配のメッセージを飛ばしてきたから、あたしは入院のことと、その内治ることを説明しておいた。

 スマホをなぞるひとさし指にはもう感覚がほとんどない。前から少しずつ違和感があって、だんだん感覚がなくなっていったけど、それを今まで誰かにバレない程度には動かせていた。

 服や日用品を、修学旅行に使った大きなかばんに詰め込んで、それで準備はおしまい。

 あと数日したら、真っ白な部屋で日がな一日テレビでも見ながら過ごすことになるんだ。

 特に感慨深さもなく、自分の部屋のベッドの上でぼんやりと過ごしていたら、チャイムが鳴った。

 一階の玄関の開く音。お母さんと誰かのやり取り。ぱたぱた、スリッパを履いた足が二階に上がってくる音。

「お友達よ」

 あたしの部屋の扉の向こうで、お母さんが言った。


 パジャマにカーディガンを羽織って、一階に降りると、玄関に制服姿の男の子が突っ立っていた。落ち着かなさげにしている。見覚えはあるんだけど、誰だっけ。考えてから、やっと名前が出てきた。

「石坂君。どうしたの」

 石坂君が顔を上げる。そばかすの散った、にきびの浮いた顔。クラスでもぱっとしないからあまり記憶に残っていない。

「どうって、真岩さん、大丈夫なの、歩いたりして」

 石坂君がうろたえる。そういえばたいへんな病気になっているんだった。

「大丈夫だよ、こないだも歩いてたでしょ。急に足が動かなくなるような病気じゃないし」

「でも……」

 石坂君の視線が包帯を巻かれた左手の小指の方へ、一瞬向けられる。

 あたしはわざとそれを右手でかばうようにした。石坂君が竦んだのがわかった。

「大丈夫って言ってるでしょ。それより、何の用?」

 笑顔を作ってもう一度尋ねる。

 石坂君は、口を開こうとして、リビングに向かう扉へ目をやった。向こうにはお母さんがいる。

「外で話そうか」

 サンダルを足に引っかけて、石坂君の背を軽く押す。あまり強く押すと、今はバランス感覚が弱くなってるから、あたしの方が倒れてしまうかもしれない。

 石坂君は迷う様子を見せたけど、黙って一緒に玄関の外に出た。


「入院するんだよね。長いこと」

「うん」

 あたしは石坂君もクラスのライングループにいたんだと思った。発言したところは見たことないかもしれない。してたとしても覚えてない。

 二人で玄関の外の石段に腰掛けた。あたしはパジャマだったので、薄い布越しにおしりに石の冷たさが伝わってきた。

「それで、退院っていつになるの?」

 石坂君は自分の手に視線を下ろして、ぼそぼそ言った。

「さあ、知らない」

「長くはなるよね」

「たぶんね。それで結局何の用?」

 自分の髪をいじっていたら枝毛を見つけた。

 石坂君が視界の端でこっちを向いたので、あたしも顔を上げた。

「その、卒業したらたぶん、会うことないだろうから、えっと」

 石坂君が、つっかえつっかえ、要領悪く言う。

「ああ、いや、そんなに長くなんてならないほうがいいんだけど。それで。言っておこうと思って」

「何を?」

「真岩さんがし、好きなんだ」

 石坂君はちょっと噛んで言い切った後すぐにまた俯いた。何度も瞬きをしていた。

「急にこんなこと言われても迷惑だと思う。でも、伝えるだけ伝えておきたくて。ええと、入院がんばってね」

 早口でそう続けて、よくわからない励ましで結んだ。

「それじゃ」

 石坂君は立ち上がると、あたしの方を見もせずに、逃げるように離れようとした。

 その制服の裾を右手でつかまえた。相変わらず感覚はない。立ち止まった石坂君が、こちらを振り返ったので、視線が合った。

「ねえ、それって告白だよね。いいよ」

 あたしは笑った。石坂君は、表情があんまり変わらないから、何を考えてるのかわかりにくかった。

「付き合おうよ」

「えっ」

 自分から好きだって言ったくせに、石坂くんはぽかんと口を開けていた。これは驚いてるんだってわかった。

「でもね、あたしと付き合うなら、あたしのこと、骨まで愛してね」

「骨?」

 オウム返しをする石坂君の、少し骨ばった右手に、あたしの、包帯を巻いた左手を重ねる。石坂君がびくりとするのが伝わった。

「うん。そうしてくれるなら、まず、あたしをここから連れ出して。この家からできるだけ遠くて、大人に見つからないところ」

 だいぶ考えるような間が空いて、「だめだよ」と返ってきた。

「入院するんでしょ、これ以上真岩さんを歩かせるとか、その、治ってからにしよう」

「治らないよ。退院しない」

 石坂君が黙った。

「治るなんて嘘。あたし、この先ずっと病院で暮らすの。それで、石坂君が卒業するまでには死んでるかもね」

 相変わらず返事はない。

「ねえ、どうする?」

 あたしは催促した。久しぶりに楽しくて笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

骨まで愛して 平賀学 @kabitamago

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ