第5話

「は?」


何度も自分の目を疑った。


川から上がり衣服を乾かした俺は、人が住んでいそうな場所を探すために川に沿いながらかなりの距離を歩いていた。


古来より、人は川の近くに居をかまえる。


現代ではどこに住んでいても水や電気といったライフラインに困ることはあまりない。そして、水汲みの苦労をやわらげるために川の近くに集落をつくり、農業に使う水路として活用した歴史からそういった地域は発展したケースが多かった。


そのうち道路や人を目にすることもあるだろうと安易に考えてしまっていた。


なぜ本州にいないはずのヒグマと遭遇し、日本には自生していないはずの植物を目にすることになったのかは深く考えないようにした。


ヒグマはどこかの施設で飼われていたのが逃げたのかもしれない。


植物は誰かが種子を運んできたのかもしれない。


そういった現実逃避ともいえる思考しかしないようにした。


しかし、少し前に目にした光景が俺を現実に引き戻したのだ。


ようやく未舗装の道を見つけ、人が住んでいると思った。


その道は田舎にあるような畦道のようなものだ。


熊がいるのだから田舎なのは当たり前だろうと思いつつも、道に残った車輪の跡に夢かまぼろしかを見ているのではないかと感じていた。


車輪の跡は車のものではない。


極端に細い車輪跡。それに蹄の跡が前後している。


田植機かなにかだろうと思ってしまいたかった。しかし、車輪はともかく、蹄の跡は他の可能性を連想することが出来ない。


その跡を追ってしばらく行くと、道の脇にあった広場でそれを見つけた。


馬糞だ。


もう否定はできない。


この車輪の跡は馬車に違いなかった。


とてつもなく不安な気持ちにさせる。


これまでの情報を繋ぎ合わせると、日本にいると思っていたことが土台から崩れてしまうのだ。


気候に関してはなんともいえない。しかし、国土の広さから考えると地域に寄っては似ているところもあるだろう。あの国の首都は日本と同じような四季である。


そしてヒグマやペニーロイヤルミント、ブナから想像するのはフランスやその近郊だ。


俺はもしかしたら知らないうちにヨーロッパに来てしまったのだろうか。


記憶が曖昧なこともある。


少し腰を落ち着けて、ここに至るまでのことを思い出せないか試すことにした。




順風満帆だと思っていた日々がひとつのことをきっかけに崩壊する。


それはよくある人生の1ページに過ぎないのかもしれない。


俺は幼い頃から異常なまでの知識欲を持っており、興味を持ったことに対する探究心は周りを呆れさせるほどだった。


図書館にこもっては開館から閉館まで居座り、時には1日で100を超える文献に目を通す。気になったことについては持参したノートにメモ書きし、帰宅してからそれを別のノートに整理するということを小学生の頃から行っていた。


中学生になってからは部活に集中したせいでその習慣もなりを潜めたが、高校に入ってからはまた同じような生活を繰り返している。


事故で両親を早くに失った俺は、祖父の家に引き取られていた。


祖父は合気道を修めており、幼少期から家にこもりがちな俺を道場へと連れ出しては体を鍛えさせることに生きがいを感じている。


彼は道場を経営しているのではなく、他に仕事を持っていた。俺がその仕事の内容を知ったのは高校生の時で、それがアメリカの軍人向けの武術指導であることに驚いたものだ。


俺が中学生の頃から頻繁に家をあけることが多くなった祖父は、定期的に渡米してその職務にあたっていたらしい。合気道とアメリカ軍との関係性については意外と古く、もともと日本の警察の逮捕術の一環で合気道を指導していた祖父にその職務を紹介した人がいたのだ。


俺も長期休暇のときに何度か渡米して武術指導に参加したことがあった。


合気道でも拳を使うことはあるが、体の弱い部分に当身で使う程度で高い効果を発揮する。あまり知られていないが、武術としての合気道は全身が武器となるのだ。


体を鍛えることを続けていたとはいえ、マッチョな体つきでもないし、一見して武術を身につけていると思われるような外観的特徴などもなかった。


高校時代は週に数回のアルバイトで携帯電話を契約し、家のパソコンと併用することで知識の幅をさらに広げている。


高1の秋頃から本格的にブログを立ち上げ、Webで知恵袋のようなものを開設した。


これまでに蓄えた知識を整理したノートを引っ張り出し、そこから公開した記事はわずか3ヶ月で1500を超えている。しばらくして日々のアクセス数が100を突破するようになり、半年後には数千にまで伸びた。


アドセンス広告の申請もすぐに通ったため、そこからは少ないながらも毎日収益が上がるようになり、アルバイトをしなくとも一般的な会社員の月給並に稼げるようになった。


大学の進学が決まる頃には年間所得は1000万円を超える見込みにまで上がり、調子に乗った俺は仲間たちと共に大学入学後に事業を立ち上げることになる。



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