第4話

獣避けに置いたペニーロイヤルミントなど、突進してきたら何の役にも立たない。


本気で突進された場合、倒れ込んで防御姿勢になれという対策法もあるが、捕食する気で襲われたら助からないだろう。


後ろの川に飛び込んだとしても、熊は泳ぐこともできると聞いている。


八方塞がりだった。


両手を最大限に伸ばして振りながら、ゆっくりと後退する。


熊は急激な動きを見せると興奮し、背中を向けると自分よりも弱い相手と見なして攻撃的になるらしい。


山の中での弱肉強食の世界。


ヒグマはこの環境では生態系のトップだ。


よく熊に襲われたという事件をメディアで見かけるが、こうなると対岸の火事では済まない。


俺をじっと見ていた熊が、迂回するかのように横に回り出した。


両手を振っていたことが注意を引きつけてしまったのだろうか。


絶えず熊の正面を見据えるように動き、足をどこかに引っ掛けないように気を配った。


長い時間が過ぎたように感じる。


しかし、移動した距離は互いに数十メートルといったところだ。


熊との距離はまだそれほど縮まっていない。


マタギは熊と出会うと、木に身を寄せて手足を隠すという。


木化けと呼ばれるその手法で、熊の視界からその身を隠すのだそうだ。だが、そんな都合のいい木は近くにない。焚き火ともだいぶ距離があいてしまった。


このままでは埒が明かない。


いちかばちかの賭けに出ようと思った。


川までの距離は10メートルあるかないかだ。俺はそちらに向かって全速力で走った。


視界の隅に熊がこちらに向かって走り出したのが見える。


恐怖で心臓がせりだしそうだ。


俺は熊から視線をはずし、川の中に足を入れた。


後ろからは駆けてくる足音がどんどん近づいてくる。


いきなり腰の深さまで水に浸かった。


川底が急に深くなったようだ。


俺は川の流れに乗って必死にクロールで泳ぐ。


熊がどこまで近づいているかはわからない。


無我夢中で腕を動かしていると、流れが急激になり体を押しやるように前へと進ませた。


見た目はゆったりとした感じだったが、川は真っ直ぐに流れている所は真ん中に近づくにつれて急流になるのがセオリーだ。


俺はそのまま流れに身を任せて川を下っていった。




危なかった。


熊から遠ざかったのはよかったが、流れの激しさに何度か飲み込まれそうになり自由がきかない状態が続く。


どれくらい流されたかはわからないが、川幅が広くなり流れがおだやかな場所へと流れ着いたのだ。


重い腕を必死で動かして川岸へとたどり着く。


全身が重く、息が荒い。


無理やり体を引き上げて周りに視線をやる。


幸いにもあの熊は追ってこなかったようだ。


とりあえず、安全なところで休みたかった。


しかし、また別の熊に遭遇しないとも限らない。下手に山中を動き回るのは得策ではないだろう。


川の先を見る。


ここはまだ川の上流部だ。このまま川を泳いで中流まで移動するのは危険だと思えた。


「いや、山で熊から逃げ回るよりはマシか。」


滝などがあればひとたまりもないかもしれない。しかし、生きたまま熊に食われるよりはいいと思った。死ぬ危険があるなら、食い殺されるよりも川に飲みこまれる方がまだマシだろう。


頭が混乱し、恐怖を感じている自覚はあった。


それでも生きるために足掻くなら、動物よりも自然と対峙した方が希望がある気がしたのだ。


しばらくじっとして息を整える。


問題はこのまま川の流れに身を任せても大丈夫かどうかだ。


水の流れは川底の地形や幅で様々に変化する。


川の真ん中や曲がり角の外側などは激流になることも多く、下手をすると川岸の岩に叩きつけられたり水中から浮上できなくなることもあるだろう。


そう考えていると、それほど大きくない流木が流れてくるのが見えた。


あれにつかまったら安全だろうか。


そんなことを思うが、考えているうちに目の前を通り過ぎてしまうだろう。


俺は再び川の流れに入り、流木へと近づいて行った。




不幸中の幸いといえるだろう。


流木に何とか掴まることに成功した俺は、急流に飲まれることなく中流域まで移動することができた。


なんのこともない。


流木を見つけた所から中流域まではそれほど距離が離れていなかったのだ。


中流域というのは山間を越えた平野部に差し掛かった場所で、川幅も広くなり流れもかなり緩やかになっていた。


相変わらず、人の気配は感じられないが木々が生い茂ってた環境からはだいぶ視界が晴れたというべきか。


ただ、そういった状況にも関わらず、川の水は濁ることもなくきれいだった。


本当に俺はどこにいるのだろうか。


まったく検討がつかなかった。



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