2021年8月8日の夜に僕がようやく気付いたこと
渚 孝人
第1話
家に帰ってテレビをつけると、丁度オリンピックの閉会式をやっている所だった。
他にすることも無かったので、僕はソファーに座ってコンビニで買ってきたミックスナッツを小皿にあけて食べた。良く冷えたビールの蓋を開けると、プシュッという小気味の良い音がアパートの部屋に小さく響いた。ビールは持って帰って来る間に揺れていたからか、口の所から炭酸の泡がすぐにあふれ出してきた。それをこぼさないように、僕はひと口目で350mlの半分ほどを喉の奥に流し込んだ。暑い夜に冷えたビールを飲むのは、やはり堪らなく美味しい。それからソファーに寄りかかって、ふーっと大きく息をついた。
そして僕は誰に言うでもなくこうつぶやいた。
「オリンピック、そういえば見て無かったなあ」と。
オリンピックに興味がなかった訳ではない。7月の後半に東京オリンピックが開幕したころは頑張って日本の選手を応援していたのだが、連日金メダルの報道が流れるうちに仕事が忙しくなってしまい、ここ1週間ほどは全くと言っていいほどテレビを見ていなかったのだ。ネットニュースを見れば結果が大体分かってしまうという、便利な時代のせいもあった。
いや、違うな。と僕はビールをちびちびと飲みながら思った。仕事が忙しかったのは事実だけれど、やっぱりどこかで無観客というのが引っ掛かっていたのだ。今までのオリンピックみたいに、心から熱狂することがどうも出来なかったのだ。せっかく東京でオリンピックをしていたというのに。ああ、何て勿体ない。
テレビの画面は、各国の選手たちが旗を振りながら入場してくる様子を映し出していた。流れている音楽はとても楽しげだ。選手たちも楽しそうに手を振っている。でも何故かは分からないけれど、その映像は僕をどうしようもなくセンチな気持ちにさせた。それは「悲しい」とも言えるし、「寂しい」とも言えるし、あるいはそのどちらでも無いような複雑な感情だった。僕はそんな行き場のない気持ちを抱えたまま、ぼーっと閉会式の様子を眺め続けていた。そして時折思い出したように、ミックスナッツをぼりぼりとつまんで食べた。
いったい何なんだ、この感情は?と僕は思った。この行き場のない、やり場のない、ぐちゃぐちゃに混ざり合った感情は。まるで僕という人間の奥底に眠っていたカオスが、今になって呼び覚まされたかのようだった。するとその感情に呼応するかのように、平家物語のあの有名な一節がふと頭に浮かんできた。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と。
2020年にコロナは瞬く間に世界を変えて、開催されるのが当たり前だと思っていた東京オリンピックは全然当たり前ではなくなった。日本人は(というか僕は)きっと忘れてしまっていたのだろう。この世は常に変わりゆくという「諸行無常」の世界観を。それを図らずもコロナが思い出させたのだ。
僕の手はまるで現実から逃げるように、テレビを消してスマホを触り始めた。でも結局のところ、飛び込んでくるのは目を覆いたくなるようなニュースばかりだった。世界のどこかの国で果てしなく続く紛争、コロナで病院にかつぎ込まれる人たち、誰かが犠牲になった殺人事件。どれだけネットサーフィンを続けても、明るい光を見つけることは出来なかった。そのうちに僕は耐え切れなくなって、スマホを放り出して両手で顔を覆った。
一体どうしてしまったんだろう、と僕は思った。何でこの世界には、こんなに嫌なニュースばかり溢れているんだ?誰かが僕の頭をおかしくさせるために、嫌なニュースばかり流すようにメディアにこっそり指示を出しているのだろうか?だとしたらその誰かの作戦は大成功だなと僕は思った。
20世紀までを、戦争や疫病によって人が肉体的に滅ぼされる時代だったとするのであれば、21世紀はそれに加えて人が内面から崩壊する時代だと僕はその時思った。テレビやインターネットがもたらした情報の嵐によって、人は知らず知らずのうちに蝕まれ、そしていつか限界を迎えるのだ。
とにかく、混乱に陥った精神を何とか落ち着けなければならなかった。こういう時はただ呼吸に集中するのが良い。鼻から軽く吸って口から長く吐く、瞑想の呼吸。僕はしばらくの間、目を瞑ってその呼吸だけをひたすらに繰り返した。
すー、はーっ…
すー、はーっ…
すー、はーっ…
どのくらい時間が経ったのかは良く分からない。5分だったのかも知れないし、30分だったのかも知れない。でも恐らくその間くらいの時間が経っていたと思う。気がついたら瞑想の暗闇の中に、奇妙なイメージが浮かんでいた。それは驚くほどにリアルなイメージだった。
無数の精子が、一つの卵子に向かって子宮の中を泳いで行く映像。
何でこんなイメージが浮かんできたのだろう。いずれにせよ呼吸以外のことを考えてしまうのは、きちんと瞑想が出来ていない証拠だ。僕は瞑想を諦めてソファーに寝そべり、大きく伸びをした。そして頭の後ろで両手を組んで、何の変哲もないアパートの天井を見上げた。
部屋はとても静かだった。テレビを消しただけなのに、世界は驚くほど静けさに満ちていた。僕はそのまま、じっとアパートの天井を見上げ続けていた。しばらくして思い出したように、暴走族のバイクが鳴らすエンジンの音が僕の住む住宅街に響いた。そのブンブンという大きな音は長い間辺りに響いていたが、そのうちに段々遠くなり、やがて夜の闇の中に消えて行った。
さっきのおびただしい数の精子の中で受精できるのは、たった一つなんだと僕は何となく思った。それはきっと、天文学的に稀な確率で起こる事なんだ。
だとすれば、と僕は考えた。
人は誰しも、人生の一番最初にものすごく稀な確率の出来事が起こって生まれてきたことになる。何億という精子の中で、たまたま自分の精子が受精して、そのほかの精子は受精しなかった。それは「あり得ない」と言ってしまってもいいくらいの確率であるはずだ。
もし人生が、「あり得ない」ことを前提として生じているものに過ぎないとしたら。
最初に「あり得ない」確率の出来事が起こったのであれば、その後の人生で何が起こったって不思議ではないんではなかろうか。それがどんなに不条理で、理不尽な出来事であったとしても。つまりどんな悲劇だって、どんな喜劇だってこの人生の中では起こり得るのだ。だって一番最初に、「あり得ない」ことが起きて僕たちは生まれてきたのだから。だからもしこれからも生き続けることを選ぶのであれば、どんな不条理であっても「あり得ること」としていつかは受け入れる必要があるのだ。それがきっと、この世界で生きるということなんだ。
そう考えてみると、急に色んなことがすとんと腑に落ちたような気がした。
なるほど、と僕はつぶやいて立ち上がった。
窓を少し開けると、近くの田んぼでカエルたちが鳴く声が聞こえた。その声はまだこの世界に、少なくとも今この瞬間は、平和な場所が残っていることを教えてくれていた。見上げると夜空には、月がおぼろげに見え隠れしていた。
気づいてみれば、それはとても清々しい夜だった。僕は窓枠に体重を預けて、少し伸びた髪をゆっくりとかき上げた。優しい夜風を顔に受けながら、知らず知らずのうちに微笑んでいる自分がいた。東京オリンピックの閉会式が教えてくれたこと、それは一瞬の熱狂よりもずっと大切なものだったのかも知れなかった。
2021年8月8日の夜に僕がようやく気付いたこと 渚 孝人 @basketpianoman
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