第15話 そつない君とお出かけ①

夕食を作り終えた白星に起こされるまで、一度も目が覚めることはなかった。三時間ほどだろうか。いつも蹴飛ばしているはずの毛布は、しっかりと体にかかっていて、少し寝汗をかいていた。


 体の調子は上々だった。やっぱり、風邪の類いではなく、睡眠不足と疲れが祟っていただけらしい。

 白星お手製のポトフを食べて、風呂に入って、変な時間に眠ってしまったせいで冴えた瞼が重くなるまで小説を読んだ。


 小説がひと段落したら、明日の予定を確認した。お昼ご飯を食べて、美羽姉のところに行って服を選んでもらう。そして、一時半に和歌山駅。


「起きるのは…十時でいいかな」


 体調も悪かったことだし、休みぐらい十全に睡眠をとっていいだろう。アラームをかけると、今日何度目かわからない微睡に身を任せた。


 予定通りのアラームで目を覚ます。普段のことを考えると、眠りすぎだ。体が痛い。


 一階に降りると、誰もいなかった。スマホを見ると、白星は朝から友人と予定があるらしい。風星は土曜日も学校だから、とっくに家を出ただろう。

 食在庫のようになっている納戸からフルーツ缶を探し出して、それを朝ごはんにした。昼ごはんを二時間後には食べないといけないから、軽く済ませたかった。というのは言い訳で、キッチンに立つ気力がなかった。


 甘いシロップの味を飲み込みながら、テレビをつけた。ニュースはそろそろやってくる梅雨を憂鬱そうに伝えていた。


 どこもかしこも、新しい環境は梅雨の憂鬱さを共有して絆が固まるのかもしれないなんて思った。


「じゃあ、その前に紀伊さん教室に戻れるようにしないとな」


 そんな言葉と共に、甘ったるい白桃を喉の奥に押し込んだ。慣れ親しんだ甘さだ。痺れた舌の奥の残滓を楽しんでいると、スマホが震えた。


美羽姉『起きてる?』


鼓星『起きてるよ』


美羽姉『今日は髪の毛からしたいから、髪の毛濡らして十二時半くらいにうちに来て』


 どうやら、今日は随分と気合が入っているらしい。昼食の予定を三十分前倒しにすることを決めて『了解』と返事を送った。


 ぼーっとニュースを眺めると、昼食にチキンラーメンを食べた。苦手なので生卵は乗せない。スプレーでサッと髪の毛を濡らして、タオルドライをすると、櫛で梳かす。


 ぺたりとした髪と寝巻きのまま、隣の家へと向かった。


「お邪魔します」


 インターホンを鳴らすこともなく扉を開けて、一言かけると二階へと向かった。全国的休日のため、おじさんもおばさんもいるはずだが、気にした様子もない。リビングの方からは、掃除機の音がしたから、気づいていないのかもしれない。


「美羽姉、来たよ」


 部屋をノックすると、待ってましたとばかりに満面の笑みの美羽姉が待っていた。既にベッドの上には、試そうとしているであろう衣服が準備されている。


 招き入れられた部屋は、可愛らしい部屋だった。ベッドの上には、花柄の羽毛布団と同柄の枕、その横には動物たちのぬいぐるみ。

 俺が使っているのと同じような勉強机には、整然とした教科書類や少しの漫画が並んでいる。


 ローテーブルの上には花瓶が一つ。真っ青な紫陽花が咲いていた。


「さ、鏡の前に立って立って!」


 全身鏡の前に立たされると、早速美羽姉が俺の体の前に服をあてがい始める。


 インナーに使うであろうシャツ、Tシャツ。それの上に重ねるのは、ショート丈の濃い色のデニムジャケットか、ニット素材のベスト。パンツも、ストレートシルエットかテーパードするものかで迷っているようだ。


 うんうんと唸って悩んでいる美羽姉を待っている間、ふと窓の方へと視線をやった。窓の奥に見えるベランダには、いくつかプランターが並んでいた。


 植物を育てる。それが、去年学校に通わない中で見つけた美羽姉の趣味の一つだった。元々趣味があまりない人だったのでちょうどいいのかもしれない。


 美羽姉は別に、去年不登校だからといって引きこもりだったわけではない。なんなら、暇に明かして多数のバイトをこなしたり、そのお金でふらっとどこかへ出かけたりしていた。


 それでも紛らわし切れない後悔が横顔にはあったから、今に至っているのだけれど。


 僕を着せ替え人形にして嬉しそうな横顔。これのためなら、俺は今日も頑張ってリア充の真似事ができる気がした。


「決めた!これに着替えて!」


 その間にアイロンと整髪料を取ってくると部屋を飛び出していった美羽姉を尻目に、僕は渡された服に袖を通す。


 まずはテーパードシルエットのシンプルな黒のスラックス。ベルトをしないで済むリラックスパンツなので非常に助かる。

 トップスは恐らく結構なヴィンテージの白いレーヨンシャツ。テロっとした生地感と、胸ポケットが二つあるのが特徴的だ。恐らく美羽姉が好きなバンドのボーカルがライブでよく着ているのを見て買ったと意気揚々と話していた代物だろう。汚さないようにしなければ。

 仕上げに、ライトブラウンとベージュの中間のような色味をしたオーバーサイズのニットベスト。薄手なので、今日くらいの気温にちょうどいいと思う。


「おーー、見込み通りいい感じいい感じ。さすが私」


 着替え終えた俺を見て、戻ってきた美羽姉が自画自賛も込みで手を叩く。悪い気はしなかった。

 鏡で、もう一度自分の姿を見る。どこかトラッドな印象の格好。普段はシンプルな格好を好む俺の趣味からも、そう外れていない。さすがのセンスだと思う。


「さて、仕上げにヘアセットするよー」


 勉強机に座らされると、折りたたみミラーを広げてアイロンを温めた。


「やっぱり、髪長い方がセットのし甲斐あったよね」


「仕方ないじゃん。爽やかな方が印象いいと思ったんだから」


 毛流れを作りながらそんなことを言われるけれど、こればっかりはどうしようもない。中学時代の俺は、随分と髪が長かった。耳が隠れて、襟足が襟に掛かるくらいに。

 それでは陰の雰囲気を拭い切れなかったので、仕方なく切ったのだ。未だに整髪料の匂いと、はっきりとした遮るもののない視界には慣れない。


「ここまで切って、ちょっとマッシュっぽくするなら刈り上げればよかったのに」


「チャラいから嫌」


「出た、星君の謎のこだわり」


 ケラケラという笑い声に混じって、アイロンのスイッチを切る音が聞こえた。どうやら下準備は済んだらしい。


 整髪料が髪に揉み込まれる。独特の匂いがする。なんとなく、目を瞑った。


「はい、出来上がり」


 目を開けると、そこには少しパーマ風のウェーブが掛かった髪を上げた自分の姿があった。 

 トラッドな服装と、遊び心がありながらもきちんとしているようにも見える髪型が絶妙にマッチしているような気がした。


「星君、典型的なセンターパートにすると文句言いそうだったから、ちょっと違う風にしてみたよ」


「よく分かってくれてありがとう」


 ちょうど、創のセンターパートが鼻につくという話をしたばかりなので、非常に助かる気遣いである。


「さて、そろそろ行ってらっしゃい。遅れちゃうよ」


「へいへい、どうもありがとうございました」


「あ、スタイリング代、三千五百円になります」


「金取るのかよ」


 また美羽姉はケラケラと笑って、もう一度「行ってらっしゃい」と言った。手についた整髪料を洗い流しに行った美羽姉と別れると、一度家に戻ってサコッシュにスマホと財布を入れて家を出た。ブーツを履けと厳命されたため、それに従って。


 最寄駅から和歌山駅までは十分ほど。約束には間に合うだろう。いつ聞いても不吉なメロディと共に、電車がやってくる。


 慣れ親しんだ銀色の車両に乗り込んで、ノイズキャンセリングイヤホンを耳に突っ込む。そうすれば、二曲聴き終える間には和歌山駅に辿り着く。


 この前ボランティア部と待ち合わせた場所である、北改札口前でまだ居ないらしい二人を待つ。

 設置されたストリートピアノで、男女の子供二人組が出鱈目なメロディを弾いている。きらきら星のドドソソララソの次のフレーズを忘れたらしい。


 好きな子の前でカッコつけたかったのか、あわあわしている男の子に、暇つぶしに次のフレーズを弾いてみせた。

 思い出すことが出来て顔を輝かせる男の子の鳴らす、テンポがめちゃくちゃなきらきら星に左手の和音を合わせる。


「よう、鼓星。何してんだ?」


「子供にピアノ教えてるんだ」


「ピアノ、弾けるんだ?」


「子供の頃やってたから、ちょっとだけな」


 僕は最後の和音を鳴らしながら、聴き慣れた声に振り返らずにそう答えた。実際、子供の頃、美羽姉にせがまれて一緒にエレクトーン教室に通っていただけなので、さしてうまいわけでもない。


「ほんと、そつない君だな」


「お褒めに預かり光栄」


 揶揄うように、優雅な挨拶をかましてきやがった創に笑顔で返すと、修介が小さく笑った。無事合流できて何より。

 

 子供たちに別れを告げると、駅の外へと一旦移動した。


「んで?今日はどこへ行くって?」


「ああ、とりあえずこの前話した新しくできたカフェに行ってみないか?」


「異議なし」


 そこは最近出来た、スイーツをテイクアウトも出来るらしいカフェだった。中々スイーツのレベルが高いらしく、大の甘党である俺は密かに気になっていたのだ。


 大通りの方へ数分歩くと、目的のカフェはすぐだ。ほとんどの人がテイクアウト利用のようで、店内は運よく空いていた。


 二人の倍の時間を要して悩みに悩んで、いちじくのタルトのコーヒーセットを頼む。修介はカフェラテとパウンドケーキ。甘いものが苦手らしい創はレモンスカッシュだけ。


「鼓星、甘党なんだな」


「大のな」


「今度から俺の弁当に入ってる一口プリン全部お前にやるよ」


「創…俺は初めてお前に友情を感じてるよ」


「いや、今までなんだったんだよ」


「俺の姉が気まぐれに作るクッキーもたまに持って来ようか」


「修介、お前は親友に格上げだ」


「修介と俺の高感度の格差えげつなくなかったか?今」


 そんなくだらない話をしながら、スイーツに舌鼓を打っていると、修介が「そういえばなんだけど」と言って俺の方を見た。


「昨日の夜、急に紀美野から「そつない君の連絡先教えて貰えないかな?」ってメッセが来たんだけど、教えて大丈夫?流石に本人に確認取らなきゃと思ってさ」


 なんだかニヤニヤと「お?なんか怪しい話かあ?」と目を輝かせ始めた創とは対極に、冷や汗をかく。嫌な予感しかしない。


「なんの要件かは分からないけど、いいよ」


「よし、なら今送るわ」


 いつの間に仲良くなったんだと揶揄ってくる創をいなしていると、スマホが震えた。


『明日、紀伊ちゃんと新宮さんと出かけたいんだけど、そつない君も来れる?思いついたことがあるの』


 口の中のいちじくタルトの甘みが、サーっと引いていくような感じがした。どうやら、今週俺には休日というものは存在しないようだった。


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