はるな

海野てん

はるな

 わざと、箱を倒れやすい置き方にしたような形のビルがあちこちで紫色に光っていました。今にも沈みそうな太陽が名残りを放ち建物の一面を染め上げていますが、間もなく、全ては紫色から真っ黒に塗り替わります。するとビルの小部屋という小部屋から蛍が灯したようなささやかな光が放たれ、林立するビル群は深い水底に息づく生物群のようになっていくのです。

 私はそれらを眺める住宅地で、恋への憧れや賛美、成績への憂鬱、家族へのささやかな不満や感謝といったものに囲まれ、中学生まで生きました。

 それらよりももっと多く「おはよう」や「またね」を交わしたことをぼんやりと記憶していますが、私はへらへら笑うそれらをもう思い出すこともできないで、ビルの合間の冷たい真っ暗の底に横たわっていました。

 けれど、必ず行くべきだという強烈な確信のようなものが呼吸もできない身体の中で、ただ一つ熱く輪郭を持っていたのです。私は家に向かうことにしました。

 影絵のような住宅地の景色に、その家だけが白く切り抜かれたように見えました。門につがいの提灯がかしこまって訪れる人々を出迎えています。彼らの歓迎を受けた人々は、重々しいほどの無表情で帳面に色々を書きつけてから明るい家の中へ、一人また一人と吸い込まれていきました。

 帳面の文字は全然震えてなんかいません。使い慣れないペンに戸惑いながらも、だからこそ、より巧みに書こうという意識が伝わってくる書き方で丁寧に並んでいました。名前は訪れた人の数だけありました。私は開かれたページを五往復、一回ごとに暗記するつもりでゆっくり読み、しかし飽きてしまったので他のページが開かれないかと期待しました。残念ながら、新しいページになる前に帳面は役目を終え、私は結局一ページ分も暗記出来ませんでした。

 閉じられるためにめくれた紙面のどこかに彼女の名前を見つけました。ああ、来たんだ。嬉しさのような、驚きのような、大いなる疑問のような。全部が混ざった感情が膨れあるがるのを感じながら、私は家の中に向かいました。

 

「りーちゃん」静かに涙を流す友に呼ばれて振り向く。互いに目からあふれさせる筋を見て、ますますと、まるで体中から水分が集まったかのように雫は大粒になり、ぶるぶる震えながらまなじりから伝う。

「りーちゃん!」極まって抱き合った。背中を温める腕は今の今まで頬を拭っていたものだ。きっと涙の温度が沁み付いている。

 親兄弟や友人。自分の半身ともいえる人たちが、突然に、永遠に物言わぬ体になってしまったら。死者の顔が大切な誰かに置き換わって見える。日常から消え去っても、記憶が生み出す気配や温度を皮膚に感じ、呼吸を思い出す瞬間を想像するだけで、悲嘆の声は大きさを増した。泣き声はゆっくり萎んで途切れ途切れの嗚咽に変わっていく。

 腕の中のあなたが生きていてよかった。今までよりもっと大切に思うね。あなたが日常から失われるなんて、考えるだけでも恐ろしいから。抱きしめ返す手に決意が満ちる。

 動かない人を囲む花が一本一本増えて、白い花びらに埋まっていく黒髪の、ちょっと古風な髪形が見えなくなる。左頬に百合を添えた学ランの左腕が乱暴に目元を拭ったのを見た。涙の形に濡れた腕は目から溢れるものよりもよほど熱いことだろう。指先の爪が少し伸びていた。

 

 どしたらいいか分からない、そんな群れの中に彼はいました。

 中学に上がり、小学校よりもいっそう男女はそれぞれの分別をわきまえて学校生活を送るのが当たり前になっていたのに、その垣根を取り払って男子にも女子にも召集がかかったのです。どういう顔をして、どういう振る舞いをして、一緒くたに他人の家庭に上がり込めばいいのか分からない。まるで迷子の集まりでした。

 自分自身の力が届く範囲だけを考えていれば十分な日々に、ふいに舞い込んだ非日常は彼らをひどくまごつかせたのでしょう。いつも前を向いている視線は、爪先を見下ろして人見知りをする幼児のようですし、手にした一輪の花を大仰に両手で掲げたと思えば、指先で茎を軸にくるくる回してもてあそんだりしています。手中の花がどういう目的のものか知りながら、まるで見当もつきませんととぼけているようにも見えました。

 そんな群衆の中、背筋を伸ばして前を見据えたままの彼は、ひと際目立っていたといえます。赤く染まった鼻先から頬の皮膚が乾いていました。男の子の肌を、日焼けして少し粉っぽくなったそれを、丹念に覗き見たのは初めてのことでした。

 

「りーちゃん」とはるなが呼んだのは、実はつい最近だ。幼稚園時代を共に過ごした彼女は、家も近所だというのに、どういうわけか小学校の組み分けだけは六年間一緒にならなくて、中学でようやく再び席を並べるようになった。

 その時、はるなは嬉しそうに幼稚園で使っていた頃の呼び方を使った。

 今でこそ同級生と比べても艶があると思う長い髪だけれど、幼い頃は顎より短く同じような髪形をしていた男の子たちと一緒に遊ぶのを好んでいた。無邪気な獣の本能として、姿形の似た者たちが群れを成すのだと理解していたのだ。それほど自然なことだった。形や在り様が名前になるように、渾名あだなも自然と男の子のそれに近い付けられ方をされて幼稚園を過ごした。

「りーちゃんって呼ぶね」宣言を下したのは小学校でできた友達だった。

 幼稚園の時分の結束が溶けるように無くなって、一つだけ消え損ねた泡のようにふわふわしていたら、声を掛けられたのだ。初めて与えられた女の子らしい渾名は、それから六年間の生活をどのように過ごすべきかの指針になり、新しい姿を与えてくれた。

 風に揺れる長い髪、それはさらさらで日差しを弾き輝くものでなければならない。友達が使っているシャンプーの銘柄を聞いては母に強請ねだった。

 足を覆うもの、それは二股に分かれた布ではなく、短い筒状で腰から膝までの長さでなければならない。膝より短ければ尚良い。友達が穿いているものを真似して、ふんわり広がるオレンジや白を選んだ。

 新しい自分はなかなか悪くなかった。四年生になる頃には、小学生になる前の自分がまるで別人のように感じられるくらい新しい姿に馴染んでいた。

 しかし、中学で再会したはるなが呼んだ渾名で、六年かけて出来上がった「りーちゃん」は一瞬にして幼稚園の姿に引き戻された。

 その渾名は「りーちゃん」を飾るお洒落をはぎ取り、髪を短く切り刻み、生まれ変わる前の姿を突き付けた。はっきりとうろたえた。やめて、の一言さえ振り絞れないほど。

「りーちゃんだよ」はるなに言い直すよう命じた優しい声、その頼もしさを覚えている。はるなはその声に服従し、「りーちゃん」は奪われかけた姿を取り戻すことができた。

 完成した「りーちゃん」は何でもできた。過去を忘れることも、恋をすることも。

 

 慣れた手つきで、慣れていることを恥じるような表情のおじさんが、釘を打ちました。苦し気な一打ちごとに悲鳴じみた声を上げるのは、お母さんです。お父さんも顔をしわくちゃにしながら、妻である人の肩に手を添えて一滴の涙も零すまいと踏ん張っていました。お母さんの腕の中、小さな男の子が泣き疲れて眠っています。何者にもはばからず泣き声をあげているのに、眠っている体はしっかりとその右手に支えていて、母親としての理性というものを感じさせます。

 お別れの声が密やかにだんだん大きくなって家に満ちました。棺桶に完全に蓋が成され、中の様子は扉の付いた小窓からしか見えなくなってしまいました。

 開いたとして、臨んだ顔が目を見開き起床の挨拶をするなんてことはあり得ないのですが、私はちょっとした不満を抱きました。けれど、こういう風に仕上げなければならないと決められているのでしょう。体を収めた長方形が運び出され、間もなく家の中から制服の群れが吐き出されました。

 彼らのほとんどは、一仕事を終えたという軽い疲労を肩に乗せながら、何らかのささやかな責任を負わされたという、奇妙な自負を抱いているように見えました。

 明日から何か変わるわけでもないでしょうに。あるいはそうすることが正しいのだと信じているのかもしれません。いずれにしても、彼らの善悪や責任感や協調性や向上心といったものには、何も変化は生じていないのです。

 私は何となく、あの乾いた皮膚の学生服が大勢とそっくりな様子でいたら嫌だなぁと思いながら、彼を探しました。

 

 制服たちの隙間から腕を差し込み、手首だけで放るように捧げた花は、静かに重なり合う音を立てて棺の中に落ちた。生命の色を欠いたその顔を見なくて済んだのは、実にありがたいことだった。

 家具を壁に寄せた作った空間は、それでも本来の手狭さには敵わず密になった参列者の呼吸で蒸す。熱気の中心にいるその人だけがひんやりと横たわっていた。指先に感じる冷気以上に、土気色の顔が目に焼き付くことが怖かった。その人の最期の瞬間の表情なんて、考えたくもなかった。

 花を手向けた左腕の温かさが欲しくて、涙を拭っていた学ランを探そうとしたけれど、中へ中へ群がる制服に弾かれ、一仕事終えた級友たちと一緒くたに居間の外へと流されてしまった。

 

 夕闇の世界に現れた彼が全身にまとっていたものは否定でした。自分が見たもの、感じたものを、一切認めはしないという強い意識が体を貫いていました。少しだけ意外でした。つまり、彼が身に着ける学生服の一群に同調し彼らを真似て振舞っても、がっかりこそすれ何ら咎める気持ちはなかったのです。

 けれど、彼自身がそれを許しませんでした。家族である人に涙を流させた理由を、どんな悲嘆にも慈悲の奇跡をもたらさない神を、何もできることがない自分自身を、彼は許しませんでした。呪いと名付けてもいいほどの拒絶が、そこにありました。

 私は、彼が否定しながらも手向けた百合がもう一度見たくなってしまいました。その花びらに露の一粒もあったら、どんなにか報われる気持ちになるだろうと思ったのです。

 

「りーちゃん」そろりそろりと集まって来た制服の二人と肩を寄せ合う。一人は顔を真っ青にし、涙を枯らしてぶるぶる震えていた。まるで棺桶の中で死体が起き上がり、釘付けされた封を破って襲い掛かってくると思い込んでいるみたい。

「りーちゃん……」どうしようか。確認するような声は宵の闇より冷たく理性的で、さっきまで鼻をすすっていたとは思えない。同じように感情を操りながら、何も心配することはないと言う。

 誰が見ていたっていうのよ。橙色の光の中、誰も知らないところで、誰も知りえない理由で去ってしまった。そこに悪意は無く、故意でも無く、意図も無いというのに。ただ、私たちがその瞬間に居合わせてしまっただけ。

 もし許されるならば、神がまばたきをした瞬間の、見守り損ねたタイミングで襲った不幸だったと、神の存在を肯定し理由付けをしよう。どうだろうか。

「りーちゃん……」微かな血色を取り戻した彼女は天に赦された心地になったようで、まるで御使いを見つめる眼差しになった。ただの人間の言葉なのに、人を赦すことができるのだから、神なんか本当はいないんじゃないの。

 けれど神がいなければ、そもそも見守り損ねたことにはならないので、やはり神はいるだろう。私たちは見守られている。

 

 そこには一粒の雫もありませんでした。一見つるりとしているのに花びらはいくらかざらついた白色で、表面は乾ききっていました。

 私はどんなに小さな水滴でもあればきっと口づけようと決めていたので、惜しく思いながら同時に、恥ずかしくてたまらなくなりました。そんなこと、する必要はないのだと宣託を下されたようでもありましたし、かこつけて頬に口づけるのを許されるのではないかという内心を、見透かされたようでもありました。

 思えばとんでもないことです。私は羞恥から逃れるように家を出ました。今はもう先生とお父さんお母さん、それから小さな弟しか残っていません。

 制服の一団は、普段の調子を取り戻そうと協力し合っていると見えて、こないだのテストの結果だとか、夏服に替わる前に痩せたいとか、部活のあれこれだとか、日常に近づくことを目的にした会話を選んで口にしていました。時折、亡き人の思い出話が差し込まれては声の調子が沈み、また浮き上がり、音の波が折り重なっていました。

 唇を一文字になったあの乾いた皮膚を見るまでは、今晩の出来事は級友たちの涙ぐましい努力によって日常の空気に薄められ、日常に上書きされていくのだと、私でさえ思っていたのです。

 呪わしく結ばれた唇は透けるほど褪せて震えていました。一人が欠けた日常が平坦に続くことを認めないつもりか、あるいはそれでも続いていく日々の前に、無力さを感じ消え入りたい気持ちを制御しきれなくなりつつあるのかもしれません。感情の均衡を崩さない最後の要のように、体中の力を込めているかのようでした。

 どうすればいいのかしら。何かしてあげられることが、図々しくも私にあるのでしょうか。

 戸惑っていると、彼の目と鼻の先を、彼女を中心にした三人組が横切りました。疲労感を背中に、お互い励まし合うように肩を寄せ合って、けれど慰め合うのではなく、例えば放課後の図書館で夕日に染まりながらするお喋りのときのように、緊張をみなぎらせていました。

 あなた、どうしてそんな顔をしているの。

 呼吸を拾うように頬を寄せてみましたが、あなたはもう私に気付くことはありません。例え私が、瞼と瞼が触れ合うほどの距離からあなたを見つめ、観察していたとしても。そうして、あなたの目の奥にあるものに気付きました。本当に微かにしか見えませんでしたが、それはあからさまにしないよう細心の注意を払った結果であるということまで、私には分かってしまいました。

 あなた、赦されたと思っているのですね。

 

「りーちゃん!」斜陽の朱色が色を濃くしながら投げかけた眩しい光の中、その声はよく響いた。呼び止める声は振り向いて欲しいと訴えていた。

 見たものは、一枚のハンカチとアスファルトに倒れた学ランだった。ついさっき、横断歩道のこちらと向こうですれ違った学ランは、同じ学校のものだったので覚えていた。

「りーちゃん!」と呼んだ友人は、ハンカチを落としたのだ。沢山の人が踏みつける濃い灰色に、鮮やかな桃色のチェックが蝶みたいにふんわりと落ちたのだ。アスファルトの上に焼きつけられた白の縞々の真ん中に。

 縞の両端で青緑の人型が点滅して、それなのに彼は落ちた蝶々を拾い上げようと端から真ん中に駆け出した。青緑は消え、夕日よりも夕日らしい濃い赤色の人型が点灯し、タイヤで動くものたちに行動する許可を出した直後だった。そう、彼の方がわずかに遅かったのだ。

 生きていない蝶なんて拾いに行くべきではなかった。タイヤに踏まれるのを、何の感傷もなく見ているだけの、冷めた心を持っていればよかったのに。

 彼は急ぎ足の金属の塊にぶつかって動かなくなった。頭のあたりに赤黒くぬめぬめしたものが叩きつけられたような飛沫しぶきが見えて、乗り物のドアから慌てた様子の男の人が、色々を怒鳴りながら下りて来た。

 男の人は散々怒鳴り散らしてから、伏した少年が何も言えなくなっていることを時間をかけてさとり、顔を土色に変えた。震える指でスマートフォンをポケットから引きずり出すのを見た瞬間、それが合図だったかのように三人分の足が駆け出した。

 目的地なんて無い。できるだけ遠くへ。あの赤黒いものの気配がない場所を探して、悲鳴を飲み込んで食いしばった歯の隙間から細い息を吐いて、ようやく足が止まったのは、冷めるほど白い光を発するコンビニエンスストアの前だった。

 マニュアルに則ったシンプルな挨拶をする店員、人工的な灯りに冴えるプラスチックの包装、種類ごとに分けられた紙パックの整列。どうしようもないほどの日常の延長だった。

「りーちゃん……」今にも泣きそうな友人は、すがるものを探して新発売のポップがぴかぴかしている棚に視線を上下させていた。

「りーちゃん」胸を詰まらせたような声は、長く低い息を床に向かって吐いてから、少し平静を取り戻す。さっき見た光景を夢幻と同じものと位置付け、遠ざけることにしたらしい。

 目に飛び込んでくるピンクに黄色の縞が描かれたパッケージを掴む。二人もそれぞれの最初に目に留まったものを手に取り、レジに通した。飾り気のない感謝の挨拶を背中に受けて、薄いポリプロピレンをくしゃくしゃ破る。包装の下から現れた丸いキャンディーは黒々と赤い。選んだことを少しだけ後悔しながら含むと、わざとらしい甘みが溶け出した。子供だましのような味が今は慕わしい。まだ怯えてひりついている部分がとろっと包まれていった。

 自分自身を甘やかさの中に投げ出して、記憶を一歩引いたところから見つめる。駆ける視界で、制服のスカートがひるがえるのを見たような気がしたのだ。同じ学校に通っている証であるそれが、揺らぎながら落ちていた。裾からすんなり伸びた足が夕焼けの天頂を向いて、鈍く輝いているようだった。脱げたローファーが、追いかけるようにばらばらと落ちていた。

 

 日に焼けて乾いた手が、道路の真ん中に向けて伸ばされたのを、私は遠くから見ていました。くったりと道に横たわるもの、それがハンカチであることに気付いたのは物事がすべて終わり、全てのビルが紫色に染め変わる頃でした。まだ世界のほとんどが橙色の光に照らされている中、彼は素早く膝を折りそれを拾い上げようとして、それから大きな音に巻き込まれました。私の死角に隠れたその体は、動くことを止めたようでした。

 大きな音の原因になった車輪のついた機械のドアから男の人が降りてきて、少年が自ら動き出すのを期待しているような素振りを見せました。間もなくその期待に意味がないことを覚り、スマートフォンを取り出すとどこかに連絡を取り始めたのです。

 自動車に隠れた横断歩道の向こう側、同じ制服が早足に遠ざかっていくのが見えました。彼女らの姿が見えなくなるまで、ずっとずっと、振り返らない三人組を見つめていました。

 

 提灯の灯りに見送られ、級友たちはそれぞれのタイミングで家路へつく。「りーちゃん……ねえ」と友人が耳打ちし、背後に近づいてくる人に気付いた。左腕に涙の跡を残した彼。手を強く握って、それ以上に目元に力を込めてこみ上げるものを堪えている。それが溢れてしまわないように慎重に言葉を選んで、柔らかく撫でるように声を掛けた。けれど、やっぱり目元に熱いものが筋を描いてしまう。彼は幼さの残る鼻先を乱暴に擦り赤くして、恥ずかしそうに視線を下げた。こんな表情を見せるつもりではなかったのだと、言い訳したそうにしている。

 そんな顔をするのが当たり前の儀式を終えたばかりではないか。流れるものも、赤くなった顔も、愛情と悲嘆の証ではないか。この時、この瞬間しか見られないその顔を、愛おしく思う。手の平から伝わるように指を絡めて握る。

「りーちゃん、先行ってるね」二人分の背中が、日が暮れた町並みに小さく溶けてく。二人きりになってから、彼はゆっくりと私たちだけの時にしかしない呼び方をした。

 

 物事の殿しんがりを務める人は、何を思っているのでしょう。居合わせたすべての人を見送って、やり遂げたような気持ちになるのでしょうか。機会がようやく自分に巡って来たと知り、嬉しくなってしまうのでしょうか。狭い歩幅で行く二人組の後ろ姿からは、私は何も読み取ることができませんでした。

 けれど、二人を見送る彼が何を思うのかは、手に取るように分かります。両足を踏ん張って、乾いた頬に涙も浮かべず、睨みつけるように深い紫に沈む世界を見つめていました。閉じられた扉の中にいる、両親や弟を見つめたいのに、そうする資格は最早失ったのだと自分を責めているのです。最愛の人々を悲しませてしまったことを、誠実さのもとに悔いていることでしょう。

 けれど、考えてもみてください。私は彼の隣にぴったりと立ちました。

 考えてもみてください。最愛の人たちによって優しさや勇気を植え付けられ、それらの美徳に従って行動したがために、魂と体とを切り離すことになってしまったのではないでしょうか。

 本当にあなたを殺したのは、誰なのでしょう。ハンカチを落とした少女、自動車の運転手、そしてあなたの両親。

 本当にあなたに対して誠実なのは、誰でしょう。涙を流す人がすべからく善と誠に生きているというならば、私はそれを超えて見せます。

 見てください。今こうしてあなたの隣に立ち、あなたを慰めることは、あなたの両親にだってできやしません。不思議そうに私を見つめる、涙を流し尽くした赤い目に返すことができるのは、私だけです。温度のなくなった指先同士を触れ合わせることができるのは、私だけです。ビルとビルの黒い谷間に体を捨ててまで、あなたを求めることができるのは、私だけなのです。

 今は暗がりに隠れ横たわっている体も、明日には見つかることでしょう。そうすれば、私の家にも番いの提灯が灯り、白百合を手にした人々が集まります。

 あなた、もし報いるつもりが少しでもあるならば、どうか花に囲まれた私に涙の一粒でも与えてはくれませんか。あなたの少し古風な髪型がそうなったように、私のやわく編まれたお下げも白で埋め尽くされるでしょう。私の身体は小舟のような棺に乗って、煙の流れるまま、あなたを追うように旅に出ます。

 そうして何もかもが終わったら、一緒に夕日の世界を歩くのです。焼けるような橙の光を浴びて目を細め、世の中が足元も見えないほどの真っ暗闇に変わるのを見届けたら、二人で夜の底に息づく生き物になりましょう。

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