第16話 七星ひかりの正体
前澤は七星ひかりの居るタワーマンションに向かっていた。全ての真相を明らかにする為に。タワーマンションは夕日に照らされて、オレンジ色の光をキラキラ放っているのかの様に見える。タワーマンションの影が、住宅地に長く伸びている。
「前澤です。七星さんは居ますか?」
インターフォンに七星ひかりが出る。
「前澤さん、何の用ですか?」
「七星さんに聞きたいことがあって、重要な事だから直接来たよ。」
「前澤さんは一人なんですか。」
「そうだ。一人だよ。」
「どうぞ、入ってください。」
彼はエレベーターに乗り20階へ向かう。エレベーターから見える下界の様子は、膨大で錯雑で、米粒の様な人々が道路を行き交っている。それらの人やビルや家々の一つ一つにそれぞれの人生があるのかと思うと、頭がおかしくなりそうだ。
彼は彼女の部屋の前に着く。深呼吸をする。
「七星さん、来たよ。」
扉が開く
「さあ、入ってください。」
彼女はラフな水色のワンピースを着て、化粧をしていないが、相変わらず、目が覚めるような美しさだった。
彼は部屋の殺風景さに驚く。そして壁に飾ってある絵が目に飛び込んでくる。
「これって・・・。田中さんが描いた絵じゃないか。」
「ふふ。私のお気に入りなんです。なんだか私に似ているでしょう。小さい頃の私にそっくり。」
次に目についたのはフローリングの床にパンに塗ったバターのようにべったりついている血痕だった。
「な・・・七星さん、これは?」
「魚を捌いていたんです。大きな魚を。」
キッチンには包丁もまな板もない。前澤は不気味だった。この人は俺にどこまで本当のことを言っているのだろう。
彼女の事は好きだったし疑いたくはなかったが、彼は覚悟を決める。
「七星さん、単刀直入に聞くよ。パラレルユニバースを使って、有隣荘のみんなをバラバラにしたのは、俺に敵意を抱かせるように促したのは、君かい?」
「そうよ。私がやったのよ。」
「え?」
「ふふふ、前澤さん、気付くのが遅すぎ。まあ大体何事も気づいた時には遅すぎるものだけれど。その点貴島さんと宇宙人くんは勘が良かったわね。だから彼らには舞台から退場してもらったけれど。」
「君が、宇宙人くんを車で跳ねたのか?」
「そうよ。私とあなたの間に邪魔が入ったから。」
リビングのテーブルの上には高そうなワインとワイングラスが置いてある。彼女はそのボトルを開け、なみなみとワインを注ぎ入れる。ワイングラスを持って、テーブルの横にある高級なゲーミングチェアの様な椅子に腰掛ける。余裕で落ち着いていて、中世の王女様の様な風格だった。
彼は怒りで我を忘れそうになっていた。筋肉がこわばり、血管は膨張し、今にも猛獣のように彼女に飛び掛かってしまいそうだった。
「でもね、私あなたの事好きなのよ。あなたの事を愛してる。好きだから、あなたと私の間にある障壁を取り除こうとしたの。ねえ、そんなに怒らないで。」
「なんだと・・・?」
「私の話を聞いてよ。あなたの真の理解者はアパートの皆じゃなくて私なんだから。」
彼女は静かに滔滔と流れる水の様に喋り始める。
「私日本人じゃないの。私ね小さい頃、カンボジアの貧民街に居て、とても貧乏だったのよ。ゴミ山で売れそうなものを漁ったり、それで足からバイ菌が入って、医者にも行けず死んでしまった友達も居たわ。小さい頃の私にとって、人生が苦しいのは当たり前のことだった。だからいつも空を見ていた。いつか空から天使が現れて私を別の世界に連れて行ってくれるんじゃないかって。異世界に。」
幼少期の七星ひかりはカンボジアの貧民街に母親と共に住んでいた。貧民街にはバラック小屋が立ち並び、バイ菌やウイルスが常にウヨウヨしていて、路上は強盗やヤク中で溢れかえっていた。そこで人間が生きる為の、愛や親切を育む為の余裕はどこにも見当たらなかった。母親は売春婦で、主に日本人を相手にしていた。日本人は払いが良いし、幼い顔立ちの彼女は中年男性の日本人に人気があった。七星ひかりは良く母親から父親の話を聞かされた。
「あなたの七星っていう名前はね。ある日本人の、私の愛した男の名前なのよ。彼はハンサムで、実業家でね、私のところに日本からたまに遊びに来ては、私達は愛し合った。そしたら彼、ママに日本でアイドルにならないかって。そう言ってくれたのよ。日本という、豊かな国の芸能人・・・。でも彼はそのうち現れなくなった。一体彼にどんな事情があったのか、私には分からない。でもねママあなたという大切な宝物を授かった。いつか日本に行けるように、豊かで安全な別世界に行けるように、お金を貯めているのよ。お金が貯まったら一緒に日本に行きましょうね。」
「うんママ!ママ無理しないでね。私ゴミ捨て場で売れそうなものたくさん見つけて売ってくるから。」
ゴミ山にはなんでもあった。冷蔵庫や車の残骸、ガラスの破片や壊れた調度品。時折何処かで爆発事故が起きた。国中から要らないとみなされたものがいくらでも集まってきていた。まるで貧民街に生きる人達のメタファーの様だった。
ある日、七星ひかりがゴミ山でゴミを漁っていると、ボロボロのウサギの様なぬいぐるみを見つけた。彼女はそれが大層気に入った。タグには日本語が書いてあった。読めなかったが、日本にはこんな可愛いキャラクターが居るのだと、日本に対して更に憧れを抱いた。可愛いだなんて感情を彼女はこれまでの短い人生で抱いたことはなかったのだ。
彼女は1日の始まりにゴミ山から少し離れた小綺麗な住宅街に立つカトリックの協会に行くのが、日課になっていた。教会の前にあるマリア像が彼女のお気に入りだった。道ゆく人は汚らしい彼女のことを小馬鹿にしたり、不快そうな顔をして避けた。まるで空気のような、居ないものとして扱われた。でも彼女は気にしなかった。
たまに神父さんが彼女のそばに寄ってきて、話しかけてきた。食べ物をくれることもあった。黒い法衣を着て、貧乏で優しそうな顔をした白人の中年の神父さんだった。
「マリア様はね男と交わらないでイエス様を産んだんよ。」
「女の人だけで?」
「そう。マリア様はね、セックスや暴力なんかとは無縁の人なんだ。貧民街にはそういった俗な物で溢れているから、誰もが足を踏み外してしまうけれど、希望を持っていれば、這い上がれると信じ続けていれば、きっとマリア様がチャンスをくださるんだ。」
「そうなんだ・・・。」
彼女はマリア像の足元に手を重ねる。その優しそうな天使のような顔に、彼女はいつかマリア様が自分を救ってくれるんじゃないかという希望を見出した。そしてマリア様の顔に自分の母親の顔を重ね合わせた。
ぬいぐるみを抱きながら貧民街に戻ると、男の子のグループが彼女の前にやってきた。ガキ大将のような、年齢的には中学生くらいのガタイのいい男の子が前に出る。
「なんだそのぬいぐるみ、珍しいな。それ売れそうだから俺にくれよ。」
「いや!これは私のよ。私が最初に見つけたんだから!」
彼らは揉み合いになる。彼女は相手の男の子に金的をし、目に指を刺す。何度も、何度も。
「うわあ、俺の目が、目があ!ちくしょう病院にも行けないのに!」
周りの男の子達が狼狽えている間に、彼女は逃げ出す。それから彼女はぬいぐるみを家の一番奥に押し込み、誰にも見せる事はなかった。
彼女の家には何もなかった。不衛生な水の入った、盗んできたポリタンクとヒビの入った食器が部屋の隅に無造作に置かれているだけだった。彼女と母親は地べたに盗んできた毛布や段ボールを引き、そこに寝た。食べるものが何にも手に入らない日なんて当たり前だった。だから二人は常にお腹を空かせていた。街から出る生ごみが満腹感を与えてくれるご馳走だった。食べると必ずお腹を下すのだが、少しの間だけでも幸せになれるのだった。
そのうちに、母親が性病に罹っていた事が判明した。梅毒の様だった。全身に発疹が出来て、彼女は客を取れなくなった。
「ごめんねえ、ママもうお金を稼げなくなっちゃったよ。もうすぐ死んじゃうのかな。一緒にゴミ漁りしても、日本にはきっと行けないと思う。ごめんねえ。」
「いいよ。ママ。ママが私と一緒にいてくれるだけで私は満足だから。」
母親は泣きながら彼女を抱きしめた。絶望の中で、どこにも行けない暗い闇の中での愛のある抱擁だった。七星ひかりも泣いた。
数週間後、母親はある日本人を家に連れてきた。メガネをかけて頭が禿げあがった、ポロシャツを着た太った中年男性である。
「ひかり、あなたこの男の相手をしなさい。」
「え?ママ私・・。」
「この人があなたを日本へ連れてってくれるって。日本で暮らせるように、住民票も作ってくれるって。だから彼と寝なさい。」
七星ひかりもいつかこんな時が来るのだと薄々思っていた。だが心の準備が出来ていなかった。彼女はまだ中学生にもなっていない様な年齢なのだ。男の事なんて何にも知らない。好きな人が出来た事もまだない。怖かった。七星ひかりは部屋から逃げようとした。男が彼女の腕を掴む。彼の獲物を目の前にした獣のような荒い息遣いが聞こえてくる。彼が何を言っているかは分からなかった。分かりたくもなかった。母親はあなたの為なのよと必死に七星ひかりに訴えかけた。
自分のお腹の上で太った日本人が上下に動いていた。とても痛かった。それ以上何も感じないし考えられなかった。いや考えたくなかった。部屋の窓から綺麗な真っ青な空が見える。そこから天使がやってきて私を助けてくれれば良いのに。だが空に飛んでいるのはゴミを漁りにきた汚らしいカラスだけだった。
日本人は行為を終えると、母親と三言二言交わしてから出ていった。
「明日の朝にあの日本人があなたの事を迎えにくるって。ねえひかり。」
母親が振り向く。彼女は顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「ごめんねえ、ひかり、ごめんね。」
七星ひかりは落ち着いていた。世の中の闇の部分、暴力的に人の尊厳を奪っていく部分を知れて、自分が少し大人になった様にも感じた。不本意ではあれど。
「ママ、私ゴミ漁りに行ってくるね」
彼女はゴミ山へと向かった。いつものようにリサイクルできそうなゴミを拾い、売れそうなゴミを拾った。いつものルーティーンに戻っていった。なんだか世界があまりにも非現実的で、ルーティーンに戻らないと気が狂いそうだった。
夕方になり家に帰ると、自分の家の前に人だかりが出来ていた。彼女はすごく嫌な予感がした。貧民街で人だかりができるのは、金持ちが見物にやってきた時と何か事件が起こった時だけである。
近所の知り合いのおじさんが真っ先に声をかけてきた。顔が真っ青だった。
「ひかり、お前のお母さんが・・・。お母さんが・・。残念だよ。」
彼女は必死の思いで人混みを掻き分けて家の中に入った。そこには血を流して倒れている自分の母親が居た。身体は真っ青でもう冷たくなっているのが見ただけで分かった。
「ママ!」
「さっきこの家で日本人が児童買春した事がバレて、捕まったんだ。それで警察がこの家にやって来て、・・・・。お前のお母さんの貯金を見つけたんだ。警察がそれを横領しようとした。それで揉み合いになって。お前のお母さんは警棒で殴り殺された。」
「残念だよ。残念だよ・・。」
母親の知り合いは何人か泣いていた。早くしないと死体が腐り始めるので、明日にでも荼毘にふす事になった。周りの大人達の話を聞くと、どうやら児童買春の事と母親の貯金の事を警察にチクったのは彼女が片目を潰したガキ大将の様だった。
翌日彼女は母親の火葬の前に協会に向かっていた。協会の前に立ち、マリア像の足元に自分の手を重ねる。
「どうして・・・。どうしてマリア様は私の事を助けてくれなかったんですか。私達をこんなに酷い目に遭わせるんですか。私が何かそんなに悪い事をしましたか。何か答えてくださいマリア様。・・・ママ・・。」
彼女が泣きじゃくりながら崩れ落ちる。もう自分の体重を支えるだけの気力もなかった。世界の不条理性が、残酷さが一気に全身にその重みを湛えていた。だが、マリア像は彼女に何も返さないで冷たく沈黙していた。
その時、後ろからバタバタ走ってくる足音が聞こえた。彼女が振り向く。そこには二人の男が居た。一人は神父さん、もう一人は・・・・。
サラリーマンのようにきちんとした格好をした、日本人風の男。不思議なことに顔が彼女に良く似ていた。彼は走ってきて彼女を思いっきり抱きしめる。
「良かった。君まで死んでいなくて、・・・・良かった。お母さんの仇はきっと僕がうつからね。」
彼女は彼が自分の本当の父親だと本能的に分かった。なんで今まで私達の事を放っておいたのだろう、いやそれより・・・。
「あなた、私のお父さんですよね。私七星ひかりです。正真正銘あなたの娘です。」
「うん、見つけるのに手間取ったけれど、見つかって良かった。良かった。」
「お父さん、私を日本に、異世界に連れてってください。」
「え?」
「私は日本で、絶対にお金持ちになってやる!貧富の差で全てが決まる、ママを不幸にした世界を全部否定しやる!世界に復讐してやる!この残酷な世界に!」
後ろのマリア像は沈黙しながら、冷たい微笑みを湛えていた。
前澤は言葉を失っていた。彼女のあまりにも壮絶な半生を聞かされて、それに対してなんて言っていいかも分からなかった。マンションの外はもう夜になっていて、月明かりが薄暗い部屋を照らしていた。彼女は嘘を言っているわけではない。それだけは分かった。彼には彼女のその身に刻まれた傷がありありと感応できた。
現在の七星ひかりは、ワイングラスのワインに少し口をつけ、一呼吸置いて話し続ける。
「そのお父さんがパラレルユニバースの重役だったのね。パラレルユニバースは戦後の日本の芸能界を支えてきた、表には出てこない闇の組織なの。それで私はパラレルユニバースの力を借りて、アイドルとしてのし上がっていった。時には人を追い落とす様な事もしたし、偉い人を枕営業した事もあった。自慢できる様な事じゃないけどね。それで私は日本一のアイドルになった。邪魔者はパラレルユニバースの力で全員排除した。それで分かったのよ。」
「何が?」
「一番になっても虚しいって事がね。」
「・・・・・。」
「貯金は山のようにあるし、だからある程度の事は出来るけど、一日3食以上は食べられないし、ワインの銘柄なんて知っていても何の意味もない。車だって服だってそんなにたくさんあってもしょうがない。株を買うような、お金をお金で買うマネーゲームみたいな事にも飽きた。それでこれが一番大事な事なのだけど、がむしゃらに働くうちに、もうママの顔も忘れちゃった。」
彼は黙っている。
「そんな時、あなたを見つけたのよ前澤さん。何も持ってないうだつの上がらない男が、安心出来る居場所を得て、漫画家として大成して、日本一の漫画家になる。そうなるだろうって確信が私にはあった。私、嗅覚には自信があるのよ。そうしてその次に苦労して掴んだ居場所を次々と失って、茫然自失する。俺が掴んだものはなんだったんだろう?何故ボロボロこぼれ落ちていくのだろう・・・・ってね。あなたと私は同じなのよ前澤さん。」
彼は黙っていた。
「あなたの人生を台無しにしたかったの。あなたを独占するために。あなたにもわかるでしょう?お金だって、名声だって、ただのまぼろしにすぎないんだって。みんなそれを絶対的なものだと見なして破滅していくんだって。だから私を見て。私だけを。あなたを救えるのはあたしだけなんだから。」
「もういい!」
「!」
「七星さんのくだらないゲームに付き合わされる身にもなってくれ、俺には分からない、分からないよ七星さんの事も、自分の事も!アパートの皆の事も!俺には判断できない。もう何も判断したくない。さようなら。俺はもう逃げるよ!」
前澤は何も思い残さないようにくるっと振り返り、部屋の出口の扉まで走っていく。
「待って!逃げないで!異世界になんか行かないであたしと一緒に居て!」
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