第16話 ふわふわ


 部屋に入るやいなや、ホリィは膝から

 崩れ落ちた。俺は抱き止めて地面につく前に支える。ホリィは弱々しい笑みをこちらに向けた。


「すみません。体から力が抜けちゃって。こんなこと初めてです」


「……無理もないさ。相当、心に今日あったことが重くのしかかっていたんだろう。俺が初めて神にあった日は一日中椅子の上で虚脱していた」


「マルスが……ちょっと想像できません」


「俺があんな醜態を晒したのはあの日が初めてだ。俺以外の誰にも見せたことはないが、俺は未だに昨日のことのように思い出せる。あの屈辱を」


「そうですか……ふふ、ちょっと安心しました。私が特別弱いのかと思っていましたが、マルスも辛かったのですね」


「ホリィは強いよ。俺が初めて神に出会った時よりよほどしっかりしているよ。ちょっと自信なくすぜ」


「あなたがいたからですよ。私があなたより平気でいられたのは」


 ホリィがまっすぐ俺を見て断言する。金色の瞳に濁りはない。綺麗な輝きが嘘をついていない証。俺は一瞬呆気にとられる。そして、その意味を正しく理解したあと、ふっと口元に笑みを浮かべる。


「支えになれたんだな」


「はい」


「よかった」


「私もあなたがいてくれて、よかった……」


「でも、俺が巻き込んだようなもんだぞ。恨んで、ないのか」


「恨んでなんかいませんよ。本当のあなたを知ることができたから。変わらないマルスをようやく見つけたから」


「え……」


「それに、これで私もあなたを支えられる。お互い様でしょう?」


「ふ、はは……ここまでされたら、一生をかけてでもお前を幸せにしなきゃならないよな」


「い、一生をかけて幸せに、ですか?」


「ああ。お前の奴隷にでも何にでもなってやる。金だって渡してやる。必ずお前を幸せにしてやる」


「……あの、いえ、なんでもないです……ニュアンスが、違う……」


「ニュアンス? どういう意味だよ」


「マルスが自分で気づかないと意味がないことです」


「そうなのか? まぁ、そういうことってままあるよな。いつか必ず自分の力で気づくよ」


「ふふ、楽しみにしてますよマルス」


「楽しみにしてろ。俺は最後は必ずやる男だ」


「はい!」


 ホリィが俺の首に手を回して抱きついてきた。おっと、妙に今日はスキンシップが激しいな。誰かに縋り付きたくなるほど不安なんだろな。気持ちは分かる。俺は他人の気持ちに敏い人間だから。


「ようやく、マルスと仲直りできましたね。どんなにこの時を待ち望んでいたことか……!」


「俺もだ。俺もずっと昔に戻りたかった。純粋に正義を信じて、隣にホリィがいたあの頃に……」


 ギュッとホリィを強く抱く。確かな手応えと、首に回される手に加わった力が、絆の復活を俺に実感させた表情。見つ合うホリィの表情はとても安らかで、清らかで、美しく、そして、なによりも、誰よりも、アリアよりも、可愛かった。




 ん?




 ――アリアよりも?







 ――――あれ?







 俺は一人シャワーを浴びていた。体が汗血に塗れて不快だったからだ。汗をかいているのはホリィも同じだから先に入れようとしたら後から入りますと言って譲らなかった。思いやりがシャワーとともに心に染み入るなぁ……。


「……疲れた。何もかも理不尽すぎる。正義はこの世に存在しないのか……」


 一人きりになり虚勢を張る必要がなったせいか、ついつい弱音が口から零れ出る。神によって心に、体に、細胞に刻まれた痛みが、幻痛となって俺を苛む。記憶を想起するだけで痛覚が痛みを再現する。逃げ場も救いもない状況に俺は頭がどうにかなりそうだった。むしろどうにかなってしまえ。


「あぁ、死にてぇ……」


 無論本当に死にはしない。俺の助けを待つ人がこの世にはまだたくさんいるはずだ。それに、今俺が死んだら、俺が味わった孤独を今度はホリィが味わうことになる。


 それだけは絶対に嫌だ。


「……さて、落ち込むのは終わりだ。ホリィを心配させる訳にはいかないからな。ホリィはああ言ってくれたが、やはり巻き込んだしまった俺の責任は重い。ちゃんと責任取らないとな……」


 どうやって取ればいいか分からないけど、正義に叛くこと以外は何でもしてやる。そう、何でもだ。



 コンコン。


 ノックの音がした。


「は、入りますね……」


「ん? ああ。いいよ」


 何でもするって誓ったばかりだしな。


「し、ししし、失礼します」


「うん」


 ……うん?


「お、おおおおおお背中を、お、おな、おおお流ししますね」


 背後に、人が座る気配。ホリィ、何をやっている。


 後ろを振り向く。そこには顔を見たことないくらい真っ赤にしてタオルに石鹸をまぶすホリィの姿があった。バスタオルを巻いているので胸や股間は見えない。だが、際どい。ふとした拍子で中身が見えてしまってもおかしくない。


 らしくない。こんな行為、好意のある相手くらいにしかしないだろう。


 そう、好意のある相手くらいにしか……。


 ……。


 ……まさか、な。


 それは、あまりにも願望じみた妄想だろ。童貞じゃあるまいしちょっと優しくされただけで調子に乗りすぎだ。ホリィは優しいから、俺を労おうとキャラじゃないことをしてくれているだけだ。きっと、無茶をしているのだろう。


「顔が真っ赤だぞホリィ。気持ちは嬉しいが、無茶はしなくていいんだぞ」


「む、無茶なんかしてません!」


「いや、でも」


「そ、それより前向いててください。そんなにじろじろ見られると、恥ずかしいです……」


「っ! すまない」


 ジロジロ、見てたのか……。完全に無自覚だった。


 俺はホリィに言われた通り前を向く。


「せ、背中、擦りますね」


 ホリィが石鹸を塗りつけたタオルを俺の背中の上で前後に動かす。少し粗めの布地がいい刺激となって気持ちがいいな。普段は自分で洗っているが、人に洗ってもらう気持ちよさは比べ物にならない。どうして性行為もマッサージも人にしてもらうとこんなに気持ちいいんだろうな。


「気持ちいいですか?」


「ああ、凄く気持ちいいよ」


 タオル越しに背中に触れる柔らかな指が肌をこする度、得も言われぬ快感が背筋を駆け上がる。ほぼ裸の女性に体を洗われているという事実に、否が応にも性的興奮が喚起させられる。ホリィにそんなつもりはないのに、俺だけが一方的にホリィを性的消費している。その事実に反吐が出る思いだ。ただただ罪悪感が募ってゆく。


「すまないな……」


「巻き込んでしまって、ですか」


「違……いや、そうだな。それが、一番だな」


「責任、取ってくれるんでしょう?」


「……参ったな。聞かれていたのか」


「珍しく弱音を吐いていました」


「……たまには弱音くらい吐くさ。安心しろよ。絶対にお前を一人にはしない。吐いた唾は飲み込まない。責任はちゃんと取るさ」


「マルス……」


 ホリィが背中にしなだれかかってくる。体と体がタオル越しに密着する。2つの膨らみが俺の背中でむにゅりと潰れる。胸だ。柔らかくて気持ちがいい。とても気持ちがいい。何度味わっても女性の胸の感触はいいものだ……。


 じゃなくて。


「ホリィ。いきなり何を……」


「マルス。私、誰にでもこんなことは、しませんよ?」


「!?」


 吹きかけられる吐息とともに耳元で囁かれる言葉。その内容は俺にとって衝撃的であった。


 誰にでもは、しないのか……。ホリィは優しいから落ち込んでる相手にはいつもこんなことをしているのかと内心疑っていたが、違ったのか。


「その顔、やっぱり落ち込んでる相手なら誰にでもこんなことするんじゃないかって思ってたんですね。そんなわけないじゃないですか。マルスだからですよ」


「俺、だから……?」


 それって、どういう……。


「前も、流しますね」


「っ!?」


 今、それはまずい。前は今、大きくなってしまっている――!


「ちょっと待てホリィ。それは流石にマズイ!」


「え? きゃっ」


 振り返った拍子に、広がった俺の手が立ち上がりかけたホリィの足にあたり、ホリィはバランスを崩して転んだ。俺はホリィを支えようとして立ち上がるが、慌てていたせいか石鹸でヌルヌルした床に足を滑らせた。手を伸ばした勢いのままホリィへと顔から突っ込むような態勢で転んでしまう。




 ふにゅん。


「ん?」


「ひっ!」


 ふにゅん、と信じられないくらい柔らかい感触が俺の顔を受けとめた。


 俺の顔を受け止める信じられないくらい柔らかな感触。溶けそうなほど、いや、とろけそうな程に、柔らかくて、ずっと触れていたら火傷しそうなほどに熱い。当然、ぶつけた痛みなどあろうはずがなかった。


 口の中に、何か硬い感触。舌がその何かに触れる。柔らかいような、固いような、肉質の不思議な感触。「ひゃああんっ!」と頭上で喘ぎ声が漏れる。ホリィの喘ぎ声を初めて聞いた。心臓が経験したことないくらい激しくバクバクと脈打っている。ホリィのこんな可愛い声、初めて聞いた。そして、女性の喘ぎ声にここまで興奮するのも初めてだった。


 …………。


 というか、俺が今口に含んでるものってまさか……。


「っ! す、すまん! 今離れる」 


「やんっ!」


 しゅぽん、と口を離した刺激にホリィがまた喘ぐ。心臓がドクン、と跳ねる。ヤバい。ホリィが可愛過ぎる。勢いで手を出してしまいそうだ。そんな強姦魔のような振る舞い、もう絶対にしないけれども、欲望がグルグルと下腹部で渦巻いているのも事実。俺は最低か。アリアを傷つけておいて、よくもまぁ強姦魔のように見境ない欲情をまた親しい相手に向けれるものだ。俺は絶対にホリィに手を出さない。欲情さえしない。さぁ、まずは顔を上げて謝――。


「――――あ」


 俺は、顔を上げた拍子に見てしまった。先程まで顔を突っ込んでいたホリィの場所を、真正面から。さらに、バスタオルがはだけてあらわになったホリィの裸身さえも、ばっちりと。


 慎ましくも形が良く美しい二つの双丘。先端には信じられないほど奇麗なピンク色の突起。見目麗しいホリィの乳房が俺の目の前で顕になっている。初めて見るホリィの裸体。まるで女神のように美しく、これまで見たどんなエロい光景よりもエロかった。欲情しないと誓ったばかりなのに、俺は1分と持たずその誓いを破ってしまった。股間はかつてないほど固く大きく張り詰めている。今にも爆発しそうな程に。俺は今、人生最大最高の欲情を抱いている。よりにもよって、大事な仲間のホリィに対して――。




 ――仲間?


 ――それだけか?


 ――俺がホリィに抱いている感情は、本当に仲間意識だけなのか?


 ――いや。


 ――きっと違う。


 ――ずっと前から、本当は気付いていた。


 多分、俺は、ホリィのことが――。



「き――」


 ――ん?






「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 ホリィは顔を真っ赤にし目をぐるぐる回しながら飛び跳ねるように立ち上がり、浴室を飛び出した。


 ポカン、と俺はその様をただただ呆けて見ていた。浴室に一人取り残される俺。胸の内に生まれた結論に戸惑い、一人ポツリと呟いた。


「ホリィのことが好きだったのか。俺は。全然気がつかなかった……」




 浴室を出ると、ホリィの姿がなかった。

 代わりにベッド上の布団がこんもりと亀の甲羅みたいに盛り上がっている。傍によって耳を澄ますと「ぐすっ。うえぇぇん」と布団の内側から泣き声が漏れてくる。裸体を大事なところまで見られ、あまつさえ舐められたのが余程ショックだったらしい。ホリィは聖職者という職業と、元来の純粋な性格から、性に対してかなり初心だ。今回の件は完全に心が許容できるボーダーラインを超えてしまってらしい。バスタオル姿で体を洗うだけでもあんなにどもっていたのだから、当然の結果ともいえる。


「ホリィ、聞いてほしいことがある。今にも、大丈夫か?」


 ベッドを背もたれに床に腰掛けて、俺はホリィに語りかける。もぞもぞと布団が動いたかと思うと、ホリィは顔を上半分だけ布団から出して、俺を見る。そして、涙目のままコクリと小さく頷くと、もぞもぞとホリィの頭はまた布団の中に戻っていった。なんか人間じゃなくて小動物を見てるみたいだ。つまり凄く可愛い。


「俺さ、ホリィのことが好きみたいだ」


 ビクン! と布団がまるで電撃魔法を喰らったかのように波打った。そして、しぱしの沈黙。ヒョコ、とまた頭を出して、口を両手で覆いながら、潤んだ瞳でホリィは俺をじっと見つめる。そしておずおずと、口を開く。


「……本当?」


「本当」


「……本当に本当?」


「本当に本当」


「……本当の本当に本当?」


「本当の本当に本当。これが証拠さ」


 俺はホリィの頭を抱き寄せて口付けた。


 驚いて目を見開くホリィ。だが、決して振りほどこうとはしない。ホリィもまた俺を抱き寄せ、より深い繋がりの中で俺たちは互いの唇を貪り合う。


 唇が糸を引いて離れる。ホリィは陶然とした瞳で荒い呼気を漏らしている。俺は、感情一つ乱さなかった。不思議だ。そうと自覚して、いざ行動に出てしまえば、まるで戦場にいるかのように揺るがぬ心でいられる。


 愛しさだけは制御しようがなく、溢れて止まらない。だが、止めようとも思わない。これは俺の愛情。神に操作されたアリアに向ける愛情とは違う、本物の愛。この気持ちを制御しようなど無粋にも程がある。俺は愛が迸るまま行動する。ベッドに上がり、布団に侵入し、ホリィの頭だけでなく今度は全身を強く抱く。ホリィも俺の背を抱き返す。想いが通じ合っている。得も言われぬ喜び。経験したことのない充足感。今、俺の腕の中にあるのは、紛れもなく形ある幸福という概念。幸福だ。俺は今紛れもなく幸福だ。ホリィも、幸福だろうか?


「ホリィ、幸福か」


「はい……世界一、幸せです」


「なら、良かった。ごめんな。気持ちに気づいてやれなくて」


「……マルス、好きです。あなたに、言葉に出して言っておきたいんです。好き、好き、好き」


 好き――――。


 それは。


 心が溶ける魔法のワードだった。


 もう、元の形には戻らないだろう。


 ホリィの好きで溶けた心が埋め合わされて、ホリィの好きなしじゃ生きていられない心にされてしまったのだから。



 ――好き。


 それは。


 愛の魔法。


 相手を自分なしじゃいられなくする禁断の言葉。




 ――俺は魔法にかけられてしまった。


 もうホリィなしでは生きていけない。




 この地獄は最初から一人で生きるには寂しすぎたから。



 2人なら、きっと大丈夫。




 まるで夢のようなふわふわした現の中で、俺は再びホリィにキスをした。










 チュンチュン。


「おはよう、ホリィ」


「はい……おはようございます、マルス」


 ホリィの顔には満開の笑顔が咲いている。愛しさが胸にこみ上げる。俺はホリィのなめらかな髪を撫でて、おはようのキスをした。






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