第20話 寺山の遭難
北海道農牧試験場の約半分を占める山林部分は、小高い丘陵になっていて、富岡砦のある
寺山は、野草地での冬季放牧の場内試験を行う場所を探していた。かつてはトド山にも、富岡砦がある四望台の周辺を中心に、所々に野草地あったが、そのほとんどが牧草地になっており、試験場所として適当な所は、四望台から頂上にかけて範囲にしかなかった。しかしこの頃、頂上から試験場の北の端にかけてのラインから東側の約170ヘクタールの土地が分割され、そこに農務省の林木試験場が移転してくることになっていた。このため、頂上付近で使える野草地は狭くなり、林木試験場との境界線が近いので、山頂からの尾根道の南側で探すことにした。
彼は、塩野と一緒に尾根道を車で下り、尾根の東端近くにある羊南台という所に来ていた。ここから少し行った先からは、谷がある南側だけでなく、東側も急斜面になっていて、そのまま下りて行くと、一度試験場の外に出てから、富岡砦の下の放牧地に連なる林につながっていた。
この辺りは、何度も山火事になっているので、生えている木も、山頂付近に比べて細く小さかった。シラカバとトドマツの幼齢木が、谷底に下るに従って多くなり、木の下にはチシマザサが広がっていた。尾根道の近くは木が少なく、ワラビが広がる中にススキの大きな株が点在していた。
二人は、車を降りて周辺を見回した。秋晴れの下、ススキが穂を出し、ワラビは、少し色づき始めていた。すでに午後3時を過ぎて、日も傾いていた。
「上の方は、木が少なくて、ワラビばっかだな。下の方が木が多いが、木の下がどうなっているのかわからないな。行って見てみよう。」
と、寺山は塩野に言った。斜面は、途中から急になっていて、下の方に生えている木は、真ん中から上くらいの部分しか見えなかったのである。
寺山が、斜面を降り始めると、塩野は、ついて行かず、
「おい。ここはマムシの巣窟だぞ。俺、ヘビが苦手だから、お前だけで行ってくれ。俺は、車で待ってるよ。」
と言って、車に乗り込んでしまった。寺山は、
「しかたないな。じゃぁ、待ってろよ。」
と言い残して、斜面を下っていった。
寺山が、斜面が急になっている所まで下りると、塩野から寺山の姿は見えなくなった。塩野は、車の中で試験場の地図を開くと、ここならいいかもしれないが、ここまで牛を連れてくるのは大変だな。と思った。
確かに四望台近くの放牧地から牛を追ってくるにしても、1キロ以上の距離があり、脇にそれないように道の両側にバラ線を張るのは大変そうであった。塩野は、地図を見ながら、もっと近くで登ってくるルートがないか考えていた。
一方寺山は、軽快な足取りで斜面を下っていった。下りながら、塩野のことを思い浮かべると、大きな体をして小さなヘビを怖がる姿がおかしかった。しかし、マムシは毒ヘビなので、注意して歩く必要があった。
斜面を下るに従って木が増え、チシマザサも広がっていた。チシマザサが大きい所は進みにくいので、そこから先に進むのを諦め、横方向に歩いた。しばらく行くと、さらに急な斜面の上に出た。ここから数十メートル下に川が流れているようであった。寺山は、ここから先には行けそうもないと思い、引き返すことにした。
足下を確かめながら、斜面を登り始めてしばらくすると、黒い細長い影が飛びかかってきた。マムシだった。彼は、とっさに後ろに大きく飛んでマムシの攻撃をかわしたが、着地した足が滑り、後ろ向きに谷に向かって倒れ込んだ。彼は、仰向けになって、ゆっくりと落ちていき、木々の間から碧い空が見えたように思った。しかし、すぐに後頭部から背中にかけて強い衝撃を受け、気が遠くなっていった。
塩野は、車の中で寺山が戻ってくるのを待っていた。陽は大分傾き、谷の下の方は、暗くなっていた。時計を見ると4時を少し回っていた。なかなか寺山が戻ってこないので、塩野は車を降りて、大声で呼んでみたが、何の返事もなかった。さらにクラクションを鳴らしてみたが、同じであった。心配になった彼は、ヘビは恐かったが意を決し、斜面を下りて行った。チシマザサが茂る部分まで下り、何度も大声で呼んでみたが、返事はなかった。何かあったと思った彼は、急いで車にもどると、牧野センターに向かって車を走らせた。ここは、試験場の最も奥に位置するので、牧野センターまでは、車でも30分近く掛かった。早くしないと日が暮れてしまうと、彼は焦った。
塩野が、研究室の作業小屋に戻ると、富岡と広中がいたので、状況を話した。富岡は、寺山のことだから、大丈夫とは思うが、返事がなかったと言うのが気がかりだったので、早速業務科に協力してもらい、捜索隊を出すことにした。
羊南台に行くには、普通の乗用車やトラックでは行けなかったので、研究室のジープに加え、業務科のジープと納入されたばかりの西ドイツ(現ドイツ)製の四輪駆動のトラック「ウニモグ」を出すことになった。ウニモグは、トラックの形をしているが、戦後まもなく、西ドイツで農耕車として開発された多目的車両で、トラクターのようにエンジンの力を外部に取り出せる装置(PTO)を備えていた。また、45度の傾斜でも登れると言われており、林野の走行に適した車両で、羊南台に行くには打ってつけの車であった。
準備が整い、捜索に出発する頃には、時計の針は、午後5時を回っており、日没前だったが、大分暗くなってきていた。
羊南台に到着してみると、尾根部分は、まだ明るかったが、太陽は、谷の向こう側の山陰に落ちようとしていた。このため、谷底は、すでに暗くなっていた。富岡、広中、塩野の三人は、ジープを降りると懐中電灯を持って斜面を駆け下りていった。別のジープで来た業務科員もこれに続いた。ウニモグには、業務科の岡島と
一木は、運転している岡島に、
「おい、あったらちゃんこい(あんな小さな)懐中電灯じゃ,何も見えんから、もっと下まで降りれ。この車で照らしてやれ。」
と、ウニモグで斜面を降りるよう促した。しかし、岡島は、
「わや(めちゃくちゃ)だな。これ、納車されたばかりなんだから。」
と、躊躇したが、一木は、
「何はんかくさい(ばからしい)こと言ってんだ。人の命が掛かってんだ。車の傷くらいなんだ。サッサと行け。」
と、まくし立てたので、岡島は、渋々ウニモグを谷の方に向けた。斜面には、大きなススキの株や、シラカバやトドマツの幼木が生えていたので、あまり進めなかったが、ウニモグのライトが谷底に向けられたので、ライトに照らされた斜面は、かなり遠くまで明るくなった。一木は、ウニモグを降りると、富岡たちと一緒に斜面を降りて寺山の捜索を始めた。
寺山は、ササ藪の中で、頭を下にして倒れていた。気がつくと、周りは暗く、よく見えなかったが、ササの葉の間から見える空は、宵闇が迫りつつあったが、夕映えが少し残っており明るく見えた。頭を上げようとすると、首の後ろや背中など、体のあちこちが痛かった。なんとか体を起こして辺りを見回していると、だんだん目が慣れて見えるようになってきた。
彼の周りは、ササに覆われていたが、斜面は急だった。彼が落ちた先には、大きなトドマツがあり、何もなければ、この木にぶつかるところだったが、ササの上に落ちたため、木にぶつかることや、地面に、直接強く打ち付けられることが回避できたようであった。
彼は、なぜ自分がこんな所に倒れていたのか思い返していた。やがて、冬季放牧の試験場所を探しに来たこと、林の中を見に来てマムシに襲われそうになったことなどを思い出した。
「そうだ。マムシだ。よけられたはずだから、噛まれてないよな。」
と、独り言を言いながら、体を確かめた。幸いマムシには噛まれていなかった。立ち上がりながら、塩野が心配しているだろうと思った。しかし、一方で、ヘビが嫌いな塩野だから、探しに来てくれないかもしれないとも思った。
もう日が暮れてきていたので、野宿になるかも知れないが、このままここに居ては、またマムシに襲われるかも知れないので、とりあえず尾根道まで登ろうと思った。ササ藪の上の斜面に上がった時、遠くから声が聞こえた。
「てらやまぁ、てらやまぁ。大丈夫かぁ。返事しろぉ」
「おーい。てらやまさぁん、返事してくださぁい。」
何人かが、自分を呼んでいるのが分かった。声は、かなり上の方から聞こえてきていた。寺山は、答えようとしたが、背中を打っていたため、痛みで大きな声を出すことができなかった。辺りは、ドンドン暗くなってきているので、早く上に上がらないと真っ暗闇になってしまう。彼は、痛みを堪えて林の中の斜面を登った。
少し木の数が少なくなった所まで登ってくると、大分離れた上の方に車の明かりが見えた。それと同時に、二十個くらいの小さな光が散らばっているのも見えた。小さな光は、林の中を探しているのか、見えたり見えなくなったりを繰り返していた。
寺山は、自分のために、こんな多くに人が探しに来てくれている様子を見て、驚くとともに、目頭が熱くなるのを感じた。そして、痛みを堪えながら、
「おーい、ここにいるぞぉ。」
と、みんながいる方向に向かって進みながら叫び続けた。やがて、一番近くにいた光が、その声に気がついたのか、近づいてきた。
「おーい。俺だぁ、寺山だぁ。」
と、叫ぶと、相手は光を顔に当ててきた。まぶしくて相手の顔が見えなかったが、
「寺山か。俺だ、一木だ。大丈夫か。ケガはないか。」
一木だった。寺山に近づくと、一木は振り返って、
「おーい、いたぞぉ。こっちだぁ。」
と、みんなのいる方に向かって叫んだ。それと同時に、小さな光が一斉に寺山たちの方に向き、ドンドン集まってきた。それを見て、ウニモグを運転する岡島も、向きを変えて降りてきた。岡島からは、ウニモグのライトに照らされて、富岡や塩野たちが、寺山に駆け寄る姿がよく見えた。塩野は、大きな体で寺山に抱きつきながら、
「無事でよかった。一人で行かせてすまなかった。」
と、言って強く抱きしめようとしたが、寺山が、
「いてっ。痛いからやめてくれ。落ちた時に背中を打ったんだ。」
と、塩野を押し戻しながら言った。それを見て富岡が
「大丈夫か、寺山君。マムシに噛まれてやしないか。」
と、心配そうに聞いた。
「なんも、大丈夫です。マムシに飛びかかられたんですが、それは、上手くよけたれました。でも、足が滑って、ササの上に落ちてしまいました。ササがクッション代わりになったので、頭を少し打ちましたが、助かりました。しばらく気を失っていたのと、日が暮れて、マムシも動きが止まったみたいで、襲われずにすみました。」
と、答えると、一木が間に入り、
「ほんと、あんたは悪運が強いよな。湖に落ちた時も無傷だったしな。」
と言って、以前、
「でも、早く病院に行ってみてもらった方がいい。このウニモグに乗っていけ。」
と言って、近くまで降りてきていたウニモグを指さした。そこには、黄色い大きな車体のトラックが止まっていた。
寺山と業務科員たちを乗せたウニモグが走り去ると、辺り一面は、深い闇に包まれた。塩野や富岡たちは、懐中電灯を頼りに斜面を登り、ジープに乗り込むと、ウニモグの後を追って山を下りて行った。
寺山の体は、たくさんの擦り傷があったが、軽い打撲と脳しんとうだけで、大騒ぎの割には、軽いケガですんだ。しかし、職員が場内で遭難しかけたことは問題となり、部長の喜久知と室長の富岡は、場長に呼び出され叱責を受けることになった。
その後、野草を使った冬季放牧の試験は、寺山が遭難した羊南台の南斜面で行うことになった。塩野が予想したとおり、試験牛の誘導や飲料水の確保などに苦労したが、なんとか無事にやり遂げることができた。これにより、一連の冬季放牧の試験を終了した。
寺山は、アンガスが省力管理に向いていることは証明できたので、頭数が増えることを期待した。しかし、すでに高度成長とともに豊かな食生活を求める時代になっていた。このため、寺山たちが考えた外国品種を利用した省力的な飼い方による安価な肉牛生産より、金と手間が掛かっても高値で取引されるサシが入った柔らかい肉の生産が主流となっていた。さらに、その後の牛肉の輸入自由化により、この傾向は強くなり、彼らの技術は、時代にマッチできなかった。
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