龍の棲む地
第1話
カフェー・ジルエット。しばらくぶりに若槻はその扉をくぐった。店内は相変わらず客も少なく、だが穏やかな雰囲気が漂う快さ。
「コーヒーを」
それだけを言って若槻は以前と同じよう、カウンターに腰をおろす。違うのは白石を伴っていることか。店主はわざわざ尋ねもせず二人分のコーヒーを用意しはじめていた。
脱いだ帽子を何気なく見ては相葉を思う。白石は無帽であるせいかもしれない。あれ以来、悩んでいたというわけでもない。ただ噛み砕けない思いがあったのは確かだった。あの日の相葉の眼差しを思う。
無表情でいて、だがしかし目だけは爛と輝かせたまま炎に見入っていた相葉。どのような思いが、と問う無意味さ。彼自身にもこれ、と言えるような感情ではないのだろうと漠然と想像するしかなかった。
――あれは。
憎悪だ、と若槻は思う。おそらくはそれに似たもの、と。相葉本人に言えば違うと言うだろうことは想像にかたくない。あるいは、そんなものではないと言われるかもしれない。
――どちらの意味で、だろうな。
誤った空想であると嘲笑されるのか、憎悪など生温いと言われるのか。若槻にもまだわからない。単なる憎悪とも言えないであろう何か、とわかる程度だ。
――あってはならないものを駆除した、か。
まだ生きていた、寄生されてしまった人間たち。回復の手段があったのでは、思わないわけでもない。が、あるのだろうかとも思う。
あのような、あり得ない事象。人間が菌類らしき何かに寄生される、そこまではあり得るだろう。だが、生きて、しかも菌類と成り果てて。自分であったら、到底生きていたくない、あの場でもそれは感じていた。こうして日常に帰ってきてなおのこと思う。嫌だ、と。
だからきっと、相葉のしたことは正しくはなかったかもしれないけれど間違ってはいなかったはず。
やっとのことでそこまでたどり着くのにずいぶんな時間がかかった、若槻はこうしてジルエットを訪れる気になったいま、苦笑する。ことん、と目の前にカップが置かれた。
「あぁ、いい匂いだ」
ようやくうまいコーヒーの香りを楽しむ気分になれた。隣に落ち着かなげに座っている白石に眼差しを向ければ、少しばかり驚いた顔。
「どうした?」
「征克さんがそんな風に笑ったのが久しぶりのような気がして」
「そう、だったかな……」
首をかしげて見せつつ若槻は内心にうなずいている。その通りだと。身近にある書生として白石は誰よりも理解してくれていたのだろう。ありがたいと若槻は再度微笑みを向けた。
「相葉君はどうしているか、知っているかい?」
店主に水を向ければ目を瞬かれた。なぜ知らないのだと言わんばかりで困ってしまう。事務所の連絡先は知っていたけれど、若槻はあれ以来会っていなかった。
「いつも通りにお見えですよ」
口許だけが笑っていた。それはあたかも「喧嘩でもなさったので?」と言っているようでばつが悪い。距離を置いてしまったのは自分であって相葉の咎ではない、若槻はそう思う。
「だったら待っていようかな」
もしかしたら会えるかもしれない。呟くよう口にした若槻に白石は無言。どうしていいか、わからないのは彼こそなのだろう。
「征克さん」
「うん?」
「征克さんは、相葉さまのことを……」
「そう、だねぇ。なんと言ったらいいのか。うまくは言えないけれど、相葉君は僕にとって友人になれるかもしれない男なのだと思うのだよ」
「かもしれない、ですか?」
すでに友人と感じているのでは、怪訝そうな白石に若槻は苦く笑っていた。友情は感じていないわけではない。が、まだ彼に対して奥底まで踏み込む気にはなれない。
――僕は。
それを傍らの書生に言う気にはなれなかった。あるいは、逆さまも同じことと本人は知っているせい。相葉に踏み込まれたくない。彼はそのようなことはしないだろう、思いつつもまだ踏み出せない。
――けれど、僕は。
このままになってしまうのは、あまりに。そう内心に呟いたとき、扉が開いた。店主が視線を向けるまでもない、若槻はそちらを見やってはにこりと笑う。
「やぁ、相葉君。久しぶりだな」
「……君か」
「ご無沙汰をしてしまってすまなかったね」
「詫びられるような仲でもあるまいよ」
皮肉に言っては以前と同じテーブルへと。通りすがりに新聞を手に取り、店主にはコーヒーを。心得たものですでに豆を挽きはじめている店主を尻目に帽子をぽんと椅子に投げ出した。
「そちらに移ってもいいかい?」
「僕じゃなくってご主人に聞きたまえよ」
「おっと。いいかね?」
どうぞ。手振りで示す店主に若槻は笑顔。白石はそれが普段よりは強張っていると気づいている。相葉はいかにと見やれば呆れたような諦めたような目をして若槻を見ていた。
「君に会いたかったんだよ、相葉君」
「僕は会いたくもなかったがね」
「そう言わずにちょっと聞きたまえよ」
にやりと笑って若槻は彼の対面へと座す。戸惑いつつも白石もまた席を移した。そんな白石には相葉の方から軽く目礼を送ってくる。慌てて頭を下げた。
「もうしばらくしたら梅雨だろう? くさくさする前に気晴らしに行こうと思っていてね」
「そりゃ結構だね。行ってらっしゃい」
「まったく君ときたら素っ気ないにもほどがある。わかっているだろうに。僕は、君を、誘っているんだよ、相葉君」
「あのな、若槻。なぜ、僕を、誘うんだ」
事と次第によれば黙って済ますわけにはいかない、眼差しに語らせる相葉につい、吹き出したのは白石。あの日に感じた恐ろしさ、否、冷酷さが薄れていく。逆にそう感じたことによって、己は彼に恐怖していたのだ、と気づかされた。
――征克さんが友人に、と言ってる相手に対して俺はなんていうことを。
心の奥で恥じる白石とは若槻も気づかないまま。察したのは相葉こそ。だが彼は気にした素振りすらなかった。
「そりゃな、相葉君。君との関係がこれっきり、というのは寂しいじゃあないか」
「……白石君」
「は、はい」
「君の主はどこかで頭でも打ったか。それとも悪いものでも食べたか」
「そう答えにくいことを聞くんじゃないよ」
からりと笑って若槻は白石に片目をつぶって見せる。西洋風の所作がひどく決まっていて白石は笑った。相葉まで毒気が抜かれたよう。
「僕はね、相葉君」
そうして若槻は突如として真面目な表情へと。運ばれてきたコーヒーを口にしつつ相葉は彼を見やる。そこにある感情が、白石には読みきれない。期待とも不安とも違うものが相葉の目には浮かんでいた。
「色々あれから考えた。君は正しかったのか。何か他になかったか」
「僕が――」
「わかってる。君がしたことは十全に正しくはなかったかもしれない。だが、取り得る手段の中では最適であったのだろうと、僕はやっとそこまできたんだ」
「さてね。最適だったかどうか。僕はそれもわからないが」
「なら、他にできたことがあったかい? なかったよ。後知恵はいつも正しいなんぞと言うがね、こうして後になってあれこれと考えても僕にはさっぱりだ」
だから、あれしかなかったのだろう。噛み砕けなくとも、納得しなくてはならないのだろう。訥々と若槻は語る。相葉には、それが不思議な様子だった。
――相葉さまは、こうして語り合うご友人がいないのかも。
若槻同様に。そう思えばよい関係が築けるのかも、しれない。とは、白石も思うのだが。こうして顔を合わせて語る若槻の態度を見ているとはらはらして仕方ない。
――相葉さまは、やっぱり。
お綺麗だ。内心に呟きかけて白石こそ赤くなる。ジルエットの薄暗さが相葉の美貌に輪をかけている気までしてしまう。
――夜目遠目笠の内とはよく言ったもんだ。
陽射しの下で見ても美しい男が、明かりの少なく店内ではよりいっそうに。だからなお、若槻が心配にもなるのだけれど。
「だからな、相葉君。僕はもっと君という男を知りたいんだよ」
「待て」
「うん?」
「だから、がどこから続いたのか僕には理解できなかったぞ」
渋い顔の相葉を若槻がおおらかに笑っていた。言葉の続きなど、どうでもいいではないかと言わんばかりに。それにまた相葉が嫌な顔をする。そして若槻は頓着しない。また相葉自身そのような顔をしたとて若槻が誤解をするとは思ってはいない様子。
――本質的な相性のよいお二人ではあるんだよな。
真っ当に友人としてあれるのならば白石とて何も言うことはないのだが。端でよけいなことを言えばよくない結果になりそうでなお言えない白石だ。
「ま、細かいことは気にしないでくれたまえよ」
「どこが細かいのだかね」
「とりあえずだ、相葉君。遊びに行こうじゃないか」
「はぁ?」
「箱根によい宿があるんだよ。まぁ、父の伝手であるのが不愉快ではあるのだが宿はいい宿なんだ。一緒に行かないか?」
「……君は」
「うん?」
「なんて唐突なんだ!」
大きな声で嘆いた相葉だったが幸いにして客は彼らだけとあって誰の迷惑にもなっていない。店主も向こうで声を出さずに笑っていた。
「友人になれるかもしれない男と交流を深めたい。それだけなんだがなぁ」
その物言いに、ふと相葉の目つきが変わったと白石は見て取る。若槻は友人とは言わなかった。白石に言ったよう、友人になれるかもしれない男、と。あるいはそれが相葉の琴線に触れたか。わずかに和んだ眼差し。それでも彼は渋い顔。
「僕は他人が一緒だと眠れない質でね」
「なぁに、部屋を別に取るくらいどうということもない。僕が誘ってるんだ、掛かりはこちらで持つよ」
「これだから成金は」
ひやりと白石は若槻を横目で見てしまった。俗に言う成金の家であることは間違いのない事実ではある。それを真正面から口にされて若槻はいかに、と窺った己が恥ずかしくなった。若槻はただただからりと笑っていたのだから。
「君にかかると形なしだね。まったくもってその通りだから返す言葉なんかありゃしない。ま、金なんぞあるところからむしればいいじゃないか」
「まったく、君は。――で、箱根だって? 成金だけに富士屋かい」
箱根有数どころか日本国でも名だたる西洋式ホテルの名を挙げれば若槻はにやりと笑って身を乗り出す。
「そういうところは親父殿のように格式が欲しい男が行くのさ。僕はもうちょっとのんびりしたところが好きだね」
「白石君。君の主人は手に負えん」
「たまにですが、同意したくなります」
「おい白石!」
慌てた若槻に諦めたよう相葉が笑った。肩をすくめては持ってきたまま放り出されていた新聞を手に取る。手持ち無沙汰のようで、なぜか照れてもいるようにも見えて。
「じゃあ、早速に出かけよう!」
気が変わらないうちに予定を立てなくては。はしゃぐ若槻に相葉は呆れて再び肩をすくめた。
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