夢を見る

朝月刻

第1話




 係長から命令が下った。河崎佑は懐かしい土地へと赴くことになる。

「都津上、か……」

 現在は警部を拝命している彼の卒業配置は都津上署だった。何もかもが新鮮でわけもわからず邁進していた若い日、というほど昔でもない。ノンキャリとしては順調に出世を遂げている河崎だ。

「薬物、ねぇ」

 都津上は昔ながらの住人が暮らす郊外や沿岸部の他、大学生が暮らすアパート街も多い。新旧の住人が入り交じることの少ない土地柄でもある。

 ――河崎。都津上には詳しかったな? どうやら最近になって薬物汚染が認められているらしい。

 ――薬物ですか。

 ――コカインという情報もあるが、どうも違うみたいだ。

 係長はそう顔を顰めていた。現状の調査ではコカイン様の薬物ながら更に反応は激烈だとのこと。いまだ薬物入手に至っていないせいで明確には不明なままだ。

 ――それに学生が手を出している、と報告を受けている。

 ――ですか、あの辺は相沢組のシマでしょう。あそこは薬はご法度のはずです。

 ――それを、調査してくれ。

 係長にもその程度のことはわかっているはずだった。相沢組が都津上に進出してきたのはさほど昔のことでもない。まだ河崎が都津上署の新人であったころに出てきたかどうかということろ。元は関東系の指定暴力団の二次団体である組が新たな稼業として学生相手の商売をはじめるために相沢組を進出させた、ということらしい。

「ただなぁ」

 学生相手だからこそ、芋づる式の検挙を避けるためか相沢組は違法薬物に手は出していないと河崎は記憶している。なにより本家が薬物を非常に嫌う。以前、傘下の組が薬物取引で検挙された際、本家は組ごと潰している。おかげで傘下のすべての組が震え上がったと河崎は聞いていた。それがいまになって薬物とは。河崎には疑問だった。

 ゆっくりと、そんなことを考えつつ都津上の土地を歩いていた。久しぶりに訪れたけれど、やはり変わってはいない。あの道も、この路地もみんな見覚えがあるままだ。

 電車で到着した河崎は駅前を離れて散策していた。まずは自分の足で歩いてみようと思ってのこと。駅前の交番には制服警官がしっかりと立っていて、河崎も当時を思い出しては内心に微笑んだものだった。

 交番は時期によっては忙しい。春先などは新入生が大学までの道を尋ねてくることが多くなる。新人社員が営業先がどこかわからないと半泣きになって訪れたこともあった。

 ――パニクってたんだろうなぁ。スマホ見りゃいいだろうに。

 それも思いつかないほど混乱していたのだから新社会人は可愛いものだ。彼らとさして年齢が変わらなかったころでも警察学校のあの訓練を乗り越えてきた警官とは性根の据わり方が違う。そう河崎は思う。

 都津上は、長閑でいい土地だった。学生が多く活気があり、商店街も元気だ。古くからの住人がそれを厭うことも少ない。

 だが、河崎がいたころから、言われていたことがいくつもある。ここは、奇妙なことが起こる土地なのだと。

 ――信じてなかった。

 当然だろうと河崎は疑うことすらしなかった。奇妙なこと、というのが何かの隠語であるならば警察に奉職する身として捜査に励む。だが、炉端の昔話でもあるまいし化け物がどうの、と言われても困る。

 ――最近は害虫が出たで通報してくるのがいるからなぁ。

 そのうち化け物退治も警察の仕事になるのでは、当時の都津上署の冗談だった。それが、うっすらとでも本当だったのでは、といまの河崎は疑いはじめている。まさか、とは思ってはいるものの。心のどこかでは、すでに。

 ――そろそろか。

 時間を見計らって駅前に戻った彼だった。古くからある喫茶店に移動するまでの間も警戒は怠らない。現在の職場に異動してからの習慣だった。尾行の気配はない、それを確認して喫茶店へと。

 懐かしのドアベルの音。涼しげでいながらどこか重たく響く音に河崎は目を細める。そうしつつ店内を素早く見回していた。

「いらっしゃいませ。お一人様ですか」

「いえ、連れが……あぁ。もう来ているようです。ありがとう」

「どうぞごゆっくり。のちほどご注文を伺いにまいります」

「いえ、コーヒーをお願いします。ブレンドで」

「かしこまりました」

 穏やかなマスターも年を取った。覚えているのかいないのか、河崎にはわからなかった。以前なにかの折に言葉をかわしたとき、マスターは「常連さんを贔屓するのが嫌いなのですよ」と彼にしてはきっぱり言っていたのを思い出す。

「兄貴、ご無沙汰しています」

 店内奥の席に彼はいた。一見は今時の若者風だけれど、目が違う。

「お前も元気そうだ」

「おかげさまでなんとかやっています」

「そうか」

 ふと河崎の口許が緩んだ。この守谷慶太とも長い付き合いになる。河崎が都津上署にいた当時に知り合った男で、あのころは箸にも棒にもかからないちんぴらだった。

「慶太、お前いま何をしてる」

「若頭補佐を任されています。お恥ずかしい」

「ほう、そりゃたいしたもんだ」

 照れて頭をかく守谷に河崎の目は優しい。実のところ、彼は河崎の協力者だった。利便を図ることはないが、相沢組が睨みを利かせてくれていた方がよい場合もある。

 ――天下国家のためならば、どうということもない。

 守谷の方から情報を漏らし逮捕に至った例も数知れない。それでよい、と河崎と彼が所属する部門は考えている。

「兄貴は、いまは……?」

「言わなかったか? 警視庁だ」

「ですよね。またご出世かと」

「そんなにほいほい上がれるものか」

 苦笑する河崎に守谷は照れ笑い。ちんぴら時代を知るからこそ、真っ当な社会人にはなれなくとも、まともな組織人にはなった守谷が河崎は可愛い。

「あのころから兄貴は怖かったですよ」

 警察官は腰抜けばかりだ、と粋がっていたのが恥ずかしい守谷だった。何をされたかもわからないうちにナイフを叩き落とされ、手首を掴まれたかと思ったら手錠がかけられていて唖然としたのは忘れがたい。

「そうか?」

「組対の刑事さんなんて事なかれ主義か同類かと思ってましたから」

 それには河崎も苦笑する。対暴力団や銃器密売等の犯罪を取り扱う組織犯罪対策局はかつて四課と呼ばれていたから、そちらの方が馴染み深いかもしれない。以前はどちらがやくざかわかったものではない格好をした警察官も多かった。

「俺は組対じゃなかったけどな」

 肩をすくめる河崎に、知ったときにはなお怖かったと守谷は笑う。河崎に諭され、守谷はすぐに刃物を振り回すようなことはなくなった。それが組で見どころがある、と評価される切っ掛けになったのだからわからないものだ。

 その後も付き合いは続き、何かあると守谷は河崎に相談を持ちかけてくるようにもなった。兄貴兄貴と慕われて嬉しくないわけでもなかったが河崎は警察としての一線は守っている。守谷はそんな彼だから安心して相談ができると言う。

「今度も兄貴のお手伝いができるといいんですが」

 わざわざ異動の挨拶などあるはずもないが、河崎との付き合いは組でも当然にして知っている。守谷はいまの彼が公安総務課に所属していることまで知っていた。どこか窺うような目になるのはそのせいもある。組対などよりよほど怖い、組上層部は口を揃えてそう言う。

「あぁ、頼む」

 軽く頭を下げれば慌てて両手をひらひら振って困惑する守谷を笑ったところでタイミングよくコーヒーが出てきた。話の切れ目を確かめていた様子。さすがだな、と目顔で礼を表しコーヒーを飲む。変わらずうまかった。

「それで、兄貴。何をお話しすれば?」

「最近この辺りで、な」

 言葉を濁した河崎に守谷が顔を顰める。水臭いとでも思われたか、わずかに感じたけれどすぐさま悟る、守谷は話題を察したのだと。案の定。

「ヤクですか」

「知ってたか」

「うちでも問題になってますから」

「ということもは――」

「もちろん、うちじゃありません」

 断言する守谷の目を見ていた。真っ直ぐとした目だから嘘ではない、などとは言わないけれど守谷との付き合いは長い。嘘ならばわかるものだった。

「そうか。そっちで見当はついてるのか」

「兄貴がご存知ないのが不思議なくらいですよ」

「相当派手にやってるってことか……」

「はい。うちの若いのも何人か……やられました」

「なに?」

 法治国家で何事だ、と言うほど河崎も純ではないが、まったく公安が掴んでいなかったのは解せない。だが守谷が首を振る。

「正確には、わからないんです。正に消えた、です」

「どこに行ったのかも、何をされたのかも。どうなったのかも?」

「失踪してるんで、まぁヤられたのだろうな程度です」

 その言葉に不意に嫌なことを思い出した。否、都津上に来るにあたって思い起こさずにはいられなかった。昨年、河崎の部下がこの土地で失踪を遂げている。相沢組とはまったくの別件を追っている最中のことだった。

「去年はとんでもなかったらしいな」

「森林公園のテロですか。あれは……酷かったですよ」

「お前、見たのか」

「とんでもないことが起きたって言うんで、若頭に命じられて見に行きました。まだ、遺体の搬出も済んでなくて……こんなこと言うと兄貴に笑われるかもしれませんけど、しばらくメシが食えませんでした」

 引き攣るよう守谷は笑う。いまでも思い出すだけで悪夢を見そうだ、とも。それなりに修羅場はくぐっている守谷が言うのはだからよほどのことだろう。黙って河崎は首を振る。その場に居合わせたはずの部下を思う。いまどこでどうしていることか。

「あれはカルトのテロだったって聞きましたけど、ほんとですか?」

「あぁ。いわゆる狂信者ってやつだな」

「ひでぇことしやがる。そりゃ俺らだって堅気さんにはよくは思われませんけどね、あんな無差別に殺しまわったりしませんよ」

「この国はどうなって行くのか、考える瞬間だな」

「兄貴がそんなこと言わないでください。俺まで不安になるじゃないですか」

「うん?」

「俺にだって愛国心て言うと右っぽくていやですけど。自分の住んでる国はよくなって欲しいな、くらいは思うんですよ」

「それで充分だろう」

 ならば真人間になれ、と言っても守谷にはできないし大多数の構成員にもできない。ならば最低限のところで保てばよい、河崎はだから守谷が組を抜けられないと理解したときからそれを言ったことがない。そんな彼だから守谷は慕うのかもしれない。




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