煙霞とカルノタウルス女

ミナトマチ

煙霞とカルノタウルス女

「えっ、じゃあ七星なぼしさん、今フリーなの?」


「はい……彼とは遠距離になっちゃって…聞いてくださいよ、ひどくないですか?私も仕事があるのに、自分のとこに来て一緒に暮らそうって言うんですよ。いや、お前が来いよって感じ!」


「あははっ‥‥結婚願望とか‥‥彼とはそういうの考えてたの?」


「はい、なるべく早く結婚したいんで‥‥でもGWに彼と会ったんですけど、やっぱりなんか違うっなて。もう完全に萎えちゃいました‥‥…」


「へぇー……じゃぁさ、若場わかばくんなんてどうなの?」


「「えッ」」


七星さんと僕の声が綺麗に重なった。

春。出会いと別れの季節。

新しさというのは嫌でも浮足だってしまうものかもしれないが、僕は違う。

出会いでも別れでもない。あるのはただ果てしない憂鬱だけである。

日本狭しと言えど、満開の桜を目の敵にし、葉桜をこよなく愛するのは僕くらいであろう。

今年で社会人3年目になる。

社会や仕事、大人というものの輪郭がなんとなく分かってきたとはいえ、疲れないわけではない。

特にこの、ガヤガヤとした居酒屋の、少し広い個室で、予定時間よりも30分はやくおっぱじめられた「若手だけ」と銘打たれた飲み会がその際たる例である。


そしてその質問はまずかった。


「ええぇ‥‥…若場くんですかぁ?ちょっとタイプじゃないですね~私、顔が濃い人がタイプなんでぇ……」


「えーーーーッ!?俺的には若場クン、結構男前な顔してると思うけどなぁ‥‥…」


僕は元来「体育会系部活動に所属していた女性」を恐怖し、そして嫌悪している。


今のご時世、男だの女だの区別するのはよくないし、もちろん僕もするつもりはない。


しかしそれにしたって、あの男勝りを超えた…触れるもの傷つけんばかりの強気な性格に圧倒的コミュニケーション力、そしてなにより自分が世界の中心であるかのようにやに下っている我の強さは、とても僕と同じ時間を生きてきた人間とは思えなかった。


断っておくと、僕は七星さんのことも、話題を振った先輩のことも別に嫌いではない。


七星さんは、愛想がない僕にもよく話かけてくれるし、先輩は会議の資料やらなにやら本当によく助けてくれる面倒見のよい人だ。


だが、なぜだろう目の上が熱くなって、不意に死にたくなった。


「あ、はは‥…まぁ、好みってそれぞれですし、ね‥‥…あ、すいません、僕ちょっとお手洗いに‥‥…」


情けなかった。

声が上ずっていたし、怯えて逃げ帰る犬のように……僕は背中を丸めて宴席を後にした。


尿意なんてものは微塵もない。

ただ僕は一直線に居酒屋の玄関を目指して足早やに、やけに長い廊下を進んでいった。

大きめの居酒屋のくせに、喫煙所が玄関にしかない。

喫煙者がいったい何をしたというのだろうか。


天気予報が見事に的中して、外は少し冷たい雨が降っていた。

喫煙スペースは存外に広かったが、幸いなことに誰もいない。

僕はそそくさと煙草を取り出して、火をつけた。


煙がまるで潤滑油のように僕の体に流れ込んできて、吐き出すと、昼下がりの午後の様に頭に少し靄がかかる。


気持ちよかった。


『夏は夜。月の頃はさらなり。やみもなほ 蛍の多く飛びちがひたる』


昨日、何気なく手に取った『枕草紙』の一節がふと頭をよぎる。

新装の文庫本だったので、これも何かの縁だと買おうか迷ったが、今手にしている煙草の値段を勘定して結局やめた。


月だの蛍だのはどうでもいい。

夜の闇に、真っ白な煙草の煙が、ただただ自由に溶けてゆく。

それこそが「をかし」なのだ。


「ふふっ……なに考えてんだろ‥…」


「ほんとにねー」


「!!‥‥…なんだ、キミか…びっくりしたよ」


僕が座る椅子の背もたれには手をついて寄り掛かっていた。

のんびりとした声で話しかけてきたかと思うと隣に移動して素早く腰かけている。


カルノタウルス女は、喫煙中急に現れるのだ。



「今日はどうしたの?ああ…春先特有の飲み会ね?」


「……うん、まぁ、そうだよ…」


「何か嫌なことあったんでしょう?」


「……何もないよ?」


「エンカは本当に嘘をつくのが下手だね。まぁ、そういうところが可愛いんだけど」


「……‥……」


少しムッとしたが、悟られるとまたからかわれるので、気にしないふりをして煙草を吸い込んだ。


七星さんの理想の男性と、僕はやはり大きくずれている。


顔や背丈が子どもっぽくて、おまけに名前は「円夏まどか」なのだ。

いっちょ前に傷ついてみたものの、七星さんの見識に狂いはない。

容姿と言えば、あまりそれに関してとやかくいうのは好きではないが……この「カルノタウルス女」の姿形はやはりいつみてもインパクトが強い。


まずは頭。名前の由来(僕は彼女の名前をいまだに知らない)となっているように、大きさは人間のそれと変わらないが、「カルノタウルス」という、目の上あたりに角が生えた恐竜の頭蓋骨が首の上に乗っていた。


昔はこれでも「恐竜博士」と言われていたので、初めてなった時からすぐに分かった。


不思議なのは首から下である。

人間のそれというより、人間そのもの。綺麗なうなじに、ダンサーのようなしなやかで美しい肢体。

しかし最も奇妙なのは、なぜか彼女がナース服を着用しているところだ。

角が邪魔だからか、帽子は被っていない。

さらには不似合いな高いヒールを履いて、指や腕には装飾品が輝いていた。


ところで、なぜこの異形のナースが「女性」と分かるのか。

ナース服を着ている、『ナース』だからではない。

下卑げびているが責めないで欲しい。…………声が綺麗で、腰が細く、胸がデカイのだ。


に人間の枠組みをハメないでほしいなぁ。それに今ってそういうのよくないんじゃない?」


「……に目がいくのは『本能』だよ。僕は自分の内なる『本能』に従うし、正直に生きるよ。まさかキミは、僕の人として与えられた自由を制限するのかい?」


「……ヘリクツ言うエンカは可愛くないぞ~」


少し強めに頬をつねられた。

僕もなんだかんだ酔いが回っているようだ。

気分がよくなってきたので、上機嫌をそのままに、僕は2本目に火をつけた。


やっぱりこのうえなく気持ちいい。


「……っていうかいつも言ってるけど、悪魔ってなにさ?契約したっけ、僕ら?」


「してるわよ。随分前からね」


「書面がないよ。それに覚えがない……クーリングオフを要求する!」


「ダ~メ」


「あはははははっ」


ひとしきり笑って煙草を口にしようとすると彼女に取られた。

スカスカの骨のくせに、人間のように彼女は僕の煙草を吸っている。

一体、その頭はどうなっているのやら。


煙草を吸って、物思いにふけって、どこからともなく現れるカルノタウルス女と話す時間が一番楽しかった。

最初‥…僕が初めて父親の煙草をこっそり吸った時は苦くて煙たくて、苦しくって……カルノタウルス女なんて見えなかったものだ。

 

真面目な学生ではあったが、煙草の魔力に負けた。

ダメだと分かっていながらも、僕はずるずると吸い出した。


部活がキツかったとき、先輩にひどい目にあわされたとき、初めてできた彼女に振られたとき、受験に苦労したとき、バイトで理不尽なことがあったとき、社会不安に見舞われたとき、就活がうまくいかなかったとき、飲み会で傷ついたとき。


僕が負の時間を重ねれば重ねるほどに、その時間だけ煙草を吸えば吸うほどに。


気が付くと煙がいつのまにか実像を得て、やがてカルノタウルス女になり、傍にいるだけだったのが話しかけてくるようになり、最近じゃ触れるようになってきた。


「‥‥……僕が死んだらさぁ‥‥…命?魂っていうのかな?キミがどこかへ持っていくの?」


「……うーーん、難しいね。いや、キミに契約だのどうこうを言っても分からないから、説明がね?難しいのよ」


「……じゃぁ、ずっとキミと一緒に居られるかい?」


その時、不意に無機質なその頭蓋骨の表情が、優しく緩んだような気がした。


「ええ。それだけは約束するわ」


眼の上かな?いや鼻の奥だろう。それとも頬か?

とにかく、顔やら耳やらが熱かった。おまけに視界まで霞んできた。


「泣いてるの?」


「‥……そんなわけ……ないでしょ…」


「そうよね…………」


雨が強くなってきていた。

煙草もギリギリまで吸ってはみたがもう限界だった。

戻らなくてはと思うと、またひどく憂鬱になる。


「ねぇ、いっそのこと‥‥…今すぐ僕をキミの世界に連れて行ってよ」


「どうしたの急に?今日はいつにもまして沈んでるわね」


人の強度は本当に人それぞれなのだ。

世界には、バズーカ級のストレスを味わっても何食わぬ顔でまた歩きだせる不屈の英雄がいる。

一方で、投げつけられた小石一つで、もう二度と立ち上がれない勇者もいる。

当たり前のことだが、常識ではない。


「もう、なんか疲れたんだよ。春だからか、飲み会だからかは知らないけどさ。もうなんか……」


「…‥‥営業部の希望ヶ丘さんが、エンカのことタイプだって言ってたよ?」


「‥…………えっ!?えっなんて?…っていうかなんでそんなの知ってるの?」


「さっきここで数人が煙草吸ってて…そん中で本人が言ってた」


まさかあの清楚でおしとやかな希望ヶ丘さんが…高嶺の花であるあの希望ケ丘さんが……煙草を嗜んでいるのにも驚いたが、まさか僕にそんな……


「う、嘘じゃないいんだよね?」


「私がエンカに嘘ついたことある?」


天にも昇るとはまさにこのこと。

やった!すごいぞ!やった!

目の前の全てが輝いて見える!


「それでさっきの話どうする?一緒に行くぅ?」


「い、いやさっきの無し!ナシだから!…ごめんありがとう、僕行ってくるよ!」


「うん。頑張ってね。まずは落ち着いてね?それで相手を尊重して楽しく会話するように心がけるんだよ?」


「分かった!!」


僕はさっきとは、また違った足取りで、姿勢で…駆けるように宴席に向かった。

カルノタウルス女はいつも突然現れるが、消えるときもいつの間にかいなくなっているから気にしない。


「世の中に必要なのはびっくりするくらい……取るに足らない小さな希望だ。人間はちっぽけな希望一つで大きく変わる。全てを変えられる。本当におもしろい生き物だよ」


どこからともなく手にした煙草をさっと口にくわえて、吐き出した煙と共に、カルノタウルス女は静かに夜の闇に溶けていった。































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