Blue Moon Dance

ぱむ

プロローグ


伸ばした手の先には月があった。



結局はただの偶像に過ぎない、月の皮を被ったデータの塊を眺めてるだけで月とは呼べないのかもしれない。



現実じゃない。

何もかも。



でもそれは確かに「現実」として存在した時間だった。

淡く光る月にぼくは見惚れていたんだ。



あのときは伸ばした手を、どうしたんだっけ。

思い出せない。



「ぼくはーーーー」





          ♢♢♢


セットしたアラームの音で目を覚ました。

また同じ夢。

いつも手を伸ばしたところで目が覚める。

頭の横にはHMDが熱をもって転がっていた。


「やっぱりV睡は疲れるな…」


床で寝落ちしてバキバキになった身体を伸ばし、深呼吸した。

カーテンを開け、日の光を浴びる。

眩しくて目を瞑りそうになってようやく身体が現実を受け入れた。


「さーて、出勤しますかぁ」


んーっともう一度大きく伸びた後、PCの電源を落として、夜乃よるのは支度を始めた。


          

          ♢♢♢


夜乃の会社は小さな印刷会社だ。

今日も忙しなく印刷機が音を立て、職員がバタバタと狭い職場を駆け回っている。

夜乃は主に庶務を担当していて、修繕関係やトナーの管理、職員の給与に関して、その他多岐に渡る。


「おはようございます」


夜乃が職場のドアを開けた瞬間、いきなり怒声が降ってきた。


「原田さん、こっちに来て説明しなさい」



「なにこれ…」


夜乃は自分の目を疑った。

確かに昨日ちゃんと発注したはずだ。

何故?

西村と一緒に確認しながらやったはずだった。


夜乃は息を呑んだ。まさか…


「わたしが帰った後に何かした?」


横に立ってた西村はあからさまな態度で、


「え、なんでそうなるんすか。責任押し付けないでくださいよ」


とシラを切った。


間違いない。

わたしが帰った後に何かしたようだ。

ふざけるのも大概にしてほしい。


「説明しろと言ってるんだ」


上司の言葉で空気が澱んだ。


「わたしはちゃんと…っ!」


「ちゃんとできていたならなんでこの状況になっているんだ?今日までに間に合わせる約束だっただろう」


本当にちゃんとやった。

やったんだ…!

反発する言葉が喉までせり上がったが、結局何も言えない。

こういう状況をすぐに打開できる言葉が見つからない。


「…すいません。以後ないように気をつけます」


「以後ないようにって毎回色々問題を起こして信用できると思うのか?全く学習しないやつだな君は!」


その言葉で夜乃の中の何かが弾けた。


「お言葉ですが、今までの発注ミスや給与の管理のミスも全て西村さんがやったことで、わたしは関与してません!

西村さんの名誉のために全てわたしが謝罪していただけで…っ」


「すぐ後輩のせいにして恥ずかしくないのか!」


何を言ってるんだろうこの人は。

理解ができない。

西村も黙ってないで何か言ってよ。


「原田さん、何ですぐ俺のせいにするんですか?自分の非くらい認めましょうよ」


そうか。

わたしはお人好しすぎたんだ。恩を仇で返されるとは思わなかった。今時の子は何考えてるかわからない。かなりの数のミスを代わりに謝罪した。その結果がこれなのか。ふざけている。


「ふざけないでよっっ!!!!!」


無我夢中で西村の胸ぐらを掴んだ。


「どれだけわたしがお前のためを思って…!」


パチンッと大きな音がして視界が右に揺らいだ。左頬が熱を帯びている。


「暴力沙汰とはいいご身分だな。もうお前は来なくていい」


そうですか。


「社長のこれも立派な暴力ですけどね」


もういい。


「ではお言葉どおりに。失礼します」


こんな会社、今すぐ潰れてしまえばいいのに。


去り際に西村がわたしにしか聞こえない声量で

「原田調子乗ってたからまじ気持ちいいわ、

おつかれー」

と言っていたが聞こえないフリをした。


全員死んでしまえばいいと思った。



          ♢♢♢


「あーあ、会社クビになっちゃった」


夜乃は重たい足取りでまだ明るい道を歩いていた。わたしが何をしたって言うのだろう。

この世界は不条理だ。

手を差し伸べられることなんてない。

誰かが絶対に不幸になるようにできている。

そういう仕組みなのだ。

自分が手を差し伸べていたつもりが結局不幸の沼に引き摺り込まれていただけだ。


「明日からどうしよ…」


未来への絶望感の中、俯いて歩いていたら不意に手を掴まれた。

ビクッとして顔を上げると知らない男性3人に囲まれていた。


「お姉さんこんなところに1人でどうしたの?」


「暇なら俺らと遊ばねぇ?」


今日は厄日だろうか。


「…離してください。迷惑です」


「いいじゃん、疲れてそうだし楽しいことして何もかも忘れよ!」


何もかもか。

悪くないか…


いや、だめでしょ!!

一瞬の葛藤の末、手を強く引く。

動かない。


「嫌っ!離して!!!」


「おい、抵抗すんなよ」


恐怖で体が震えて力が入らない。

もう死んだ方がマシだ。こんな人生。


「離せよ」


誰かが男の腕を掴んで捻り上げた。

…誰?


「悪い、この子僕の連れなんだよね。

乱暴なことしないでくれる?」


「痛えな、おい勝手に来てなんだテメェ…ひっ」


男たちはその人を見るなりすぐ去っていった。



「あの、助けてくれてありがとうございました…」


顔を上げるとそこには、さっきの男たちとは比べ物にならないほど体格のいい男が立っていた。身長が190センチくらいはあるだろうか、青色のスカジャンを身に纏ったその男はしばらく黙ったままこちらをじっと見ていた。何で何も言わないのだろう。だんだんと恐怖心が少しずつ募ってきたところでふいにその男は口を開いた。


「大丈夫?ごめんね、勝手なこと言って」


「あ、えっと…」


差し出された手に一瞬で身体が危険信号を出した。どこかに連れて行かれるかもしれない。心臓の鼓動が早くなる。立ち去らなければ。

夜乃はもう一度深く頭を下げたあと逃げるようにその場を後にした。



          ♢♢♢


無事に家に着くなり、勢いよく鍵をかけ、そのままベッドに倒れ込んだ。

声を殺して泣いた。涙が止まらなかった。

恐怖、未来への絶望、何より大事な時に何も言えない自分の不甲斐なさが悔しかった。

上司への正しい回答もわからないし、助けてくれた人にまともにお礼を言うことさえできない。

あの時ああやって言えば、という思いが今になって次から次へと出てくるが、もう何もかも遅い。

言葉はそのときに自分の意思を持って出てこないと意味がないのだ。

本当に自分の価値の無さを痛感し、無力感でさらに涙が溢れた。


「止まれよ…っ!」


泣くことしかできないなら赤子と一緒だ。

何で自分はこの世に生まれたんだろう。


両親は夜乃が小さい頃に2人とも他界した。

頼れる友人と呼べる間柄の人もいない。


「もう嫌だよ、生きるのも、死ぬのも。

どうしたらいいのおかあさん…」


静かに濡れた目を閉じてそのまま深い眠りについた。




どれだけ眠っていたのだろうか。

時刻を見ると23時を回っていた。

12時間以上眠ってたのか。


なんか食べなければ。

ベッドから起き上がり冷蔵庫に向かおうとした時、床に転がったままのHMDを見つけた。

朝そのまま放置したものだ。

…そうだ、わたしにはVRがある。

食事も忘れ、すぐにPCの電源を入れ、HMDを被った。


          ♢♢♢


「VRChat」を起動した。

すぐにオーバーレイアプリのOVR settingsも立ち上がる。

緑の世界が広がり、馴染みのある音がした。

わたしをもう一つの「世界」へと連れ出してくれる。


「VRChat」はchatと付く通り、基本的には他の人とボイスチャットでコミュニケーションを取る所謂VRSNSだ。

だが夜乃にはこの「世界」にすら親しい友人はいなかった。

自分の分身となるアバターをアップロードするため、形だけフレンドになった人もいるが一回会ったきりでその後音沙汰はない。


でも夜乃はそれで良かった。

夜乃は人と話したいのではなく、「世界そのもの」を見に来ている。

「VRChat」には無数の世界、ワールドが存在する。

現実世界では見ることのできない綺麗な絶景や、おしゃれなカフェ、動物園や図書館、隠れ家、さらには銃を撃てたり、お化け屋敷のようなホラーアトラクションまでなんでも揃っているし、その世界は常に更新されおびただしい数になっていて一生かかっても全てを回ることは不可能だろう。


どこに行っても「世界そのもの」を夜乃が独り占めできるのだ。

夜乃にはこの楽しみ方が一番しっくり来た。

もう、間違えない。



見慣れたホームに降り立ち、すぐに鏡の前に立った。

そこにはグレー色のニットを着た白髪の少年が居た。

夜乃はこの世界では少年の姿になっている。

改めて鏡に映るやる気のなさそうな自らの目を見つめてみた。

この世界では外見も自由だ。

何の縛りもなく好きな姿でいられる。

化粧だっていらないし、服も設定さえすれば一瞬で着替えられる。それが心地よかった。


「そうだ、こっちがわたしの現実なんだ」


自分に言い聞かせてからメニューを開く。

WORLDボタンを押して、自分のお気に入りのワールドを表示する。

夜の世界だ。

どこまでも水面が広がっているが、中央に無機質な白いグランドピアノが置かれている。

漆黒の闇とオーロラのコントラストが美しい夜空にはこの世の全てを照らしてくれるような月があった。

落ち込んだときはここに行くと決めている場所だ。

自分しか入れない「invite only」でインスタンスを立て、すぐさま世界に飛び込んだ。



目の前に広がる絶景。

わたしだけの世界。

コントローラーを持った手を広げて空を仰ぐ。

中央のピアノは現実世界の夜乃の電子ピアノとMIDI端子でつながっている。

現実でピアノを弾けばこの「世界」でもピアノの音色が響きだす。


鍵盤に手を置いてピアノを弾く。

3つの音の連なりがゆっくりと始まる。

ベートーヴェンの『ピアノソナタ14番 月光』。

重々しく暗いテーマが夜空に溶ける。

弾きながらまた泣いた。

世界の美しさが身に染みる。

でも今日1日で受けた「現実世界の痛み」を払拭することはできなかった。


「泣いているの?」


ふとした声にかなり驚いて演奏をやめた。

…どうして。他の人は入ってこれないはず…

慌ててワールドの表示を見ると「invite only」ではなく、誰でも気軽に入れる「public」になっていた。

「public」とはいえ、ここはわたしくらいしか来ないワールド。

初心者が迷い込んだのだろうか。

…失態だ。早く立ち去ろう。


「きれいだね」


声がした方を見ると、ふわふわの尻尾と猫耳を揺らしながら拍手している小柄な美少女アバターがそこに立っていた。

ブルーのフリルがついたリボンとカチューシャを身につけていてお人形さんみたいだった。


「きれい。君の演奏。

悲しい曲は悲しい気持ちのときのほうが心に来るもんだよ。君は今悲しいんだね?でも演奏はキラキラしてる。音が悲しみを表現してる。

もっと聴きたい。僕はずっとこの音楽が聴きたかった」


「初対面で馴れ馴れしい。ボクは自分の気が向いた時しか弾かない」


絶対に自分のためにしか弾かない。

あの夜、そう決めたのだ。

夜乃はボイスチェンジャーで声を変えているため、相手にも目つきの悪い少年が噛み付いているようにしか見えないだろう。


「だいたいあなたに音楽の何がわかるの。

知ったような口を聞かないで」


「ん?音楽のことなんて知識もないしわからないよ?でもそう感じただけ。ただひたすらきれいだったから」


恥ずかしげもなく言い放つ少女に夜乃は面食らった。

恥ずかしくないのだろうかこの少女は。


「それにほら!」


少女はその場で回ってみせた。

PBでプリーツスカートがふわりと舞い上がったと思った次の瞬間、


華麗なステップを踏み出した。


それは全てを照らす月の下で行われた舞踏会のようだった。

上半身は月を仰ぐのに、下半身はしっかりと心臓の鼓動を捉えて離さない。

ふんわりと揺れる尻尾にどきりとした。

手を交差させ、足を高く上げ、跳ねたと思うと開脚したまま着地した。


とても楽しそうに、踊ったのだ。

初めて見るフルトラッキング、VRダンスを間近で見て夜乃は興奮を抑えられなかった。


「すごい!すごいよ!!!めちゃくちゃかわいい!!!」


んふーとドヤ顔をしてその人は小さな声でありがと、と言った。


「わたしダンス間近で見たの初めて!!

VRでこんなことまでできるんだ!」


「すごいでしょ?なんでもできるんだよこの世界は」


ほんとに魔法のような世界だと思った。


「ねぇ、なんで急に踊ったの?」


夜乃が率直な質問をぶつけたら、少女からはまた当たり前のように答えが帰ってきた。


「君が僕のダンスに惹かれたように、僕も君の音楽に惹かれたの。知識がなくてもわかるよ君の音楽がきれいだってこと。だって僕たちは同じ表現者でしょ?」


心から言っているんだと思った。

わたしには見つけられない「そのときに必要な言葉」をこの人は簡単に口にするのだ。


「だから君が心から悲しんでいることもわかる。音が泣いていたから」


「別にボクは泣いてないし…」


「だからさ、君が楽しい曲を弾けるようになるまで、ダンスしない?」


「え?ダンスって…」


「僕と一緒に踊ろうよ」


夜乃の言葉を遮ってその少女は言った。


「心が躍れば、身体も楽しくなるよ。

毎日ストレッチとダンス。それだけで心踊るんだから!

そして心が踊った君の音楽をいつか僕に聴かせてよ!」


「でもボクやったことないんだけど…」


「いいから!音楽に合わせて身体を動かせばそれはもうダンスだよ!」


その人はわたしだけの「夜の世界」でわたしには「知らない世界」を教えてくれたのだ。


「僕はa0。アオでいいよ!君は?」


「…夜乃」


「よろしくね!よるの!」




静かな漆黒の真ん中で、わたしはアオと踊る約束をした。






              



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