第21話 マーラの試験農場
撒いてから二週間。温室で育てている苦瓜が小さな目を出した。堅い殻を持ち上げて懸命に伸びようとしている。丸みのある双葉だったのに、もうギザギザの本葉が顔を覗かせている。
マーラはじっくり観察しノートにメモをした。それからぶどうのツタを這わせようと温室の駆体からロープを下げて伸びやすいように脇目を欠いていた。
そこへ、突然のマーキュリーの訪問にかなり驚いた。最近何かしら話がありそうで呼びつけられては世間話をした。なのに今日は呼び出されることもなくマーキュリー自らの訪問。マーラは意外すぎて急いで小さな椅子をマーキュリーに差し出した。
「用があればこちらから出かけたのに…何か…有ったんですか」
「二人きりで話がしたくてね。大事な話だ。お前の人生を左右する。話さないでおこうと何度も思ったけれど、選ぶのはマーラだという事を忘れてはいけないからね。
お前の人生を無駄なものや意味のないものにしてはいけない。私はそれだけを願って後見人を務めている。やりたいようにお前の父親の意思を継いでここで働くのも良い。でも、もう一つお前が選ぶべき道がある。もちろんそれも断ったって私にはなんの問題もない。難しい関係もしがらみもないからね。自由にしたら良い」
「な、何のことなのか突然かしこまって、私の人生って…」
「これはお前のお父さんの遺言書だ。20歳になったら渡してほしいとお父さんから託された。だが、まだ20歳には早い。私もその歳までは静かに成長を待ちたかった。でも、心も身体も読んでいいくらいに成長した。もう渡すべきだと思う。読んでみるかい。まずはそこから始めようかな」
「父の遺言書…があったんですね」
「ああ、まだ小さなマーラには見せられなかった。あの日お父さんを亡くした時、お前が10歳の時。賢い子だったけれど遺言書を読むには早すぎる。私が預かってマーラの成長を待つことにした。15歳、20歳どこかでけじめの着く日が来たら渡そうと…それがいつか、考えてみてもそれが気になって、いつもこの手紙が心に引っかかる。もう少し我慢しようかと思っても我慢できなくなった。もう良いんじゃないかって、それで出かけてきたよ。一緒に考えようかと思って、ちょっと早まったかな。
でも、もうマーラは大人だ。読んでもいいと判断した」
受け取りながらマーラは涙を流した。父からの言葉。突然いつもの平気な自分が無くなってあの時の寂しい気持ちが蘇った。
「マーキュリーおばさまは、中身を知っているんですか?」
「いやあ封したまんまだ。開けてないよ」
お父さんの…マーラはその手紙を抱きしめた。そこに父がいるようで懐かしかった。20歳になったら…それをこんなに早く。マーキューリーおばさまが自分のことを認めてくれているようでそれも嬉しかった。
読まないことも出来る。ホントのその年になるまでもう少し預けておいても良いと思う。でも、マーラは自分の運命を、マーキューリーに預けて生きてきた。そのマーキューリーから渡された手紙だ。その与えられた資格を行使してみようと思った。
マーラへ
マーラ、小さなお前を残していく私を許しておくれ
お前が生まれた年にお母さんがなくなって、二人きりになってから10年
沢山の人がお前を育てるために心を注いでくれた
今立派に成長したマーラのことを母さんに胸を張って報告出来るよ
マーラが継ぐべき遺産はマーキュリーに託していきます
ブドウ栽培の特許や醸造の特許、お前が大人になる頃にはお前を助けるだけのもの になっていると思う
それから、マーラ。お前にはお父さんもお母さんもいなくなってしまうけれど、エリーには親戚がいます。その人に会えるかどうかはマーラ次第だね
いっぱい努力して農場の役に立つ人間になって下さい
この手紙がマーラのお守りになるようにお母さんの名前も書き記しておきます
フレディ エリー
「おばさんこれ?」
「何が書いてあるんだい」
マーラは黙って手紙を差し出した。
「ふ〜ん。この文章によるとお前には母方の親戚がいると、心当りは有るかい」
「ええ、少し…」
「お金の事は心配しなくていいよ。私がちゃんとしている。ほんとはお前は大金持ちなんだ」
「まあ、そうなの?それは大変」
マーラが屈託なく笑った。
「その人に会いたいかい」
「いえ、今は会う時ではない気がします。私の人生は始まったばかりで勉強や研究しなといけないことが沢山有る。今はそれをしたいかな。余計なこととは思わないけど上手く気持ちを伝えられるか不安です。
あ、でも、私はこのまま此処にいて良いんでしょうか?」
「もちろんよ。誰もマーラをよその子だなんて思わないわ」
「マーキュリーおばさん、この手紙は20歳の誕生日にいただく事にします。それまで預かっておいてもらえますか」
マーラはそう言って丁寧に畳むとマーキュリーに渡した。
「では、私は退散しよう。時間を取らせたね。いつもの作業を続けておくれ」
天を仰いでお祈りする。マーラに良い事がありますように。この選択が良い方に向きますように。自分の沈黙がマーラの災いになりませんように。
マーラは自分のために用意されたこの温室を眺めて思った。いくら父親がこの農場に貢献したとしてもこんなに手厚く自分のために仕事が覚わるように研究室や温室を用意してもらえるだろうか、マーキュリーは私の為にお金の管理までしてくれている。こんなに恵まれた農場にいられるなんて幸福だと思った。
あの人は私に何でもしてくれると言った。美味しいものを食べさせて綺麗なものを着させて大事にしてくれると…でも一人で生きていかなければならないマーラにとって一番大切なことは自分で何かを生み出せる力を蓄えることだ。父親がどれだけ財産を蓄えてくれたとしてもそれを生かす技術がなければ直ぐに底をついてしまうと思う。この農場でもっと学ぼう。そしていつかマーキュリーおばさまが一人前と認めてくれた時自分の農場を持とう。そう考えるマーラだった。
マーラの考えを聞いて、お墨付きをもらった気分でホッとしたマーキューリーは、このまま知らん顔してマーラの20歳までは過ごせることにニヤニヤしていた。あのテッカー婦人をどう欺くかどんどん知恵が湧いてくる気さえした。
昨日まで実は戦々恐々としていた。頭の切れるマークに相談してもはっきりしなかったことがこれほど簡単にスッキリするとは、改めてマーラの成長振りを有り難く思った。
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