第6話
スポーツはやっぱり素晴らしいと思う。
嶋田は色々俺に喋りまくった。いつの間にか陽菜の話題は終わったが、次は俺について、その次は嶋田の両親への愚痴、あとは推しのアイドルの話などをして、かなりスッキリした様子である。
そしてその分、俺はヘトヘトだった。
だがそういう時こそ好きなモノが際立つ。放課後俺は、先輩方があれやこれやと質問責めしてくる前にさっさと準備を終え、自主練習を始めた。遅れて他の部員達が来た後も、既に体が暖まっているにも関わらず無言でアップに参加し、全体の練習が始まってからは誰よりも大きな声で気張っていた。急に俺がやる気を出した事で皆んな最初は戸惑っていたが、段々と俺に引っ張られる形でいつもよりも身の入った練習となった。
やっぱり俺はサッカーが好きだ。ダラダラするなんて勿体無い。今からでも全国を目指そう。
「ただいまー!」
「お帰りー」
声がするが母さんは出てこない。出ては来ないがいつも通り、声で俺の様子を確認している様だ。だから俺もいつも通りに元気良く声を出したのだが、今日は素、である。いつもよりも疲れているハズなのに、いつもよりも、爽やかだ。俺の今朝の予想は当たっていた。
「今日のご飯なに?」
「ごめん、まだ出来てないの」
珍しい。
「今朝頑張りすぎちゃったみたい。ちょっとお昼寝して気づいたら夕方」
なるほど。
「毎日早起きしてるんだし、たまには良いじゃん? 取り敢えず先に風呂入るから」
「ああ! お風呂も沸いてなかったわ! お父さん居ないから気が抜けたみたい」
「良いよ良いよ。俺が洗うから」
「涼太、ホントに今日は機嫌が良いのね?」
「いつもでしょ?」
「いつもよりも」
——いつもより?
夜はいつも気をつけていたハズだが、そんなに違うのか。やっぱり部活は本気でやるべきなのかもしれない。
風呂を洗い終わると夕飯が出来ていた。いつもよりも簡素な食事だ。ご飯と豆腐の味噌汁と焼いた魚の切り身。それでもちゃんとした食事なので文句もないし不満もない。
「ごめんね、時間がなくて」
「良いって。いつも色々作るの大変なんだから、俺と二人の時くらい気を抜いた方が良いよ」
母さんの俺に対する気遣いには気づいていたつもりだった。しかし嶋田の話を聞いて、俺が思うよりも大変だという事がわかった。それに、自分が恵まれている事も知れた。
なんだかんだで今日、嶋田と話せて良かったのかも知れない。
夕飯を済ませた俺は、風呂に入った。
自分で洗った風呂は、いつもよりも気持ち良い気がする。きっと今日もぐっすり寝れる事だろう。きっと明日も爽やかな気分で始まるハズだ。
目を瞑れば自然と眠くなる。これは自然の法則なのだ——。
映像が頭に浮かぶ。
沢山の仕切りがついた机がその部屋に、びっしりと並んでいる。仕切りの中にはそれぞれ一台ずつのパソコンが置かれ、沢山の人達がそれに向かい合っている。どうやら何かの仕事の様だ。
——ああ、これは夢だ。昨日と同じタイプの夢。
昼間は夢の事なんて覚えていなかったのに今は鮮明に思い出せる。俺が男女の「先見えぬ恋路」のスタートを決めた、あの夢を。男女というか男子女子。
視界が一人の男性にズームした。そういう所も昨日と同じである。ズームされたのは父さんと同じくらいのオッさんだ。
映像がオッさんの顔から手元に移る。キーボードを叩くのを辞めたその手は、マウスの隣りのスマホを取った。更にアップされてロック画面が点く。自動的に解除された。顔認証だろう。
幾つか通知が来ているが、親指が一番上をタップする。メッセージが表示された。
〝晩御飯どうする 遅くなるなら作らないけど〟
絵文字も使われていない淡々としたメッセージだ。内容から考えて、たぶんこの人の奥さんだろう。
——もうすぐ仕事終わりか?
スマホ画面の暗い部分で反射している灯りは、パソコンや蛍光灯のものだけではなく、今が夕方である事も示していた。
『分岐です。彼はこの後真っ直ぐ自宅に向かいますか? それとも別の場所へ向かいますか?』
また文字だ。映像が止まる。これも昨日と同じ——というか早いな。昨日はもう少し時間が経ってから現れた気がする。
さて、どうするか。きっとこれも俺が選ぶ事になるだろう。
普通に考えれば真っ直ぐに帰る。
でも別の場所という選択肢もある——別の場所ってどこだ?
俺は興味をそそられたが、この人には帰りを待って夕飯を作ってくれる人がいるのだ。食事を準備するのは大変だという事を俺は今日、嶋田のお陰で改めて理解できた。なんというか、早く帰らせたい気持ちがある。
「うーん……じゃあ真っ直ぐ帰るで!」
俺は制限時間を待たずに答えを決めた。
夢が再び動き出す——と思ったら、いきなり場面が切り替わった。
さっきのオッさんが外で電話をしている。
辺りはすっかり暗くなってはいるが、それでも空に浮かぶ雲が、沈みかけの太陽によって、紫がかったピンクに染まっていた。
通話の内容が聴こえる。
「——だから今日は会えないんだ。たまには早く帰らないと怪しまれるし。うん、大丈夫。俺の心には君しか居ないから、だから安心してくれ」
——なんだこりゃ。もしかして不倫? それを誤魔化す為に家に帰る、そういう事か?
俺は去年の父さんと母さんを思い浮かべる——。
父さんは浮気していた。そのせいで俺はどちらにつくかの選択を強いられる所だった。理由は色々とあるだろうが、俺から見て原因はどちらかというと、母さんにあったように思える。去年までの母さんは今では考えられないほどに口うるさかった。俺に対しても、父さんに対しても。思いやり、というよりは完全にヒステリーだったと思う。
いつしか父さんは帰りが遅くなり、それを疑った母さんが父さんのスマホを盗み見て浮気が発覚した、というわけだ。
その時は離婚寸前まで行ったが、俺は「離婚して欲しくない」と二人に伝えた。父さんも母さんも好きだったからである。
それから父さんと母さんは俺の見えない所で沢山話し合った様で、今みたいなカタチに落ち着いている。しかし完全に落ち着いてはいない気がする。
だから俺は、気が抜けない。
——オッさんはしばらく通話を続けた後、スマホをスーツの胸ポケットへとしまい、歩き出した。
また場面が切り替わる。
どこかのマンションのドアが開かれた。どうやらオッさん視点の映像のようで、今は足下の革靴が映し出されている。オッさんはそれを脱いで玄関マットに右足を乗せた。靴を並べ直す様子はない。
オッさんの視線が上がり、短い木の床の先にはドアがある。小窓から覗く光が白く明るい。
ドアが開くと正面にカーテン、右手につけっぱなしのテレビが映る。すぐに視線は左へと移り、湯気の昇る鍋が見えた。視界の右端のドアが閉じられて行き、少しずつ後方へ消える。
その時——突然視界が左に流れた。
顔を向けた、という感じではなく転んだ、という感じにスライドした。
カーテンが右に傾く。
左の木で出来たフローリングが、視界を止めた。
視線が右へ向き、天井が映る。蛍光灯が眩しい。
そして映像の下から——。
女がこちらを見下ろすように、上ってくる。
エプロン姿の女の上半身が完全に見えた時、その手に持ったものがあらわになった。
包丁だ。
暗い灰色の表面が、違う色で濡れている。刃先の白い部分が赤くなっている事で、血である事がわかった。
女と包丁が近づいた。カメラのズームではない。
髪を振り乱した女が、オッさんに馬乗りになったのである。
包丁が何度も何度も、視界の下方へ振り落とされる。
ぼんやりと光が薄くなり、やがて全体が暗く、フェードアウトして行った。
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