俺解釈三国志
じる
第一話 蒼天すでに死す(延熹九年/166)
1 正月朔日食有
「
食事の終わりに、父が言った。少年は神妙に答えた。
「はい。お爺様に恥ずかしくないように準備致します」
***
夜明け前のうす暗い部屋を、油の燃える炎がゆらゆらと照らす。寝台の上に散る華やかな
少年は左手であごを支えてつぶやいた。
「あーーー、面倒くせぇ」
少年は着飾るのは嫌いな方ではない。むしろ好きである。なにせ小柄で貧相なこの体、派手な袍で大きく見せなきゃ周りになめられるではないか。だが、お洒落も強制されたのでは気持ちが変わって来る。今日の目的からして、派手めの着こなしは許されないだろう。
「もう、親父が行きゃいいじゃねーか!どうせ暇なんだし」
思わず悪態が飛び出す。孝心がない奴と人に聞かれたら後ろ指を指されかねないが、少年の部屋には彼以外誰もいない。着替えを手伝ってくれる婢達もいなかった。
考えてみればお爺様とのお出かけである。とすれば訪問先は相応のお年の高位の方の筈。堅苦しい一日になると気付き、少年は少しげんなりする。だが、父が命じたことである。
「でもなぁ」
なんといっても敬愛する祖父のお供である。
(お爺様のお呼びなら、外すわけにはいかない)
いくら不平を垂れていても、行かないという選択肢はそもそもなかったのである。
少年の普段住んでいる邸宅は
祖父は、少年が生まれるずっと前に費亭侯という爵位を帝から頂いて、この地で隠居生活を送っていた。費亭侯というのは、費亭の住民の何百軒かの家を食邑として下賜され侯国を建てていただいた、という事である。祖父はこの地域の有力者であり、それだけに外出には相応の格式が必要で、その準備も膨大になる。婢達もバタバタ走り回って車に荷物を積み込んでいる頃合いだ。彼女達には少年の着替えを手伝っている余裕がない。そこまで判っていての悪態だった。
しかし一人で悪態をついていても何も始まらない。
少年はいつもより地味だが上質な袍を選んだ。右袖に手を通し、肩の線を合わせたところで違和感を感じて耳を澄ました。
(?)
屋敷の中が思っていたより静かだったのである。
(……バタバタ……なんてしてなくないか?)
今日乗っていく車は南の門前に停めてある筈だ。だから礼物を載せたりの準備なら騒がしいのはそちらの筈。だが使用人達の声が東の庭から聞こえてくる。
少年は左袖にも手を通し、雑に袍を羽織ると、前も留めずに下帯を丸出しの姿で部屋を飛び出した。だらしない格好だが、咎める者も歩いていない。少年はひらひらと袍の裾を翻して家の外へ走り、敷地の東の庭へ出た。
庭には家中の使用人達が集まっていた。彼らは東の空を指さし、口々に叫び合っている。不安げな顔である。困惑の顔である。彼らの指の先には、低く正月の朝日が昇っていた。
「お日さまが!お日さまが!」
「めでたい日なのに……」
「悪いことが起こらねばいいが……」
少年の目にも太陽がいつもより昏く思えた。
不安げな使用人達に釣られ、少年も東の空に手をかざし、眼を細め──
「吉利や。太陽は直に拝むものではありませんよ」
後ろからの、少女の声で少年は止まった。
ふわりと沈香の香りが少年を包む。
「烏に目をつつかれてしまいますよ」
太陽には金色の烏が住んでいるという。
少年が振り向くと、そこには少年の祖父が立っていた。
祖父はすでによそ行きの身なりを済ませていた。宮廷暮らしが長かった祖父は、いついかなる時もきちんと折り目正しかった。祖父のだらしない姿など吉利の記憶にはない。
祖父は吉利の半裸同然の姿を咎めもせず、腰帯から下げた玉環…碧玉でできた美しい飾りを外すと、左の手で少年の右手を取った。
少し皺のあるふっくらした二本の指が、吉利の掌の上に玉環をやさしく載せる。
すべすべとした冷たさが吉利の掌中にあった。
「これを使うといいでしょう」
少女の声で、祖父は言った。
祖父の姓は
にこにこと笑う、ふよふよとした小太りの祖父を、吉利は尊敬していた。祖父を尊敬するのは人として当り前だが、吉利は儒教の義務感で祖父を尊敬していたわけではない。
「環の真中の穴をお使いなさい。この穴を通して太陽の影を地面に映すのです。そう。影の中の太陽が、欠けているのが分かりますか?」
太陽が欠ける現象…日蝕は、古来から不吉なものとされている。三公の政治の欠陥を示すものだとか、天子様の不徳を天がたしなめるものだとか。
だがそんな理屈がなかろうが、太陽が昏く蔭ると人は誰もが不安を感じる。もしかして太陽がこのまま消えてしまうかもしれない。粟が育たなくなり、飢えて死ぬかもしれない。太陽を頼りに生きる生き物が持つ、当然の恐怖感だった。
だが祖父はそのことは意にも介さぬようだった。
吉利は言われるままに玉環を地面にかざした。太陽が玉環の影を地面に落とす。玉環に開いた穴を通った太陽の光が、欠けた丸を影の中に浮かび上がらせる。
「蝕の時は、陽の光自体が蝕まれているのです。目を火傷しないよう、天ではなく地を見るのですよ」
(都で帝の御学友をすると、こんなにも物知りになるのかな?)
吉利は祖父の知恵を尊敬していた。だが吉利が祖父を尊敬する本当の理由はそれでもない。
祖父は費亭侯であり、近隣に住む曹一族を統べる長である。しかし吉利は、他人が陰で祖父の悪口を言っているのを知っている。
彼らは決ってこう言った。
「───あの宦官風情が」
と。
宦官。それを思うと吉利の体はぶるりと震える。宦官がどういうものか。吉利はもう知っていた。
(アレを切られて男でなくなった人の事だ……)
幼い頃は宦官にされる、ということが実際どういうことなのかは理解していなかった。性徴を迎え、そこの使い途を識った今では「宦官にされる」それを思うだけで体に震えが走る。
実際の所、祖父が宦官かどうかを吉利は確かめた事がない。祖父の裸など見たことがないからだ。だがその声、その肌、その風貌が、他家の老爺とはまったく違っているのを吉利は知っている。
そんな恐ろしい出来事を乗り越え、血のつながらない孫の自分を愛してくれる。やさしい祖父を吉利は愛していた。
「はやく着替えておいで」
この愛らしい声で語りかける祖父は、四代の帝の側に控え、宦官の最高位である大長秋として君臨し、今上が帝位につくかすら決めたのだという。
吉利は思う。
帝……天子を決めるのは天命だという。
天命があるからこそ天子と名乗れるのであって、天子に天命がなくなった時、天命を継いだ別の者が天子を名乗れるようになるのだという。
ということは、天子を決める存在とは、天そのものよりも偉いのではないだろうか?
祖父は人に蔑まれる、男でも女でもない宦官だ。にもかかわらず、天より偉くなるとは、どういう事なんだろう。宦官になってなお、天より偉いだけの力があったというんだろうか?吉利は祖父のその力を尊敬し、崇拝していた。
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