第21話 王妃の嘆き

 ドローンが去った王妃の部屋では、アリシアが浮かない顔で窓辺に置かれた椅子に座っていた。

 金細工の彫刻が美しい猫足の椅子は、先王の妃が愛用していたものだ。

 白地に薄いピンクの花模様の張り地はたおやかな雰囲気の彼女によく似合っていた。


 主人がいなくなり、この椅子も危うく処分されるところをアリシアが貰い受けたのだ。

 丸いティーテーブルの上に置かれた色とりどりのお菓子には手もつけず、アリシアは窓の外を見るともなしに見ていた。


 元々寡黙なたちだが、王の毒殺未遂事件以降は周囲が心配するほど塞ぎ込んでいた。

 アリシアが知らせを受けてニクラウスの元へ駆けつけた時には、ニクラウスは意識を失い息も絶え絶えの状態だった。


(どうしてこんなことに。あんなに幸せだったのに……)


 宮廷医たちが寝ずの番をするというのでアリシアは部屋を出たのだった。

 花の間に行くと告げると侍女たちが先んじて休める支度を整えた。

 それ以降、この部屋に篭りっぱなしだ。


 苦しそうに呼吸をしているニクラウスの顔は、アリシアの知らない男の顔に見えた。

 ニクラウスはいつだってアリシアを喜ばせることに情熱を注いでくれた。

 手を替え品を替え、アリシアの笑顔を引き出してくれた。あの優しい夫はどこへいってしまったのだろう。


 もちろんアリシアには分かっていた。ずっと前から気が付いていた。頭の中では警報が鳴っていたのだ。

 モーリンがこの城にやってきてから、すべてが狂い始めた。

 ニクラウスは、モーリンが勧める甘い薬湯を飲み出してからおかしくなったのだ。


 モーリンから漂ってくる、あの胸が悪くなる甘ったるい匂い。

 どうして誰も気が付かないのだろう。

 モーリンに対して鼻をしかめる者が一人もいないので、アリシアも気が付かないふりをしていた。


(ああそうだ――。あの頃私は、ふりばかりしていた……)




 モーリンが出入りするうちに、先王や王妃からも同じ匂いがするようになった。


 「先王の精神状態がおかしい」と言い出したのは、モーリンではなかったか。

 あの気高い王が属国に降ろうなどと。笑わせる。


 たとえ万が一にも先王の乱心が真実だったとしても、王位を退けば済んだ話だ。

 なぜニクラウスが実兄を手にかける必要があった? 

 本当はあの時、王子をお探して譲位すべきだったのだ。


 アリシアの憂慮はスペンサーの来訪で破られた。

 王の毒殺未遂でショックを受け、憔悴している母親を見舞いにきたのだ。


「母上、お加減はいかがですか?」


 ニクラウスの次の王となるスペンサー。

 スペンサーは自分の運命を受け入れ、来るべき日に備えている。


 スペンサーはアリシアの横に立つと、母親の視線の先にある楢の大木を見た。


「あの木――。覚えている? 子どもの頃あなたたち三人は、よくあそこで遊んでいたでしょう」


 もちろんスペンサーも覚えている。だがそんな昔話に付き合うつもりはなかった。


「ヒースリウム王子は今頃どこにいらっしゃるのかしら。お世話をする人間がお側にいるといいのだけれど。あなたは考えることはないの? 本来ならば、ここの主人はヒースリウム王子のはずなのに。どうして誰も探し出そうとしないのかしら」


「母上。王子の捜索はそれこそ手を尽くして国中を隈なくお探ししました。それでも見つからないということは――」


 さすがのスペンサーもその先を口にすることは憚られた。


「それよりも父上の一件が表沙汰になれば国が揺らぎかねません。今こそ有力貴族と近衛師団の更なる掌握に努めるべきなのです」

「そうかもしれないわね。あなたがそう言うのなら、そうなのでしょうね」


 アリシアは楢の木から視線を外せなかった。

 幼いヒースリウム王子は、スペンサーとマクシミリアンによく懐いていた。特にスペンサーに。

 小さなスペンサーが幼い王子を抱き上げる姿は今だに目に焼き付いて離れない。

 我が子は二人とも無事にここまで成長することができた。何不自由なく――。


「あなた。モーリンから甘い薬湯をもらったりしていないわよね?」

「薬湯? 私にそんなものは必要ありませんよ」

「そうよね。若いのだし、薬になんか頼っちゃだめよ」


 アリシアは心ここに在らずといった様子で、まるで独り言のようにつぶやいている。


 甘い薬湯とは何なのか。

 スペンサーはアリシアに尋ねたい衝動に駆られたが、目の前にいるアリシアの心はまだ窓の外を彷徨っている。

 気にはなるが今日のところはそっとしておくことにした。


「母上。今日は顔を見に寄っただけですので。私はそろそろ失礼いたします。どうかご自愛ください」


 アリシアはスペンサーが立ち去る足音をぼんやりと聞いていた。

 心はもう別のことを考えている。

 あの男はどうしているのだろう。北の領地に引きこもってしまい、王都には顔も見せなくなった。


「マルク――」


 マルクへは何度も使者を使わせているのに、一度たりとも返事がきた試しがない。


「あの忠臣がなぜ――」


 アリシアを無視することなど、無礼とも何とも思っていないということか。

 なにせ玉座を奪った男の妻であり、玉座の横に王妃として座っているのだから。



 後悔の炎に身を焼かれそうだった。

 そんなアリシアを再び現実に引き戻したのは、スペンサーと入れ違いにやってきたマクシミリアンだった。


「母上。またこちらにいらしたのですね。たまには庭を歩きませんか? なんなら今からご一緒に。いかがです?」


 マクシミリアンは屈託がない。だが馬鹿ではない。

 宮殿内の重たい雰囲気を感じているからこそ、明るく振る舞っているのだ。


「今日はよしておくわ。お前は元気そうね」

「はい。父上は――」


 マクシミリアンは口に出してから、何と言おうか考えている。


「ええと。父上は、必ずや回復されます! ですから母上も元気を出してください」


 力強いマクシミリアンの言葉にアリシアは思わず笑みが溢れた。

 マクシミリアンは母親を笑わせることができたのが嬉しかったのか、挨拶は上手にできたと自分に言い聞かせて本題の相談事を話し始めた。


「ええと。その。兄上はもうすぐご婚約なさるそうですが。誠にめでたいことで――」


(ええ表面上はね。私は手放しでは喜べないのだけれど……)


「なんというか、その。兄上のお妃選びの舞踏会に、私も呼びたい令嬢がいるのです」

「あら――」


 アリシアは不意を突かれて驚いた。

 マクシミリアンの口から出た言葉なのかと、顔をまじまじと見つめてしまった。


「それで、その――。どうしても出席してもらいたい時は、招待状と一緒にドレスを贈るといいと聞いたのですが。ドレス選びを、その――。ご相談したくて――」

「まあ。お前ももうそんな歳になったのね。それで、そのお相手というのは誰なの?」

「はい。ブーロン卿の遠縁の令嬢です」


(おや、マルクの――。噂に聞いていた孫娘の他にも娘がいたの……?)


「先日お会いした際、な、な、なんというか――。私が失礼を働いてしまったので、そのお詫びもかねて、その――」


 マクシミリアンが顔を真っ赤にして俯いている。

 アリシアは久しぶりに声を出して笑ってしまった。


「うっふっふっ。まあ、ご令嬢に失礼を? それは困ったわねえ。ベス」


 アリシアが若い侍女を呼んだ。


「お前が適任ね。いつもの職人に伝えて、必要なものを取り揃えてちょうだい」

「かしこまりました」


 ベスはマクシミリアンの方に向き直った。


「殿下。それではそのご令嬢についてお聞かせください。まず身長はどれくらいでしょう?」


 マクシミリアンは記憶を探った。


「こ、これくらいだったかな」


 マクシミリアンが自分の額の中程に手を当てた。

 ベスは顔をしかめたが、すぐに笑顔に戻して続けた。


「では、体の幅は?」

「幅? 幅……」


 マクシミリアンは剣を構えるロイドの姿を思い浮かべた。

 体にピッタリと合ったシャツ。細い足を隠そうともしないパンツ姿……。


「ぶっ」


 思い出すと心臓がバクバクと騒ぎ、鼻から血を吹いてしまう。


「し、失礼しました。母上より少し薄いかと」


 マクシミリアンは、この頃ハンカチが手放せなくなっている。


「ああ、ええと。それから瞳の色は綺麗な緑で、王都中を探してもあんな美しいエメラルドは見つからないでしょう。それに日の光を浴びて輝く艶やかなダークブロンドの髪。指でかきあげればハラハラと指を撫でて、こんな風に落ちていくでしょう」


 髪をかきあげる仕草をしながら取り憑かれたようにまくし立てるマクシミリアンに、アリシアとベスは、これは重症だと呆れた顔でお互いを見合った。


「殿下。もう十分でございます。こちらですべて整えますのでご安心ください」

「あ、ああ。よろしく頼む。そ、それでは母上、また」


 マクシミリアンが挨拶もそこそこに辞すると、花の間には女性たちの笑い声が響いた。



 マクシミリアンの妄想の中では、ロイドとマクシミリアンは目が合えば「うふふ」「あはは」と笑い合う仲だ。

 それなのに、なぜかロイドは手紙の返事をくれない。


(まさか思い出すだけで恥ずかしくなり、ペンをとることもできないのか?)


 陶器のように滑らかな肌を赤く染めて、ロイドがモジモジと恥いる姿を妄想すると、「ぶふっ」と鼻血が出る。

 マクシミリアンはハンカチで鼻をこすりながら心配になった。


(俺は本当にひどいことをしてしまった。ひどく傷付けてしまったことを心の底から詫びたい。その責任は取るつもりだ。早く君の笑顔を見せてくれ!)


 マクシミリアンは廊下を歩きながら、ロイドの笑顔を思い起こすたびに「ぶふっ」とか「ぶはっ」などと鼻血を吹き出していた。

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