待ち宵月見酒
鬼倉みのり
第1夜_蛍火ノ中デ
いつも不思議に思うことがあった。
祖父の営んでいる店には、僕には見えない"何か"がよくお店を訪ねてくるのだ。
そんな祖父の店は華やかな街並みから外れた、山の中にある。
家の一角で酒屋と団子屋を営んでおり、僕も店番などを手伝っていた。
その日もいつもと変わりなく客は訪れず、ふわりと飛んで来た風だけが頭上にある風鈴を鳴らして遊んでいた。
初夏の暖かさに加えて爽やかな風、そして心地よい風鈴の音が子守唄になり眠気を誘う。
「あぁ、眠たい…」
さらり、と風が赤茶色の髪を撫でてゆく。
あくびを噛み殺しながら、店の辺りを見渡す。紅い布の掛けられた長椅子にも小さな座敷にも誰の気配もない。
少し眠ってしまおうか。きっと誰も来やしない。来たって声をかけてくれるだろう。そんなことを考えていた。
ふと眠っていたのかいないのか、背後から聞きなれた声がした。
「おやおや、居眠りか夜之介」
微笑みながら優しく問いかけてくる祖父の藍蔵は、今年の春に夜之介をこの家に引き取った。
その理由は夜之介に伝えられていなかったが、なんとなしに感じていた。周りにいる人間を傷つけてしまうからだ。
夜之介が、というわけではない。夜之介をつきまとう何かが襲ってくるのだった。
はじまりはいつだったか覚えていない。
物心ついた頃、夜之介はよく怪我をしていた。
遊んでいると旋風(つむじかぜ)に追い回されて切りつけられたり、突然誰かに突き飛ばされるように転ぶこともあった。
両親は「怪我に気をつけなさい」と諭していたが、徐々に異常 さに気が付いた。
この異常さを祖父に相談すると、御守りを夜之介に身に着けさせた。
とたんに夜之介は怪我をすることが減った。
しかし、その代わりに夜之介のまわりの人間が不可思議な災難に見舞われ始めたのだった。
次第に夜之介は気味悪がられ、周囲から距離を取られてしまっていた。
手に余った両親は、半分押し付けるようにして祖父に夜之介を預けたのだった。
祖父は優しく穏やかな性格だ。だが、時々とても悪戯好きな雰囲気も見て取れる。
そんな祖父は夜之介を引き取る時も嫌な顔を全く見せなかったし、恐れるでもなかった。
周囲の人間との距離感に悩んでいた夜之介だったが、祖父には少しずつ懐いていった。
「お客さんがお見えだぞ。ほれ、こっちへ上がっておいで」
裏山から下りてきた様子の祖父は背に竹籠を背負ったまま誰かを長椅子へ案内する。
居眠りしているうちに誰か来てたのか、悪い事をしたな、と夜之介は思う半面また見えない誰かが来ていたことを悟っていた。
不思議と怖いという気持ちは一切ないが、それが見えない夜之介に対して隠すことなく対応をする祖父を慣れた思考で眺めていた。
祖父が団子を皿にのせて長椅子の上に置く、目をそらしたつもりはなかったが、いつも気がつくと団子が消えて串だけが寂しそうに取り残されている。
「お前にもいずれわかる時がくるよ」
その光景をただ眺めていると、嬉しそうな表情の祖父は夜之介の頭に軽く手を置いてから、お皿の方を見つめる。
「あいつもお前と話をしたがってるしな」
小さく呟いた祖父の言葉が上手く聞き取れず聞き返そうとした瞬間、祖父は夜之介に頬笑むとお皿を片づけに奥へ入ってしまった。
夜之介はただ首をかしげた。
陽も傾き始めてきたころ、祖父に急な用事が出来たらしく、お客さんの元へお酒を届ける仕事を夜之介に頼んできた。
青竹と呼ばれる土地の菊次郎おじさんにお酒と祖父から預かった封筒を渡して代金を頂いて帰ってくる、というものだ。
「お客といえども顔見知りだからお前も大丈夫だろう」
祖父は簡単にそう言うと、さっさと急用の元へ出かけて行ってしまった。
青竹の土地はさほど遠いわけではないが、なにしろ夜之介達の住んでいる場所が山の中なので、急いで行かなければ陽があっという間に落ちて、辺りは真っ暗になってしまうのである。
足早に坂をおり、慣れた山道を酒壺を抱えて目的地へ向かう。陽が、惜しむようにゆっくり傾いている間に、
背の高い青竹に覆われた場所にたどり着いた。
一目散に菊次郎おじさんの家に向かうと、小さな竹の門の前で誰かを目で探している人がいた。
「菊次郎おじさん、お待たせしました」
夜之介が声をかけ小走りで近寄ると、少し驚いたその人は嬉しそうにこちらを向く。
「おお、夜之介じゃないか。お前さんが持って来てくれたのか。ありがとよ」
菊次郎は大事そうに酒壺を受け取ると懐を探った。
「そいじゃ、こいつが御代だよ。そうだ、ちょいと待っていておくれ」
嬉しそうに何かを思い出した菊次郎は、慌てた様子で縁側から家に上がると姿を消した。
小さな風が吹きあがり、笹の葉がさわさわと頭上で話し出す。そろそろ帰らないと陽がくれると伝えてくるように思えた。
「すまんすまん、今日家の裏でいいビワがたくさん採れたもんだから持って帰っとくれ」
縁側から飛び出してきた菊次郎から押し付けられるようにビワの入った籠を受け取とると、夜之介はお礼を言って祖父から預かった封筒を渡した。
「待たしちまって悪かったな、気をつけて帰るんだよ。あと、藍蔵さんによろしく言っといてくれな」
菊次郎に別れを告げ、少し離れてからもう一度大きく手を振って夜之介はまた足早に帰路についた。
空が赤紫色に染まり、遠くで鐘の音が響きだす。
急いで歩いていたが薄暗くなっていく空を見上げ、まずいと思った夜之介は小走りで山道を駆け上がった。
辺りが暗くなったからなのか、進んでもまだこの場所か、まだこの場所かと気持ちだけが急いで焦りを募らせる。
息を切らして立ち止まると、大きく息を吸い上げた。辺りを見渡しても暗い木立があるだけだ。それにまた不安と焦りを覚えるのだった。
冷や汗がタラリと前髪から頬へ流れた。
「どうしよう、陽が落ちた。明りを、持ってくるんだったな」
ぽそりと呟いてから、暗い夜道には慣れているのだから焦る必要はない、と自分に言い聞かせる。
「まぁ、下手に急いで帰って足を滑らせて落っこちたんじゃ話にならないしな。知ってる道なんだから焦らなくても・・・」
冷静さを取り戻し、ふと後ろを振り返ってから、前を見返す。何かがおかしい。
いや、僕はこんな道知らない。近道で通る道じゃない。いつもの青竹からの帰り道じゃない。なんで?どこで道を間違えた?どうやって戻ろう、いいや、どこまで戻ればいい?
一瞬にして頭が真っ白になって疑問だけが駆け巡る。落ちつけ、落ちつけ、大丈夫だ、大丈夫。
でも…どうやって帰ろう。
一度、菊次郎おじさんの元まで戻るか。
いや、戻れる保証はない。
それならこのまま進むか、いや、それも帰れるとは思えない。
前を見ても、後ろを見ても暗い木立と山道が続いている。
何箇所か分かれ道があったからその場所で間違えたのだろう、ならそこまで戻るか、でもどの分かれ道まで戻ろうか?
落ち着きを取り戻しつつあった鼓動が、また早まり呼吸が荒くなる。
とにかく落ちついて考えよう。
きっと見知った山道だ。ただ暗いからわからなく見えるだけだ。きっとそうだ。そうに決まってる。
考えても考えても、暗闇に包まれていて良い考えが思い浮かばなかった。
雲が、木が、それぞれが厚く覆いかぶさり月明かりさえも消し、心細さを一層強くさせる。
足が力をなくしゆっくりとその場に座り込む。呆然と地面を見つめた。
その時、既に考えはまとまってしまっていた。
「きっともう、1人じゃ帰れない」
暗い木々を見上げても何も解りはしない、急に切なくなって一つ頬に涙が伝った。
暗闇に自分ひとり、きっとちっぽけな存在なのだろう。思考も止まり、疲れた足に力も入らない。
もう、家に帰れることはないのだろうか。
ふと、ふわりゆらりと1つの小さな光の粒が目の前を漂った。
「蛍か。君、もしかして僕を勇気付けてくれてるの?」
夜之介は寂しそうに微笑むと、近くで川が流れている音に気が付いた。慌てていたせいで聞こえなかったのだろう。
「川の近くだったんだ。でも川の一体どのあたりにいるんだろう」
どちらにせよ長い川だ。川の傍だと分かったところで帰れなどしない。わかったところで何の意味もない。
「お前は、迷子になる前に家に帰ったほうがいいよ」
寂しげに声をかけると、目の前iを漂っていた蛍がふわっと頭上を飛び、木の枝に目印にと付けられたのであろう紅い紐へとまった。
すると、その紐がうっすらと光を放ち始めた。そこから飛び立つ蛍が少し空中をさまよってから急に光を失った。
蛍の光を見つめていた目にはそれだけで先ほどよりも濃い闇に包まれる。
また寂しさに包まれそうになるその瞬間、ぶわっと大勢の蛍が舞い上がり辺り一面を照らし幻想的な景色を魅せつける。
小さな光の玉は無数に飛び交い心を奪う。言葉を失った夜之介は先ほどとは別の感情でただ呆然とその景色を見つめた。
他の蛍よりも少し大きい1つの光が、ふわりと夜之介の周りをかすめてから、後方へすいっと舞い上がり点々と木々に結ばれた紅い紐に光を灯して遠くに消えていく。
まるで、帰り道を示す目印のようだった。ゆっくりと腰を浮かし立ち上がると一歩前に足を踏み出す。
「迎えに来たぞ。夜之介」
急に足元から声が聞こえたと思えば、見たこともない小鬼のようなそいつがこちらを見上げ笑いかけてきた。
桃の実二つ分程の大きさで、淡藤色の肌、つんと横に長い耳、小さな紐を襟巻きにして、布を腰に巻いている。
頭のてっぺんのはねた小さな毛と真ん丸い目が愛嬌がある。
奇妙さや恐怖は一切なく、初めて会うのにどこか懐かしさを感じた。
「君は誰?なぜ、僕を知っているの?」
「おいらは、お前さんの所の店の常連で紐解き(ひもほどき)ってんだ。藍蔵様が家で心配してるぞ」
そう言うと紐解きは前を歩きだした。意外と早い足取りに驚き慌ててついていくと蛍たちも一緒についてくるように周りを舞い始めた。
不安に感じていた暗闇を振り返れば風に揺れた葉が「またね」とでも言うように手を振るので、それに頬笑みを返すと前を向いて尋ねた。
「君は、鬼なの?それとも、妖怪? モノの化?」
「妖怪って奴かな。だからっておいらは、別にお前を騙して食おうなんて思っちゃいないぞ」
慌てながら楽しそうに笑う紐解きに食べられるかもしれないなんて思ってもいなかったが、そんな他愛のない話でいつの間にか不安が吹き飛んでいた。
少し早足になった紐解きは、照れくさそうな表情をした。
「おいらはずっとさ、夜之介、お前とこんな風に話をしてみたかったんだ」
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