第45話 一夜の夢の後

 9イニング28人を相手に、無四球無安打の92球16奪三振。

 これでもパーフェクトにならないのだから、野球というのは皮肉なものである。

 ただ直史自身は、完全に平静ではいられなかったが、必要以上の衝撃も受けなかった。

 ラストバッターが振り逃げというのは、過去にもあったことだ。

 あの時は試合にも負けてしまった。

 ただこちらは、本当に必要なパーフェクトであるのだけは違う。


 愕然とする迫水を、ベンチは交代させる。

 直史は思わず天を仰いだが、起こってしまったものは仕方がない。

 その様子を見ていた悟は、これはチャンスでは、と思ったりもした。

 間違いなくこのショッキングなパーフェクト未遂は、直史の精神にダメージを与えているはずである。

 そして先頭打者に戻ってきたので、これが出塁してランナーが二人になれば、悟がホームランを打って逆転という試合展開になる。


 だがそれは甘い夢であった。

 いや、最後の一人でパーフェクトが消えたのだから、直史にも少しはダメージが残っていると考えてもおかしくはなかったのだが。

 直史は悟の目の前で、16個目の三振を奪って試合終了。

 今季二度目のノーヒットノーラン達成であった。


 試合後のインタビューは、ひどくセンシティブなものになる。

 当然ながらノーヒットノーランは偉大な記録だ。

 しかしながら九回二死までパーフェクトをしながら、まさかのキャッチャー後逸でパーフェクトを逃す。

 崩れ落ちたのは直史ではなくムラ……迫水であり、蒼白な顔のまま交代していった。

 直史としてはもう、終わったことである。

 なのでフォローはしないといけない。


 インタビュアーも困ってはいたが、直史としては説明をしなければいけない。

「最後の一球は、サインの球種を投げようとしたら、ボールに指がかかりすぎて、予想外にライフル回転がかかって変に落ちてしまいました」

 内心ではさすがに、最後の一球でパーフェクトが途切れて、憤る気持ちはある。

 これはただの、今までに達成してきたパーフェクトなどとは、全く価値が違うからだ。

 それでも今さら迫水を責めて、時間が戻るわけではないことは分かっていた。




 ロッカールームで土下座をしている迫水を見て、さすがにうんざりとする直史であった。

 他の選手たちは、どうすんのこれ、という顔をしているが、ミスはミスでもうどうにも出来ないのだから、謝ったら後は活かすだけである。

 プロになるような選手というのは、失敗を活かす前向きさと、失敗に引きずられないタフなメンタルが必要になってくる。

 相棒のメンタルケアまでするのは、ちょっと自分の仕事ではないなと思う直史。

 

 コーチ陣を見てみると、そっと視線を反らされた。おい。

 直史としても終わった試合のことで、いつまでも引きずっていられない。

 手ごたえは感じたのだから、次を考えるしかない。

「土下座して時間が戻るなら、そりゃいくらでも土下座させるけどな」

 直史は極めて理性的な人間であり、メンタルも切り替えは早い。

「終わったことなんだから、後はどう次に活かすかだ。みっともないから落ち込むなら一人になって落ち込め」

 感情を出さないところが、直史の直史たる所以である。


 ただこの言葉は、本心でもあるのだ。

 迫水のやったミスは、現象だけを見れば一つのパスボールだ。

 それは他のキャッチャーでも普通にあることだし、おそらく平均と比べても迫水のキャッチング技術は、そこそこいい方なのだ。

「俺の高校一年の夏、甲子園のかかった決勝で、組んでたキャッチャーがパスボールしたせいで負けたんだけどな」

 果たしてこの逸話は、どのくらい知られているのか。

「その場では大泣きしてたけど、すぐに秋に向って切り替えてたぞ。そいつは結局、大学時代俺のチームを、唯一リーグ戦で優勝させないことに成功した」

 これはもうちょっと説明しないと、分かりにくい言葉かもしれないが。


 直史の進学した早稲谷は、その八度のリーグ戦において、七回の優勝を果たしている。

 だが一度だけ優勝できなかったのは、ジンが作戦を立てた一度である。

 もちろんそれは、こちらの大きな采配ミスもあったが、その隙を逃さないしたたかさがあったのだ。

「そいつは今、高校野球の監督して、もう三回も全国制覇やってるぞ」

 学校が名門でバックアップが強いからというのもあるが、それだけでどうにかなるものではないだろう。


 実際のところ、直史だけではなく大介までもが、高校野球で大活躍したのは、ジンの影響が大きい。

 一年の時から作戦はほとんど立てていたし、セイバーが訪れたのもジンの縁があったからだ。

 本人の選手としての存在は、キャッチャーとしてはともかくバッティングがとてもプロのレベルではなかった。

 だが日本だけではなく世界の野球の歴史を見てみても、キーマンになっていることは分かる人物だ。


 どちらにしろ迫水の失敗は、迫水が自分で消化するしかない。

 直史はもう今日の試合は忘れて、次の試合を考えている。

 それはもうネットなどでは叩かれるだろうな、とは思う。

 だがそういった批判を浴びるのも、プロとしての仕事であるのだ。




 直史は基本的にネットはあまり使わない。

 もちろんこの現代社会において、完全にそれから離れることは不可能である。

 しかし特定のBBSやSNSなどに関しては、よほど何かの情報が必要でない限り、見たりもしないのだ。

 だいたいネットの情報は、一次情報がどこか欠けている部分がある。

 マスコミの報道ほど巧妙でも悪辣でもないが、一部を切り取ることはあるのだ。


 確認するまでもなく、迫水は大きく叩かれているらしい。

 らしいというのは直史が、わざわざそんなことを確認はしないからだ。

 直史の身近な人間も、そういったことを注進してくる人間はいない。

 先発完投の次の日は、軽くストレッチなどを行ったりする。

 ただ昨日の試合は、中盤から明らかに、異常な状態になっていたのも、直史は理解している。


 あれはいったいなんだったのだろう。

 かつての周囲の状況が全部把握できる、トランスと直史が表現していた状態。

 ゾーンに入ったというのとも少し違う気がして、言葉遊びかもしれないが違う言葉を使っていた。

 だが昨日のあれは、そんな無理もしていなかった。

 投げ終わって一日が経過しても、頭痛や五感の異常はない。

 体の方も変な筋肉痛などはない。


 いや、あれが引退するまでの完全な全身コントロールの状態だったのだろうか。

 時間が前過ぎて分からないというのはあるが、投げた瞬間に失投に気づいた。

 あれをもっと意識的にやれるようになれば、投げる前にスルーになるのではないか。

(いや、意識的に出来るものじゃないと思うが)

 結局のところ、あれはいったいなんだったのか。

 ゾーンでもトランスでもなく、また何か適当な言葉を当てはめて、あれを目指すべきではあるだろう。

 副作用を今のところ感じないというのも、ありがたいことではある。




 直史の限りなくパーフェクトに近いピッチングは、敵と味方に大きな影響を与えた。

 三連戦の最終戦、先発の三島は直史以外で初めて、今季のレックスとしては完投勝利。

 九回を108球で12奪三振の1失点と、見事な内容であった。

 なお一点だけ取ったのは、悟のタイムリーヒットである。

 あれだけ封じられても、まだ精神が死んでいなかったことは驚きであるが、ノーヒットノーランをされたからと言って、次の日に引退してしまうわけにもいかないのが人生なのである。

 それに彼は、しっかりと挫折を経験してきた。

 中学時代に故障し、野球進学の話が全て消えたことに比べれば、ただの一度の敗北。

 その程度なら誰だってあるだろう。


 レックスはとりあえず、迫水の精神的なショックが問題である。

 人間、何が起こってもとりあえず、生きていかなければいけないことは間違いない。

 散々に敗北したタイタンズがそうであるように、パーフェクトを台無しにした迫水としても、プロ野球生活はこの先も続いていく。

 さすがに第三戦は、他のキャッチャーがスタメンのマスクを被ったが。

 翌日は移動日で、広島へ向う。

 そしてブルペンでは、しっかりとピッチャーと組むのだ。


 直史はこの遠征には帯同していない。

 どのみち投げるのは、完全にローテに入っているからだ。

 あるいはシーズン終盤、ペナントレースを争っていれば、ローテを変更することもあるだろう。

 だが年齢を理由に調整のため、完全に自由行動を許している。

 それで遊び回るのでもなく、逆におそらくチームの練習よりも、過酷な課題をこなしている。

 少なくともコーチ陣の中では、豊田はそれを把握していた。




 過去の直史と現在の直史は、肉体の状態が完全に違う。

 いくら若く見えるし、数値上は若いと言っても、やはり柔軟性が一番違う。

 脆く固くなっているのは、否定できるものではない。

 あとは皮膚感覚は鈍くなっているし、回復力も充分ではない。代謝がそもそも鈍っているのだ。

 そういった点から、スルーの投げ方も以前とは変えなければいけない。

 それがたまたま、あの一球で上手くいってしまった。あんなタイミングで上手くいっても困る。


 基本的にはストレートを投げる感覚と変わらない。

 指をどう縫い目に引っ掛けるのか、それが問題だ。

「全身をどう使っていくか、それによって球速も上がると思うけど」

 トレーナーの言葉によると、直史の今のフォームは、やはり下半身への負荷は大きいらしい。

 それは復帰する前に、SBCで自分でも調べてある。

 だが当時は使えない球種が多かったので、スタイルに合わせたフォームが必要であった。

 そこから生まれたのが、現在の基本のフォームなのだ。


 フォームを戻したことによって、球種が戻ってくる。

 ただ復帰を決めた時には、なぜ戻ってこなかったのか。

「筋肉が不足していたんだと思いますよ?」

 トレーナーの言葉は客観的である。

「このまま元に戻した方がいいと思いますか?」

「それはちょっと分かりませんが、肉体への負担ということだけを考えるなら、元に戻した方が無理はないと思います」

 なるほど。 

 そして戻すということは、カットボールもしっかり投げられるということ。

 つまりスルーが復活してくる。

(微妙な感覚が問題なんだがな)

 次の試合もまた、色々と試してみたくなってくる。

 



 直史がいくら気にしなくても、迫水の自責の念は強い。

 そういう時に体育会系の男はどうするのか。

 単純な話で、悩むことが出来ないぐらいに疲れて、泥のように眠ることを望むのだ。

 首脳陣としても、完全にバッティングにまで影響して調子を落としたキャッチャーは、理由が明白であるだけに、一度リセットする必要を感じている。

 最短期間で戻って来い、と二軍に落とされる。

 まあ最後の最後でパスボールのパーフェクト失敗というのは、キャッチャーにとっては究極の屈辱ではあるのだろう。


 二軍に落とされたという迫水であるが、これは別に懲罰でもなんでもない。

 そもそも遠征時に直史が投げない時は、二軍のグラウンドを使っているからだ。

 基本的に室内練習場を使うが、バッターを相手に投げることもある。

 平然と味方の新人たちの心を折っていくのは、折れた骨こそ治れば強い、と思っているからだ。

 もちろんこれは俗説で、そんなことはないとも知っている。


 バッターを打ち取ることを極めれば、難しい球でホームランを打たせることも出来る。

 直史は引退後、アマチュア指導資格を回復してから、母校の練習でバッティングピッチャーをやっていた。

 これを逆に極めて行けば、どうすればどういう球が打たれるのかも分かる。

 直史は勘違いされるが、ロートルではあるがベテランではない。

 プロ生活八年目の、中堅選手なのだ。


 情報を頭に入れていって、対戦する初見のバッターに対しても、適切に対応出来るようにする。

 データを大切にして、しかし最後は直感を信じる。

 先日のピッチングで、悟を完全に許容範囲に抑えることが出来た。

 あの、日本代表としては頼れる、しかし対戦相手としては厄介なバッターを、ランナーに出さなかったことでまた、経験値が少し増えた気がする。

 そして経験値がたまればレベルが上がる、というのが世界の法則であるらしい。




 一度二軍に落とされた迫水は、もちろん登録抹消もされているため、10日間は一軍に戻れない。

 これはその間に、直史のボールを捕れるようになっておけ、ということである。

 ただ直史にしても、まだスルーは安定して投げられない。

 しかしだからこそ、キャッチャーとしては最低でも前に落とすことは出来ないといけない。

 パスボールによるパーフェクト未達成は、もうそれこそ一生言われることであろう。

 それでもこのままプロの世界から逃げ出すというわけにもいかないのだ。


 一日に100球ほど、直史は投げ込みを行う。

 投げすぎであろうと迫水はずっと思っているのだが、毎日この数というわけでもない。

 納得出来るまで投げなければ、技術は劣化していくのだ。

 それにこの半月ほどの間に、球速が増している。

 150km/hはまだ出ていないが、迫水の体感的にはあと5km/hほどは速い。


 直史の球速は最高で156km/hが出たと言われるが、それはおそらく機械の計測のブレで、154km/hが最高だと言われている。

 安定して投げるのは152km/hまでで、普通にNPBの中でも速い方だ。

 ただMLBの特にリリーフ陣は、160km/hぐらいは出るパワーピッチャーが揃ってきている。

 NPBでも150km/h台というのは珍しくない。

 だが直史は、ストレートで投げる時は安定して、九回でも152km/hは投げていたのだ。




 この間の試合は、バッターが当てやすい148km/hのストレートと、空振りする144km/hのストレートの二つが主にあった。

 そしてこれを投げ分ける、フォームの違いがわずかにあったと思う。

 わずかに踏み込みを遠くすると、リリース位置が低いところになる。

 そこから投げた高めのストレートは、フラットな軌道でミットにまで届く。

 このあたりを錯覚すると、内野ゴロと三振の二つに分けられるのだ。


 普通のピッチャーならフォームを二つ安定させるなどということは不可能だ。

 そして直史は微妙に、フォームを調整もするのだ。

 投げる腕がサイドスローに近くなると、それだけリリース位置はまた低くなる。

 スピードは出ないが三振は奪える、不思議なストレートが生まれるというわけだ。

 もっともスピードと三振は関係ないとは、星の王子様がはるか昔に証明していることである。


 普通の一流ピッチャー五人分ぐらいの力を、一人に詰め込んだような人だな、などと迫水は思ったりする。

 球速もこれはこれで充分であるし、大きな変化球はカーブやスライダーがあって、特にカーブの使い方は頭がおかしい。

 ムービング系が新たに復活して、特にツーシームがフォーシームストレートよりも速い。

 ストレートの投げ分けでゴロを打たせて、カウントを稼ぐことも両方が出来る。

 そして魔球と呼ばれる、沈むように伸びていくボール。

 カットボールとの投げ分けが出来るなら、これだけでどれだけピッチングの幅が広がることか。

 迫水はこれでほぼ、復活状態だと考えているが、直史はもちろんそんなことは思っていない。

 安定したスルーが投げられて初めて、もう一つの魔球が復活する。

 スルーチェンジだ。

 



 直史の投げるボールの中で、最もバリエーションが多いのがカーブである。

 スピードに変化量にスピン量など、調整して投げ分ける。

 復帰後のしばらくは、このカーブとストレートのコンビネーションだけで、なんとかしてきた。

 それが球種を取り戻すごとに、軽々と飛ぶようにマウンドでボールを投げることが出来る。

 好きなボールを好きなように、キャッチャーのミットに向けて投げる。

 するとバッターは思い通りにミスショットする。


 ただ1mmの微妙な差で、打球の方向は大きく変わるものだ。

 ミートした瞬間の1mmの差は、パワーもスピードも方向も大きく変わる。

 そして都合よく内野の間を抜けていく、というものだ。

「チェンジアップですか」

「チェンジアップの原理から考えるなら、究極のチェンジアップだ」

 あまり自信満々なことなどは言わない直史であるが、これについてはほぼ断言していい。


 チェンジアップの特徴は、タイミングをずらすことと落差である。

 ただその落差の変化は、投げた瞬間にボールにパワーをかけないか、スピードが乗らないようにパワーをかけることの二種類。

 だいたい握り締めていたら、普通のストレートよりは、スピードは出ない。

 しかしスルーチェンジは、ライフル回転をしながらも、失速するように回転がかかってくる。


 もちろんこれもスピードがかかっていないため、落差のあるボールになる。

 直史の投げるボールの中では、一番空振りを取れる確率が高い。

 だがもちろん、それは事前に組み立てたコンビネーションからなるものだ。

 スルーと同じピッチトンネルを通って、スルーと同じ回転。

 だが鋭く伸びるのではなく、ブレーキがかかって落ちる。

 キャッチャーはより、キャッチングが大変になる。




 昔もよく言われていたのだが、今の直史の力はまた、オーバーキルに近い状態になっている。

 野球とは勝敗を競うものであって、ピッチャーのパフォーマンスはその一環に過ぎないはずである。

 それはバッターのホームランなども同じだが、スポーツであればスーパープレイが発生するのは当たり前のことだ。

 ホームランは一過性のもの。

 対してピッチャーのピッチングは、球速や奪三振はともかく、一試合を通してのパフォーマンスとなると、もっと舞台的なものとなる。


 グラウンドが舞台で、マウンドが主役の立ち位置。

 明らかに他より高い場所は、主人公のみが許された場所であろう。

 演劇に例えるのは、そのピッチングが試合の最初から最後までと考えれば、確かに適当なものであるのかもしれない。

 もっとも近年は完投するようなピッチャーはかなり珍しい。

 それが直史の場合は、完投するのにプラスして、何かの価値が付いてくる。


 試合の途中であっても、家では風呂に入ったり、終盤は駐車場の渋滞を考えて、試合を途中で離れる観客は少なくはない。 

 そういった楽しみ方を、直史のピッチングは許さない。

 相手のバッティングだけを封じるのではなく、観客や視聴者にさえも、なんらかの覚悟を求めるのが直史のピッチングで、それはまさに呪縛であろう。

 迫水は単なる視聴者として見ていた時は、さすがにイニングの交代の時に、席を離れることがあった。

 しかし直史の場合、1-0に近いロースコアで決まる試合が多かったため、そんな離脱も短時間で済ませる必要があったのだ。




 迫水としてはキャッチャーとしての姿勢を、誰かから学びたい。

 もちろんレックスには迫水の先輩であり、同じポジションを競って狙うキャッチャーがいる。

 ただそういった人間に尋ねても、まともな返答は戻ってこないだろう。

 そこで質問する相手は、豊田になったりする。


 豊田は直史の最初のNPB時代と、完全に活躍時期が被っている。

 また高校時代にはライバル校のピッチャー同士であり、NPBでは先発とセットアッパーとしてレックスを支えていた。

 クローザーとしての数字もそれなりに残している豊田であるが、セットアッパーのリリーフとして活躍した期間の方がずっと長い。

 実働期間は短いと言われるリリーフピッチャーの中では、それなりに長い期間を投げたものだ。


 ただそんな豊田にしても、直史のことなどを訊かれても困るのだ。

 同じピッチャーではあるが、それはネズミと象を同じ哺乳類とくくるぐらいに、乱暴な基準であるだろう。

 しかし迫水としても、自分のやらなければいけないことは分かっている。

 そしてそれは、かつての直史の相棒たちを知ることにつながる。


「樋口か」

 レックス全盛期を支えた名捕手、と言ってしまえばいいだろう。

 実のところ直史が在籍する以前に、レックスは黄金期を迎えていたのだ。

 ただあれのことを、どう説明していいのか。

 確かに大学時代や、国際大会までも含めるならば、二人がバッテリーとして組んだ期間は長い。

 直史にとっては間違いなく、一番たくさん組んだキャッチャーであるだろう。

 豊田が最初に樋口を知ったのは、中学時代である。

 もっともその時は、さすがに名前を知っただけであったが。

 初めての対決は、高校時代であるが、その時の豊田はベンチ入りすらしていなかった。

 樋口は一年の夏から、既に正捕手を務めていたのであるから。




 樋口の経歴としては、中学時代は地元では有名、という程度のキャッチャーであった。

 近い地域に上杉兄弟の所属するシニアチームがあったため、有望な選手はそちらに入っていたのだ。

 樋口がそちらに入らなかったのは、単純に会費の安さなどによる。 

 ただ上杉が高校では野球をやめるか、と思っていた樋口を春日山に誘った。

 地元の有力者の息子であり、また高校時代の多くのことを援助してもらった樋口は、上杉に従って春日山に入学。

 ただ上杉の最後の夏、樋口の最初の夏は、甲子園の決勝で敗れている。


 五季連続で甲子園出場を果たし、二年の夏では全国制覇を達成。

 新潟県勢としては初めての快挙で、地元の上越市ではすごい騒ぎになったらしい。

 同じ時期、上杉は既にプロの世界で、新人ながらセ・リーグを蹂躙していた。

 そんな樋口は大学進学前にも、プロ入りの調査書を全球団からもらっている。

 だが志望届は出さず、特待生として早稲谷大学に進学。

 ここで六季連続を含む、七度のリーグ戦優勝を果たし、特に最終年にはバッティングでも首位打者に輝いている。


 直史と組んだのはこの大学の前、U-18のワールドカップにおいてである。

 白石大介のためのワールドカップ、などとも言われたこの大会は、現在でもなお伝説になっている。

 さすがに20年以上も前のことなので、迫水にとってはリアルタイムではない。

 ただその映像はあちこちに残っていて、ある意味この年を象徴するような国際大会になった。


 プロ入りも大学卒業間近までは考えていなかったようだが、結局は志望を変えてプロ入りしている。

 だがこの時も、志望の球団以外なら社会人に進むと当時でも珍しい公言をしており、かなり問題になったようだ。

 一位指名でレックスに入って、シーズン途中にスタメンキャッチャーの故障によりマスクを被る。

 前年五位のレックスが、Aクラス入りする原動力となった。

 そしてこれは、翌年に佐藤武史がやはりレックスに入ったことにより、ついに日本一にまでチームを押し上げる。

 同時期に豊田は、既にレックスの一軍のピッチャーにはなっていた。


 そこからのレックスは、ペナントレースを六連覇、また佐藤直史が入団してから三年間を三連覇と、完全な黄金期を迎える。

 そしてこの黄金期は、直史がMLBに移籍してからではなく、樋口が移籍した後に終了した。

 もちろん同時期に武史も移籍したことも、その大きな影響にはなっているだろう。




「高校、国際大会、大学、日米大学野球、WBC、NPBとチームを勝たせるキャッチャーであったことは間違いないな」

 MLBに移籍後も、故障してかなりのシーズンを棒に振った年は除けば、直史と組んだ四年のうち、二度ワールドチャンピオンとなっている。

 故障を除けばあと一回ワールドシリーズには進出しているので、その影響力の高さは計り知れない。

 実際にアナハイムは、樋口ともう一人の主力が脱落したところで、ポストシーズン進出を諦めたのだ。

 直史はその時点では、まだ無敗であった。


 実績がものすごいのは分かった。

 言われなくても樋口は、WBCなどではほとんどの試合でスタメンマスクを被っており、だいたいベストナインに選ばれている。

 そんなキャッチャーと比べられるのかと迫水は慄いたが、それでも自分は目指さなくてはいけないのだ。

「いや、無理無理」

 豊田はあっけらかんとそう言った。

「俺もピッチャーに、ナオやタケを目指せなんて言わないから」


 実際問題、技術的なものやフィジカル的なものは、特にフィジカルにおいては樋口は、かなり独特な性質を持っていた。

 肩の強さは甲子園で、自分でもピッチャーとして投げているのが記録されている。

 実際にバッテリーを組んだが、直史よりも樋口の方が、大学初期ではボールは速かったはずだ。

 バッティングはずっと三割半ばほどを打っていたが、それに加えられるのが走力である。

 キャッチャーがトリプルスリーをするという、かなり稀な記録をNPBでは残している。


 だが豊田がここで評価するのは、あくまでもキャッチャーとしての樋口。

 キャッチャーとしての特徴は、明らかにそのリードの上手さと言えるだろう。

 ピッチャーに合ったリードが出来るキャッチャーであった。

 豊田などは基本的に、ストレートとフォークで押していくのが、ピッチングスタイルの基本。

 それに対してはさほど、難しいことなどは言ってこない。

 だが直史と組んだときは、その要求の難易度の高さに呆れたものだ。

 ボール半分をずらして当たり前であったり、カーブをこの高さからこの角度でとか、そこまで求めていいのか、ということを平気で要求していた。

 そしてそれに普通に応えてしまうのが直史であった。


 もしも「さすがにこれは無理だろう」などと遠慮しているリードがあるなら、それを要求してしまえばいい。

 直史ならばそれに応えてくれるはずだ。

「あの人、シーズン序盤よりも、さらにコントロール良くなってませんか?」

「やっぱりそう思うか?」

 ある程度の筋肉が戻ってきたせいか、スピードにではなくコントロールに力を使うことが出来るようになっている。

 次の迫水以外のキャッチャーと組む試合で、そのピッチングを客観的に見るべきであろう。

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