第29話 ハーラーダービー
直史は必ずしも最多勝を狙っているわけではない。
狙っているのはあくまで沢村賞で、過去の歴史を見れば最多勝を取っていなくても、沢村賞に選出されているピッチャーはいる。
まあとある年度までは、沢村賞の選考には、ある種のバイアスがかかっていたとも言えるが。
20勝したピッチャーが、投手五冠まで取ったのに、なぜか選出されなかったあれである。
直史としては15勝ほどもして、負けを二つぐらいにしておけば、あとは防御率や投球イニングに奪三振などで、受賞できると思っていた。
だが六試合目の登板の前日に、ライガースの畑が五勝目を上げた。
ハーラーダービーでは直史よりも先に、五勝目となったのだ。
各年の受賞者を見ても、勝ち星の数というのは、他の選考要素と比べても、かなり重要視されているとは思う。
畑は完投が一試合もないので、その点でも直史は有利だとは思う。
ただ沢村賞は二人同時受賞というのもあれば、該当者なしということもあるのだ。
また短縮シーズンを除いては、登板できた試合の数も、選考の対象になっているような気がする。
絶対に故障できないと、分かっていたはずなのだ。
なのに一つ、ローテを外れたような形になっている。
次の試合は完投を重視して、そして勝ち星をつけたい。
直史はそう思うのだが、相手はタイタンズである。
タイタンズ戦は直史が今年、唯一失点した試合である。
それもホームランだけではなく、ヒットもそれなりに打たれていた。
まだ感覚が戻っていない、というのも原因ではあったろう。
しかし復帰明け二戦目、直史はこの試合はなんとしても勝ちたい。
(勝ちたいと執着しすぎると、逆に冷静さを失う)
己にそう戒めながらも、直史は調整を続けるのであった。
第一戦の先発は、二勝二敗とここまで五分の成績の上谷。
もっとも彼の実力から考えれば、ローテーションをしっかり守って、五分の成績なら充分なのである。
貯金を作っていくのは、正直なところ直史だけでも充分なぐらいだ。
15個ぐらいも貯金を作れば、あとは五分五分で行けるだろうなどと、最近は考えるようになってきた直史である。
(この試合に負けたら、貯金は1だけになるのか)
それはさすがに厳しいだろう。
タイタンズ相手となると、打撃戦を覚悟しておいた方がいい。
現在のところ、ライガースに次ぐ二番目の攻撃力を持つチームだ。
ただ打力はあるのだが、それが案外つながらないことが多く、またエラーの数が多いのが直史の価値観では厳しい。
レックスのさほど強力とは言えない打線であっても、それなりに点を取っていける。
アウェイとはいえ同じ東京なので、そこそこ味方のファンの声援もある。
直史はこの日、登板予定はないが、ベンチには入っていた。
タイタンズのベンチなどを、直接見ておきたかったのである。
このカードで順位の変動がある可能性は高い。
(ライガースは先発にもリリーフにも、一人のピッチャーに頼っている部分がないからな)
とにかく打線全体の攻撃力の高いライガースは、それこそ大介が長期離脱でもしない限り、そうそう落ちてこないとは思っている。
するとシーズンMVPはおそらく、大介のものとなるであろう。
ただ沢村賞に全力で挑むのではなく、MVPのルートも残しておきたい。
それが直史の、都合のいい考えであったりする。
試合はある程度予想の通り、ハイスコアゲームとなっていった。
ただ上谷はそれなりにヒットを打たれるのだが、二遊間で上手くダブルプレイを取って、タイタンズのチャンスを潰したりした。
緒方と左右田の二遊間は、若い左右田がショートという花形のポジションを奪ったのに、緒方はチームプレイに徹して、それを鍛えている。
緒方は昔からそういう選手で、だからこそ周囲からも信頼されているのだ。
これは勝てるかな、と直史は感じた。
その予感を後押しするかのように、上谷を援護する迫水のスリーランホームランが飛び出したりもした。
ここのところプロのレベルで分析され、やや打撃成績が落ちてきていた迫水だが、ここで一発を打つあたり、やはり獲得は正解であった。
ホームランはある程度意外性のあるバッターが打った方が、効果が大きいかもしれない。
大介などは満塁の状態でも、何度か敬遠をされたことがあるのだ。
あの高打率を考えれば、それも無理はないと思えてしまうが。
ほどほどに得点し、ほどほどに失点する。
それが繰り返されていく中で、スリーランホームランの一打は大きい。
そしてリードした状態で終盤に入れば、レックスは勝ちパターンのリリーフ陣を使うことが出来る。
タイタンズが少しは反撃してきても、レックスもさらに追加点を取る。
最終的に9-7でレックスは逃げ切る。
ただリリーフ陣は、それなりに疲れたかもしれない。
最後のアウトを取って、レックスの勝利が確定した瞬間、直史は内心で決意していた。
おそらく他の誰もが気づかなかったであろうが。
(明日は完投して勝つか)
そんな決意をしても、ほとんどのピッチャーは不可能である。
もちろん直史は、その例外的なピッチャーである。
目覚め方で、その日のおおよその調子は見当がつく。
本日の直史は、普通だ。つまり問題がない程度の調子ということだ。
ホテルの朝食バイキングでは、普段通りの食事を摂る。
スポーツ選手の食事事情は、同じ年齢の一般男性とは異なる。
直史は特に食事については、チームのトレーナーからもメニューを示されている。
平均よりもずっと、朝からカロリーを入れていく。
天気がいいので散歩などをして、腹ごなしの運動をしておく。
この週末はデイゲームなので、すぐに本番の練習がやってくるのだ。
ホテルからはそのまま、タクシーでドームへと向かう。
別に自分で運転してもいいのだが、投げる日は少しでも神経への負担をかけないように、他人に運転してもらうのだ。
ドームではクラブハウスに入るのだが、試合を待つ観客が既に、列をなして入場を待っていた。
昨日はこんな様子は見えなかったので、やはり投げるピッチャーが違うと、こういう事態にもなってしまう。
直史が自分で運転しないのは、車が何かを知られているので、ファンの追跡を避けるためでもある。
自分の先発の日には、他のことで集中力を妨げられたくない。
ロッカールームで着替えて、ミーティングを行う。
首脳陣の見立てとしては、今日は勝てる日である。
直史が投げるのだから、味方打線が一点取れば、それでセーフティリード。
そんなわけはないはずなのだが、そんな認識が広がってしまっている気がする。
もちろん直史がそんなことを言い出したはずもないのだが、これは昔から言われていたことで、掛け声のような応援歌のようなものまで存在するのだ。
事前に既に、情報の分析は終了している。
昨日の試合からも、直史は情報の更新をしている。
タイタンズは負けたものの、悪い負け方ではなかった。
その打線を封じなければいけない。
東京ドームは直史にとって、四番目に経験したプロの球場である。
最初は高校野球の地方大会で、マリンズスタジアム。
そして次が甲子園で、神宮大会で神宮球場も経験した。
東京ドームを使ったのは、大学選抜で日本代表と対戦した時だ。
あまりに圧倒的な内容を残してしまったため、例外措置でWBCのメンバーに加わることになってしまったのが、もう20年も前のことになる。
実は直史はまだ、公式戦では経験していないプロの球場がある。
なにしろ前は二年間しか、NPBにはいなかったからだ。
交流戦で経験したのは、埼玉ドーム。
あとはオープン戦も含めていいなら、仙台と福岡でも少し投げた。
日本シリーズでも一年目の埼玉戦はともかく、二年目の福岡戦ではホームでしか投げていない。
ただ経験した「プロの」球場ということなら、途端に多くなる。
なにしろMLBには、30ものチームがあったのだから。
そういった経験のある直史にとって、東京ドームはホームランは出やすくても、それなりに投げやすい球場だ。
マリスタもそうであるが、野天型の球場は風の影響を受けやすい。
そういったものがあると、フライを打たせることが多くなっている直史にとっては、風に流されてエラーになったりするかもしれないからだ。
東京ドームも色々と、改修の話は出ている。
確かにそれはそうかもな、とプレイしていても思う。
ただ建設時から細かい改修をしているため、本格的な改修となると、踏ん切りがつかないものであるらしい。
ピッチャーとしてはホームランの出にくい球場にしてほしいが、ドームは野球の試合以外でも使用されるので、なかなか大規模改修をするのも難しいのだろう。
試合開始直前、ドームは大満員である。
20年前に比べると観客席は増設された球場が多いが、ドームもその例に洩れない。
ただそれをやっても、今年のチケットの販売はとんでもないことになるだろう。
もっともライガースのコアなファンは、年間パスを普通に持っているだろうが。
問題になるのはレックスの、特定の日のチケットであろう。
そう、たとえば今日の、直史のもののように。
試合開始前の観客の動きで、ドームが揺れている。
移動やざわめきもであるが、熱量が空気を振動させている。
圧力がドームの空気を高めている。そんな錯覚がする。
果たして何をそんなに期待しているのか。
タイタンズ相手は、今年の直史は一番、投球内容が悪かったのに。
前のスターズ戦を見て、期待しているのか。
この二試合、直史は途中降板ながら、パーフェクトピッチングをしている。
フェニックス戦ではノーヒットノーラン、カップス戦ではマダックス。
そろそろパーフェクトをしてもおかしくない、と過去の実績を知っている観客は待っている。
直史としてはむしろ、NPBのチームの方が、そういった記録を作るのは難しいと思っているのだが。
NPBでの最年長記録は、32歳での達成だ。
もしも直史が達成すれば、最年長記録は大幅に更新されることになる。
最速記録はともかく、最年少記録は全く更新できていなかった直史が、最年長記録を更新しそうなのは皮肉である。
なおMLBまで含めれば、パーフェクトの最年長記録は40歳にまで跳ね上がったりする。
どちらにしても直史が来年もプレイすれば、更新の可能性はあったりする。
パーフェクトの難しさは分かっている。
自分が27奪三振でもしない限り、必ずバックに頼ることになる。
直史はバックを信頼しない傲慢な人間ではないが、人間には必ずミスが出るものだ。
それは自分をも含めてのものである。
ノーヒットノーランは、今年中にあと一回ぐらいはやっておきたい。
年に二回もノーヒットノーランをすれば、選考基準にはないながらも、沢村賞獲得の強烈な後押しになることは間違いないからだ。
五月の上旬のこの時期、重要なのは勝ち星を積み重ねること。
直史の場合は勝ち星を積み重ねれば、自然と防御率が上がっていくし、イニング数も増えていく。
畑が勝ち星で上回っても、完投がなければ直史が勝てる。
この試合は失点してでも、球数を節約して完投勝利を目指す。
それが直史のゲームプランである。
一回の表、レックスの攻撃から、試合は早くも動いた。
先頭打者出塁から、進塁してからタイムリーで一点。
そこからホームランが飛び出して、三点のリードをもらう。
状況から判断を変更していかなければいけない。
当初の目的を変更するのは、やってはいけないことであるが。
三点の差があれば、味方のエラーやアンラッキーなヒットを考慮しても、おそらく最後まで投げて勝つことが出来る。
ただタイタンズは前回の試合でも分かるとおり、かなり打線は強力なのだ。
悟の一発には注意した上で、あとは上手くフライを打たせる。
不運なポテンヒットぐらいはあるだろう。
そう考えながら、直史はマウンドに登る。
タイタンズとの対戦は、オープン戦とシーズンで一度ずつ。
もちろん最初にプロ入りした時とは、戦力構成が全く違う。
直史が感じたタイタンズ打線の特徴というのは、大味というものだ。
ライガースと同じく長打を狙ってはくる。
だがライガースと違うのは、ヒットがつながっていかないということだろうか。
チームの戦力は恐ろしく高い。
しかしこの間の試合でも、悟の前にランナーをためることが出来ず、ある程度安心して直史は投げることが出来た。
先頭打者をまず、三振で打ち取る。
今日のストレートの調子で、上手く通用するらしい。
(水上を四番に置いているところが、保守的なタイタンズと言おうか)
MLBだったら二番だな、と直史は思ったりする。
実際に今年のライガースの大躍進は、二番ショート大介にあると思うのだ。
カーブとストレートの組み合わせで、上手く打たせて取ることに成功。
球数も10球とかからず、いい感じのスタートである。
直史が自分自身と戦うなら、待球策を取ってくるだろう。
実際にフェニックスはそれで、直史の球数を増やして、途中でマウンドから降ろすことに成功した。
小さな故障があったが、それでなくても七回で100球を超えていたのだから。
早く相手を打ち取ってしまうと、逆にこちらも早打ちになってしまって、試合のペースが上がっていく。
直史としてはそれは望ましいことと言うか、昔から直史の投げる試合は早く終わるのだ。
初回で三点も取ってしまったので、レックスの野手陣の意識は、どうしても守備の方に比重がかかる。
ただそう意識していても、普通にエラーは出たりするのだ。
無意識のうちに集中しているというのが、一番いい状態であろう。
二回の表、レックスの攻撃は三者凡退。
そしてその裏、タイタンズの先頭打者は、四番の悟からである。
ホームランを打たれても、一点にしかならない状況。
だからこそ実験する余地もあるというものだ。
インハイのボール球から入ったが、腰が引けてしまうことはない。
直史のボールのスピードなら、充分に見極められるというところだろう。
しかしそこに今度は、より力の入ったストレートを投げ込む。
ボールにバットは当たったが、バックネットに突き刺さる。
(想定を超えていたよな)
この結果に直史は少し安心する。
二球続けてのインコースならば、次は当然のようにアウトコースを攻めるところだ。
迫水としても、アウトローいっぱいのストレートを要求する。
(そうじゃないだろ)
それは悟であれば、簡単に予想できる組み立てである。
外に投げてもゾーン内なら、踏み込んで確実に打ってくる。
直史は頷いた。ここで分かっている配球に、あえて頷く。
しかし投げたのは、逆球となるインコースであった。
迫水のリードは基本的に常識的で、ここでは外の球を使うだろうな、と誰もが思ったであろう。
悟としては外の球か、と少し懐疑的ではあったのだが、直史はあっさりと頷いた。
そして投げられたのは、インコースの逆球。
直史にしてはありえない、コントロールミスと言えるだろう。
もちろんこれはミスではない。
悟のバットは、このインコースのボールを振っていった。
だが当たったボールは弱い打球で、セカンドのほぼ真正面。
軽く捌いてアウトにしていた。
(対角線ばかりがピッチングじゃないぞ、と)
直史が使ったコンビネーションは、ほぼ同じコースを少しずつ変えるというもの。
これもまた定番の組み立ての一つであり、今回はそれが効果的であったのだ。
厄介な先頭打者を打ち取り、二回のピッチングも好調なスタートである。
直史の投げたストレートは、広義の意味でのチェンジアップであった。
変化はほとんどなく、しかし少しだけ落ちて、タイミングも合わない。
悟としては駆け引きで負けた、と思っている。
ただベンチで確認したところ、やはりキャッチャーの構えたところとは逆に投げていた。
(あの人に限って逆球なんてないだろうしな)
味方のキャッチャーまで含めて、騙してのけたのだろう。
二回の裏もランナーは出ず、三回の表へ。
レックスが一点を追加して、4-0とスコアが変わる。
だがこれで満塁ホームランを打たれても、まだ同点という状況に変化した。
直史は三回の裏、三振と内野ゴロ二つで省エネピッチング。
チェンジアップで上手くゴロを打たせることに成功していた。
重視することの一つに、完投がある。
そのために必要なのは、球数を抑えることだ。
今日はここまで、一人頭三球以下でバッターをアウトに出来ている。
タイタンズのバッターが、強打者が揃っていると言っても、チームバッティングが出来ていない。
シーズン143試合の中の、一試合であると考えるのは、プロとしては正しい態度だ。
ここで直史を打つためだけに、スタイルを曲げてしまうというのは、シーズンを通じては悪い方向に作用するかもしれない。
そういったことを考慮しても、あまりに無策ではないのか。
おそらくまだタイタンズは、直史のデータを収集している最中なのだろう。
前回は神宮での試合であったが、今回はホームの東京ドーム。
集められるだけのデータを集めるのが、タイタンズ分析班の仕事のはずだ。
ただそれをするならやはり、もっと打線は粘っていく必要があると思うが。
なんだかどのチームも中途半端ではないのか、と感じる直史だ。
もっともそれはMLBの、徹底したデータ収集と分析が、頭の中に残っているからかもしれないが。
4-0というスコアであると、もうレックスの打線は完全に、守備に意識が向いているようになる。
特にここまで直史は、球数も完投ペースで投げている。
ミスター完投と言ってもいい直史だが、ここ二試合は途中負傷と故障明けで、完投していない。
なのでここいらで完投してもらって、リリーフ陣も休ませたい。
明日はリリーフでつないでいく予定の日なので、ここで直史がリリーフを使わずに完封してくれたら、それだけでかなり助かるのだ。
四回の裏も三振と内野フライで、呆気なくスリーアウト。
凡退が続いていくのは、タイタンズからすればもっと焦るべきだ。
チェンジアップは別だが、カーブもストレートも、打ち上げさせるのに向いている。
緩急でタイミングを崩せば、打ったボールは弱いものになるのだ。
だが直史はまだ、自分のピッチングに満足していない。
もっと自由に三振を奪いたい。
計算した方向にゴロを打たせて、さらに少ない球数で内野フライを打たせたい。
ピッチングを磨いていくというのは、もっと奥深いものなのだ。
今の自分のピッチングは、かつての技術に遠く及ばない。
蓄積してきた貯金で、どうにか封じていると言えるような状態。
大介を想定すれば、運よく打球が野手の正面にでも飛ばない限り、とても打ち取れるものではない。
(ホームラン以外ならOK、というわけにもいかないからな)
そう思うと悟との勝負は、都合のいい前哨戦とも言える。
大介はMLBでの栄光を捨ててまで、NPBに戻ってきた。
もちろん目的は直史と対決するためであるが、もしパーフェクトをしている状態で対決すれば、あえて打ってはこないだろうな、と直史は思っている。
戦闘民族に思えるが、大介は人の命に敏感である。
過去にスランプに陥った時はいずれも、誰かの死や命の危機に直面している。
言葉にはしないが、そういう雰囲気があるのだ。
当然ながら一度目的を達成したら、全力で直史を叩き潰しにくるだろうが。
この力が限定された状態で、大介と対戦しなければいけない。
あるいは対決までにどれだけ、復調していくかが問題である。
限界まで投げていけば、その限界を引き上げることが出来るかもしれない。
しかし同時に、また故障するかもしれないという危険もつきまとう。
軽度の故障で済んだのは、運が良かったとも言えるだろう。
そして五回の裏、先頭打者の悟との対決がやってくる。
前の対戦では、おおよそは抑えたタイタンズ打線であるが、悟にはホームランを打たれている。
またあの試合はペナントレース初戦で、自分もまだペースが掴みきれていなかった。
合計で五本のヒットを打たれた前回と違い、今日はここまで一人のランナーも許していない。
悟を抑えれば、少なくとも勝利は見えてくる。
左のバッターボックスに入る悟。
直史はその構えを見て、重心がどうかかっているか、見えるようになってきた。
やはり実戦を重ねていくごとに、肉体はともかく感覚は戻ってきている。
その戻ってきた感覚が悟の危険性を強く警告してくるのだが。
(やっぱりいいバッターに育ったもんだな)
多くの日本人がMLBに行く中で、日本に残ったスター。
この10数年のNPBを凝縮したようなバッターと、直史は対決する。
直史が届かない存在だと、今の悟は思わない。
それは前回のカードで、ホームランを打ったからというだけが理由ではない。
ここまでに投げてきた五試合を分析したところ、コンビネーションの幅が狭まっているのだ。
ただ駆け引きというか配球は、今の持っている球種で、充分に考慮されている。
ちょっとおかしなストレートを凡打してしまったのが、その代表的な例であろう。
衰えたとは思わない。
ただブランクがあるのは、絶対的に間違いないのだ。
(ストレートのおかしさは、あの引退試合で確かなことだった)
映像はあったので、後から分析すること自体は可能であったのだ。
だがカメラの映像を解析する限りでは、変化球の種類が少ないのは間違いないのだ。
直史の特徴としては、変態的なまでの変化球の多さというものがあった。
カーブをあそこまで使い分けるピッチャーは当時からしていなかったし、カーブ以外の球種では魔球と呼ばれるジャイロボールも使っていた。
ツーシーム、スイーパー、チェンジアップなどとそれぞれが、普通のピッチャーなら決め球になるようなボールであった。
だが今は、カーブとストレートの組み合わせに、チェンジアップを混ぜていくということをしている。
あとはスライダーとシュートで、一つの球種の使い分けが見事なのは、カーブぐらいと言っていいだろう。
前の打席では、あれはチェンジアップだったのだ。
ストレートを内角に二度も見せてから、三球目も内角ストレート。
ほんのわずかに変化するチェンジアップであったと考えるなら、凡打したのもおかしな話ではない。
次に狙うべきは、やはりストレートなのか。
(先頭打者だから、まずは出塁だけど)
ここまでパーフェクトに抑えられているという事実を、まずは認識しておくべきだ。
初球、直史が投げたのはシンカーである。
見逃したらストライクになるかどうか、微妙なコース。
しかし悟は簡単に見逃して、ストライク判定にも動揺などは見せなかった。
バットを振るときは、しとめるときと決めているのか。
(嫌な見逃し方だな)
狙い球をしっかりと絞っていて、それをしとめる。
四番としてのバッティングを、悟はしようとしているのか。
甘く見られたものだとは思わないが、そんなことをしている余裕はあるのか。
ここまでパーフェクトに抑えられていて、球数も投げさせることは出来ていない。
まずはヒット一本か、粘ってフォアボールぐらいはしないといけない。
だから今のコースは見逃したのか。
(シンカーは追い込まれるまで手を出さないつもりだったのか)
だがおそらく二つ続ければ、踏み込んで打ってくるだろう。
外のボールを投げたので、次は内のボールを投げたい。
ストレートをインハイに厳しくというのもいいが、それはこの後の打席まで含めれば、まだ取っておきたい選択だ。
カーブを投げるのは、スピードのあるタイプでないと、今のシンカーとの球速差が活かせない。
いや、どうせなら変化の差を見せておくか。
普段はあまり使わないスライダー。
これを今度は、懐を突くように内角に投げる。
(これで行こう)
迫水も了解のサインを出し、直史は頷いた。
スライダーは外角から大きな弧を描いて、左バッターの内角へ。
ボール球になるような変化であったが、悟は自然とそれに手を出していた。
打球は低く、一塁線を抜けるかといったところ。
だがそこで、一塁ベースに直撃したのであった。
ファーストがボールを確保にかかり、直史も一塁カバーに走るが、悟の足の方が早い。
間違いのないヒットであったが、単打で済んだのは幸いであった。
バッターとピッチャーの格付けは、結局のところ対戦成績よりは、二人の間の実感のみで判断すべきなのかもしれない。
直史はパーフェクトを破られたが、それで集中力が切れるということもない。
ただ評価は確定しておいた。
今の悟は自分と同格か、それ以上の選手であると。
しかしヒットが一本でもでてしまえば、直史はそこからピッチングを変えることが出来る。
基本的には打たせて取る、というピッチングが行われていく。
三打席目の悟は、外野フライに倒れた。
ただストレートで、内野フライまでに打ち取ることは、どうやら難しいものであると直史は理解する。
運がなければ上手く打ち取れない。
パーフェクトを達成するためには、厄介なバッターである。
MLBにもスラッガーはいたし、ヒットメーカーもいた。
ただこいつの今のバッターとしての性能は、それを上回るものだと言える。
(勝てる試合でよかった)
タイタンズの打線は、悟以外はほぼ沈黙している。
もう一本、ポテンヒットが出たため、どのみちこの試合はパーフェクトは出来なかっただろう。
ただヒット二本の無四球に抑えたため、悟に四打席目は回らない。
そして九回まで、直史は投げ続ける。
ボール球を投げることは、前よりは多くなった。
それでもストレートで空振りが取れるので、球数はそれほど嵩まない。
九回を投げてヒット二本96球。
今シーズン四試合めの完投で、直史は五勝目を記録したのであった。
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