エースはまだ自分の限界を知らない[第九部]REBIRTH エースの帰還
草野猫彦
一章 復帰への道
第1話 復帰への道
来年には40歳になる男が、プロの世界に復帰する。
そのためにはやらなければいけないことが複数あり、そしてそれは平行してやらなければ間に合わないことであった。
まず大前提として、家族の理解が必要だ。
愛する妻は説明もなく頷いてくれたものの、愛する娘は説明すると表情を消して不機嫌になった。
直史にとって家族は、誰もがかけがえのないものである。
だが弱い対象にはそれだけ、力をかけてやらなければいけない。
長女である真琴は、女の子だが既にある程度、分別のつく年齢になっている。
だからといってないがしろにするわけではないのだが、直史の持っているリソースというのは限られてくるのだ。
家庭内のことに関しては、まだ幼い次男や、病弱の長男も含めて、瑞希が世話を焼く。
こんな難しい家族になったのは、果たしていったい誰のせいなのであるか。
次男は望ましく完全な健康体であったが、それがかえって腕白で、瑞希の体力を削っている。
母に育児は助けてもらったりするが、もう金はあるのだからある程度、シッターに任せるという選択もした。
家事は外注できる金があるのなら、ある程度は外注してしまえばいいのだ。
家庭内のことはこれでいい。良くはないがこれ以上は求められない。
次にするべきは己の錆付いた体を、戦闘用に戻すことだ。
これは真琴に付き合って、およそ毎日走っているので、最低限の体力は維持されている。
だがプロの世界に復帰するとなると、最低限では不充分だ。
事務所を早退して、ジムやセンターに通ったりする。
そして落ちた筋肉を取り戻すのだ。
傷めたはずの右肘は、長期間の安静によって、ほぼ回復している。
ただそれは同時に、衰えているという意味でもある。
腱はそうそう鍛えられるものではない。
筋肉がついていないと、すぐに故障する。
これについては、また治療が必要だろう。
それよりもさらに重大なのは、技術の衰えだろうが。
自分自身のことに関しては、直史は自分の可能な範囲でやるしかない。
だが自分がどうやっても、どうにもならないことがある。
それはどこかの球団に拾ってもらうことだ。
NPB生活はたったの二年。
その二年で、契約で決まっていたこととはいえ、ポスティングを行使してレックスを出て行った直史。
はっきり言ってどの球団からも、印象は相当に悪いであろう。
しかしやはり復帰を目指すなら、まずは古巣から声をかけていくべきだ。
幸いなことに直史は、個人的な関係で、球団スカウトとつながりがあった。
かつて高校時代、バッテリーを組んでいたジンの父である大田鉄也。
一度は定年となりながらも、今度はフリーの立場からレックスと契約してスカウトを続けている。
お宝を発見することの喜びを知ってしまえば、この仕事は辞められない。
実際にトレジャーハンターというのは、既に一生を遊んで暮らせる金を手に入れても、その金を元にまた新たなお宝の発見に乗り出していってしまう。
そして無一文になる人間もいたりするのだ。
鉄也としても直史とのつながりは、持続しておきたい伝手であった。
そもそもMLB引退後のすぐに、レックスの臨時コーチとして仕事はしているのだ。
ユニフォームを着せてもいいぐらいだ、という声もあったのだが、さすがに当時はまだポスティングの経緯を知る者が多く、また直史にも専業でコーチをするつもりなどなかった。
その後には学生野球の指導資格を回復し、完全にプロ野球との接点はなくそうとしていた。
レックスではなくマーリンズの鬼塚の代理人をしたことなども、そういう印象を与えていたのだ。
なので連絡をもらった時は、話の内容に想像がつかなかった。
家族の病気などを理由に、仕事もかなり絞っているとは、オフレコでジンから聞いていたからだ。
そして直接会って話したいと、ちょっとお高い料亭などに呼び出された。
とは言っても向こうが、鉄也の予定を聞いて予約した店なのだが。
MLBで随分と稼いだ、という話は聞いている。
また地元の企業の法務に関わったり、法人の理事などもやっているとも。
なんだかんだで稼いだもんだな、とは思った。
そんな直史が、話があるという。
「現役復帰……」
酒を注がれた盃を落としはしなかったものの、しばらくはフリーズする鉄也であった。
直史は現在で39歳になる。
そして来年のシーズンであれば、40歳だ。
確かにその年齢で、まだ一軍の戦力というピッチャーは、いないわけではない。
しかし多くのピッチャーが、もう引退している。
あの上杉も、さすがに衰えてきているのだ。
元々将来は、政治家を望まれているのが上杉である。
地元のタニマチも多く、神奈川から立候補すれば、無所属のままでも知名度だけで勝てるだろうと言われている。
甲子園で戦った選手の多くは、もう引退している。
プロで一緒であった年下の選手なども、多くはもう球団を去っている。
そんな年齢であるのに、今更現役復帰とはなんなのか。
しかしその理由を聞けば、納得はした。
もっとも聞いたからといって、すぐに請け負えるようなものでもなかったが。
スカウトは選手を獲ってくるのが仕事。
戦力になるならば、あとは特に問題はない。
しかし来年は40歳になる、ブランクのあるピッチャー。
鉄也にしても、即断など出来るものではなかった。
スカウトの仕事というのは、選手の獲得である。
ただ段階を追っていけば、発掘、育成、交渉、獲得、本格育成となる。
実際は育成と交渉については、プロアマ協定で学生に対しては禁止されている。
しかし選手本人ではなく、監督などと話すことによって、育成のための進路を用意したりすることはある。
もちろん表には出ない話だが。
交渉も同じようなもので、監督や選手に影響を与える人物と話し、その進路を用意することによって、将来的な獲得を目指す。
ドラフトのある現在でそんなものに意味があるのか、という考えもあるだろう。
しかしこれは逆指名のあった時代には、ごく普通に行われていたことだ。
既にプロに通用しそうなレベル、あるいはプロで鍛えた方がいいような選手でも、大学や社会人に入ってもらい、ドラフトで逆指名をしてもらう。
このために一人の選手に、最も多くの金が動いた時代でもある。
スカウトというのは要するにそのような、道の人材の発掘と獲得が仕事である。
自由契約となった選手などを獲得するのは、やらないわけではないが本来の仕事ではない。
だいたい自由契約になった選手などは、だいたいがもう球団では通用しないと思われた選手なのだ。
しかし相手が直史となると、また話は変わってくる。
ピッチャーで40歳というのは、それなりにいないではない。
平均的な引退年齢はともかく、長く続いている選手というのは、野手よりも投手の方が目立ったりする。
実際にNPBの最高齢記録などを持っているのは、ピッチャーである。
しかし直史は引退してから、もう五年以上のブランクがある。
高校の後輩相手にバッティングピッチャーなどはしていたことがあるが、それもある程度昔の話。
今がどんな常態かによって、話が出来るかどうかの大前提が変わる。
「一度見せてもらう必要はあるだろうが、球速はどのぐらい出るんだ?」
「今はまだ140km/hにちょっと届かないぐらいですね」
なるほど、確かに衰えているのは間違いない。
鉄也にとっても直史は、特別な存在ではあった。
しかし感情に流れるわけではない。
「スカウトなんていうのは、数年後の選手のイメージを持って獲得するかどうか決めるものだ。その点ではお前さんは、一度はある程度戻せても、どんどん落ちていくだけだろうな」
年齢的にそれは、どうしようもないことだ。
「けれどまあ、単純に年齢自体は問題じゃないし、なんなら育成契約で契約してから、自分の手で支配下を獲得するという手段もある」
それと重要なことは、年俸である。
直史はMLBにおいては、最終的に年に換算して70億円ほどは稼いでいた。
しかし本人は金など問題ではないし、なんならインセンティブという契約で、他は最低年俸という手段もある。
ただこういったことは、全て編成が決めることだ。
鉄也は確かに、これまで多くの選手発掘に貢献をしてきた。
直史がポスティングでMLBに移籍したことを、恨んでいる層もあまりいなくなっているだろう。
だが最終的には、獲得を決めるのはGMなのである。
もっとも鉄也は言わなかったが、佐藤直史という存在には、付加価値がある。
鉄也自身はチームの勝利に必要なのかだけを考える。
しかしGMから球団社長にかけては、興行的な問題も考えるだろう。
直史が通用しようがしまいが、大きな話題にはなる。
それが育成契約の金額で獲得できるなら、儲けものではあるのだ。
鉄也は情報漏れを恐れて、編成部長を通してGMとの三人だけで話をした。
基本的にGMは、球団経営について考える存在である。
正直なところ直史を獲得するというのは、それだけでも充分な広告としての価値がある。
だがその背景となっている事情まで聞かされると、即断できるようなものでないのは同じであった。
当時とはレックスのGMも変わっている。
球団社長も変わっているので、直史に対する裏切られたというような感情はない。
そもそも直史はちゃんと、契約時に移籍の条件について交渉していたのだ。
だからあれは、裏切りではないと考える者もいる。
引退後にはレックスの臨時コーチを務めて、友好関係をアピールもしている。
問題は今も、通じるのか通じないのか、ということだ。
メディカルチェックを受けて、肘の状態を確認することは必要だろう。
また本人も今の段階では、まだ年間を通じてローテを担う体力はない、と正直に言っている。
「ローテーションに入るつもりなのか」
編成部長は、それこそ驚いてしまったが。
この年代の人間は、直史の最盛期を知っている。
いや、本当の最盛期は、MLBに行ってからかもしれないが。
毎試合とんでもないパフォーマンスを発揮して、試合を重ねるごとに伝説を作っていた。
アレに比べたらさすがに落ちると言っても、確かにローテーションに入るぐらいには戻してくるかもしれない。
長いブランクがあったとしても、直史ならばそれをやってしまう。
そんな期待を抱いてしまうのが、佐藤直史という存在なのだ。
「他の球団には話は持っていっていないのか?」
「まずは古巣に、ということでこちらへ。ただあいつの人脈からすると、関東圏のチームならどこでも手を上げるでしょう」
実際は宣伝効果だけで、ペイ出来ると思うかもしれないが。
復帰への道のりは平坦ではないが、途切れてはいないようである。
才能というのは世界を巻き込む。
直史の生き方はその才能の巨大さを考えれば、周囲にはひどく迷惑な有り様をしているかもしれない。
ただ本人に悪気はないし、出来る範囲では誠実に対応し、また我欲のために行っているわけでもない。
牧歌的に生きたいというのを、我欲だというのであれば、さすがに我欲だと言えなくもないのだが。
息子のために、出来るだけのことをやる父親の行動を、我欲とは言わないであろう。
そんなわけで直史としては、古巣のレックスに話は持っていったものの、他の球団にも感触を確かめてみたい。
ただ最初は育成契約でもいいし、それでも直史を獲得出来るというなら、どの球団でも手を上げるだろう。
これは単に一人の選手が復帰をする、というだけの話には収まらないのだ。
直史はそこを理解しているだろうか。
理解しても、それを重要だとは考えないかもしれない。
頭はいいし、他人の感情を慮ることも出来る。
ただ共感力には、ちょっと欠いたところがあるとも思えるぐらいには、長い付き合いになってはいる。
レックスの編成陣は、独自に分析をすることになった。
もちろん先に、直史がある程度通用すると、判断できなければ話は別だ。
「広告塔としてだけでも、充分な価値はあるんだがな」
GMは完全な本音を吐いたりもした。
この場合、直史はひどく合理的であった。
筋は通したのだから、あとは相手がどう思うかは、相手に任せるしかない。
よって他の選択肢も考える。
古巣のレックスはもちろん望ましいが、人事は大きく変わっていて、かつてのチームメイトも多くが移籍したりしている。
ならば地元を選んでもいい。
セ・リーグならレックスの他に、タイタンズも東京で移動しやすい。
だがスターズであってもいいのだ。
出来るだけ移動などで消耗せずに投げることを考えると、やはりセ・リーグではあるが、パならばまさに地元の千葉に球団がある。
とりあえず鬼塚に話を聞いてみたりしたところ、彼は飲んでいたコーヒーを口からこぼした。
「……無理か?」
「……いや、こと野球に関して、ナオさんに不可能はないと思いますよ」
半ばは本気で、鬼塚はそう言っている。
地元の千葉に、直史が所属する。
それだけで球団としては、大きな宣伝効果が生まれるだろう。
実力ではなく知名度によって、そういう評価を受ける。
だが数少ない事情を知る鬼塚としては、冷静に判断する必要もあるよな、と思うのだ。
単純に復帰するだけが目的なのではない。
復帰してその先に、沢村賞だのMVPだのを目指すのだ。
パーフェクトというのは正直、さすがに五年以上もプロで遠ざかっている直史に、出来るとは思わない。
そういう常識的な思考を、全て飲み込んできたのが直史ではあるのだが。
もっと先の、セ・リーグとパ・リーグのどちらが有利なのかを、考えないといけない。
どちらのリーグであれば、本当に直史を戦力として想定するかなども。
セとパでは、ピッチャーにとって投げるだけのパの方が、負担は少ないように見える。
だが逆に考えれば、セ・リーグのチームを相手にすれば、打線の中に一人、弱いバッターがいるのだ。
自分が打席に入って打つことを考えないなら、セ・リーグで投げる方が対戦相手は楽になる。
しかしこれも、また別の考え方はある。
パーフェクトを本当に目指すのか、という視点だ。
セ・リーグで僅差の勝負をしていたら、試合終盤の勝負どころで、打席が回ってきたところに代打を送られてしまうのではないか。
いや、そこまでパーフェクトを継続していたなら、最後まで狙わせるのかもしれないが。
パーフェクトを達成するというのは、あくまでも個人の記録である。
かつての直史であれば、個人の記録を達成することが、そのままチームの勝利にもつながっていたのだが。
「どちらにしろ、取ってくれるかどうかだな」
そのために、今は牙を研ぐのだ。
そして直史の動きというのは、海を渡ったもう一人のスーパースターの動きにも影響する。
昨年、ついにMLBにおける前人未到の、MLB通算800本塁打に達していた大介。
今年のシーズン中には日米通算1400本という、もう人間では更新不能な数字をその人類史に残していた。
『じゃあ、来年はそっちで勝負だな』
「なんでだよ」
思わずそうツッコミを入れる直史であった。
今年の大介はもう39歳のシーズンであり、それでもホームラン王争いのトップに立ってはいる。
ただ昨年の68本、一昨年の74本と比べると、その衰えはさすがに明らかだ、などと言われてきた。
今年はおそらく、60本を切るだろう。
MLB通算11年で、一度も60本を切ったことがないというのも、頭のおかしな大記録ではある。
大介は確かに、キャリアの最後には日本に戻るとは言っていた。
しかし今でも充分に、MLBの中では超一流選手だ。
樹立した記録をいちいち挙げるのは、もう面倒以外の何者でもない。
最年少記録はともかく、最速記録のほとんどを持っているのだ。
『どうせならまだお前が完全復活する前に叩いて勝ちたい』
「いや、ほんと勘弁してくれ」
そうは言う直史であったが、そもそも話をしなければ良かったな、とも思うのだ。
一応大介は、三年契約で来年が三年目。
しかし契約を破棄するオプトアウトの権利を持っているはずだ。
本当に、なんで話してしまったのか。
いや、さすがにオフシーズンになって戻ってくれば、話さざるをえないのではあろうが。
軽率であったのか、と直史は考えたりもする。
いや、どのみち避けられはしなかった。
お互いが、年を取ってしまった。
そうは思いつつも、運命は両者の対決に向けて動き出す。
今の大介に、勝てるとは思っていない直史であった。
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