碧海のマーメイド

プロローグ

プロローグ(1/2)~海洋の怪物~


 セイレーンの声

 それは、ねやの耳元で囁かれる誘惑の吐息のようで、甘く切ない母を呼び慕う産声

 聞いた者の意識を惑わし、周りのすべてを甘美なる夢の幻影へと導く……

 

 ◇◇◇


「黒い島が、動いてくる! 」


 修学旅行のフェリーに乗船していた少年、宮部みやべ修一郎は、船室の窓から、迫り来る巨大な物体を呆然と見つめていた。


 碧海の海原に大小の島々が陽炎のように点在する穏やかな瀬戸内海。

 突然海上に現れた漆黒のドーム状の物体は、荒々しく侵食された岩肌のような外皮に海水を滴らせ、周辺に大きなうねりを起こしながら近づいてきた。


 船は繰り返し汽笛を鳴らして旋回を始めるが、船の十倍以上ある巨大な黒い塊は、容赦なく近づいてくる。

「なんだ、あれは! 」

 突然で想像を絶する事態に周囲の生徒や乗客が口々に叫ぶと、次の瞬間、島のような塊は船に激突し激しく揺れる!

 生徒や乗員の叫び声!


 天井がひっくり返るのではないかと思うような衝撃に体が投げ出され、至る所を打ちつけた。さらに、大きな打撃音が外から響く。


 次の瞬間、通路の窓から宮部は見た。

 窓の外で何かをまさぐるような、大きな赤く丸い眼球がこちらを睨んでいる。


「怪物……」


 足が震えて動けない。

 血のような怪物の巨大な赤い目が宮部を捉えた。

 宮部はあまりの恐怖に震えが止まらず「助けて」と言ったつもりだが、声は出ない。

 そのとき、どこからか歌声が聞こえてきた……ような気がする。


 それは耳からではなく脳髄に直接送り込まれ、鳴き声のようであり、歌のようでもあり、次第に意識が朦朧とし夢のような感覚にとらわれる。

 ただ、どこか悲しげな旋律に聞こえた。



 しばし朦朧としていたが、大きな揺れで意識が戻り、気がつくと、自分のいる場所が揺れながら傾いている。

 一方、巨大な黒い物体は消え去っていた。


 宮部は激しい動悸に胸を押さえ傾いた部屋を出ると、通路の奥の方で海水が流れ込んでいた。そこに、引率の女性教諭、藤森先生が救命胴衣をもって走ってくると

「これを着て逃げなさい」

 そう言って、宮部に救命胴衣を着せ

「他に生徒はいない」

「下の客室にいたと思うけど」 

 藤森先生は頷くと、階段を降りて行った。


 宮部は避難経路に沿って通路を進んだとき、ぐらりと大きな揺れとともに、さらに船が傾き、先生が降りて行った階段へ海水が流れ込む。

 宮部は真っ青になった。

「先生が逃げられない! 」


 そう思ったが、浸水は自分にも迫り、先生の降りた階段は水面に覆われ、自身も早く脱出しなくてはいけない。

 その直後、宮部は生涯忘れられない光景を目にする。


 逃げようとした床に亀裂が入り、階下がわずかに覗けた。そこには、数人の生徒と藤森先生が閉じ込められ寄り添っている。

「先生! 」

 宮部はわずかの隙間から声をかけると、一緒にいた友達が仰ぎ見て

「助けて! 」

「宮部君! 助けて」


 泣きながら口々にさけぶ友達。下に向かう通路はなく、隙間をこじ開けようとするが数センチしかない。

 すると、藤森先生は


「宮部君、ここはいいから早く逃げなさい! 」

「でも、先生」

「いいから早く! 」

 体半分が海水につかりながら、先生は子どもたちが倒れないように抱きかかえている。


 次の瞬間、さらに大きく揺れ、体が投げ出されたあと、振り向くと、覗いた割れ目から海水が噴出している。

「せんせー! 」

 震えがとまらない、この下にいる先生と友達は……

 宮部は頭が真っ白になった。


 ◇

 そのあと、どうなったのか……記憶は断片的で、無我夢中で逃げて、気が付くと海上に漂流し、救命船に助けられた。


 階下で寄り添って震えていた友達と先生の姿が、脳裏から離れない。ひとつ間違えば、自分があそこにいたかもしれない。

 海水に飲み込まれる恐怖と窒息死への苦痛、想像しただけで血が凍る。


 その後、陸に戻ると、怪物が襲った沿岸部は壊滅状態になっていた。

 波にのまれた沿岸の町、散乱する瓦礫の山、異臭ただよう荒廃した街路を、宮部は呆然と家に向かって歩いた。


 初めて死体を目にし、なかには、怪物が食いちぎったと思われる手足の一部が、まるで残飯のように落ちている。泣き叫ぶ人、呆然と宙を仰ぐ人、裸足で死んだ子供を引きずる母親。

 悪夢としか思えない光景に、意識は麻痺してく。


 さらに自分の家もなかった。

 家族で食事をしたり、兄弟喧嘩したりした、あたりまえの生活が激変した。


 なにより最後まで生徒を助けようと抱きかかえていた藤森先生の姿、恐怖で泣きながら助けを求める友達の顔が忘れられない。

 藤森先生には、昨年生まれた子供がいて、遊びに行った時、いとし気にあやしている姿が思い出される。

 さらに、宮部を後悔させるのは


「あの時、藤森先生に階下のことを言わなければ……」


 嘘でも、いないと言うべきだったのかも知れない。

 頑是ない小学生にそこまでの判断は無理だろうが、不用意な言動が人の生死をも分けるものだと悲痛なまでに思い知り、その後の沈着冷静な宮部の戦術は、ここを原点にしていると言っても過言ではない。


 藤森先生は最後に笑顔を見せた。

 それは宮部に責任を感じさせないようにとの配慮に違いない。宮部は崩れ去った家の前でしゃがみ


「うわーーーーーーー! 」


 のどがつぶれるほど泣き叫んだ。

 泣きながらも、血がにじむほど拳を握りしめ。


「奴らを、根絶やしにしてやる! 」


 その思いは怒りと償いのための復讐に収斂し、自ら望んだ過酷な戦いへの悲壮なまでの動機となり。

 宮部は強く、賢く成長する。

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