第4話 人はみな羊なんだ
休日の朝を迎えてベッドから上体を起こした
スリッパに足を差し入れて窓際に歩み寄り、カーテンをつまんで腕を振る。蛇の鳴き声じみた音に遅れて、どこまでも広がっていそうな蒼穹が顔を出す。
まぶたを半分下げて勉強机に横目を向ける。
天板の上には昨晩ティッシュで作ったてるてる坊主が並んでいる。やたらと頭のでかいそれらは勉強机にヘッドバットし、下半身を無様に天井へ向けている。
照る照る坊主。晴れの日を願う際に用いるおまじないの一種だけど。逆さにすると降れ降れ坊主になる。五個も並べたんだ。ご利益で今日は雨になるはずだったのに。
古典的まじないの役立たずっぷりに嘆息してハンガーラックに歩み寄る。
気は進まないけど、セッティングしてくれた友人たちの親切を無碍にはできない。彼らに海水浴を楽しんでもらうには俺と燈香の努力が欠かせない。最低限身なりを整えて行かなくては。
俺は意を決して腕を伸ばす。以前デート用にこしらえた衣服一式を手に取って思考停止で身にまとった。
ジャケットにシャツ、デニム。取りあえず選んでおけば外れない三種の神器。おしゃれに興味の薄い俺には好都合なセットだ。
スリッパの裏で廊下の床を踏み鳴らし、下へ続く段差をたどってリビングに踏み入る。
「おはようお兄ちゃん」
小柄な少女が微笑んだ。肩に掛からない程度の黒髪がふわっと揺れる。元気はつらつとした表情は休日を謳歌してやるぜと言わんばかりだ。一昔前の有頂天になった俺を想起させる。
「おはよう朱音」
妹に体の側面を向けて洗面所に足を運んだ。ぼんやりとした意識に冷水を叩きつけて、無意識にこの現実を理解させる。
リビングに戻るなり妹がにっしっしと白い歯を見せた。
「久しぶりにその服着てるね。デートでしょ?」
蝙蝠の羽と悪魔の尻尾が似合いそうな笑みだ。
燈香と付き合って間もない頃は、よくこうやって朱音にからかわれた。耳たぶがとろけそうなほど熱くなったのはいい思い出だ。
「デートと言えばデートだな」
嘘じゃない。他の友人も付いてくるけど、それを教える必要はない。
朱音がまぶたで瞳を絞る。
「何その反応、つまんなーい」
「兄で遊ぶな妹よ」
「遊んでないよ。ただちょっといじってるだけー」
朱音が親指と人差し指でCを描く。セルフ視力検査でもしてるのだろうか。
「どっちでもいいけど兄をいじるな」
「いいじゃん」
「よくない。俺はお兄ちゃんだぞ」
「いいよお兄ちゃんで。手近なところに恋人持ちがいなくてさぁ、いじりがいのある子がいないんだよー」
「そうかい」
「その点お兄ちゃんは手頃だよね。燈香さん綺麗だし、お兄ちゃんも色々積もる話があるでしょ?」
「ない」
俺はダイニングチェアに腰を下ろす。
テーブルの上はラップを掛けられた皿で飾られている。先日両親は旅行で家を空けると告げていた。リビングルームに姿がない辺り、すでに玄関を出た後なのだろう。
ラップを剥がして箸を握る。赤い野菜を挟んで口に運ぶ。
「お兄ちゃん最近意地悪になったよね」
「これが普通だ。そんなに恋人持ちをいじりたいなら彼氏を作って鏡の前でやれ」
鏡に映る自分をいじって満足感を得る。永久機関の完成だ。妹もさぞご満悦に違いない。
「バカでしょお兄ちゃん。自分をいじくって楽しいわけないじゃん」
呆れ混じりに目を細められた。
「その反応は理不尽だ。他者をいじるなら自分もいじられる心構えをしろ」
「そういう問題じゃないって。お兄ちゃんはさ、鏡に映った自分を指差してキャッキャする妹を見たい? 彼氏いるのー? 見せて見せてーきゃーっ! って私が鏡にスマホかざしたらどう思う?」
「バカだと思う」
「でしょ?」
しまった、妹に論破された。これでは俺が間違っているみたいじゃないか。
俺はピーマンを挟んで口に運ぶ。敗北の味を噛みしめて、再度シャキシャキのレタスを頬張る。
「お兄ちゃんっていつも野菜から食べるよね。羊みたい」
「誰が羊だ」
俺だって特段野菜が好きなわけじゃない。理由があって先に手を付けているだけだ。
動物は基本的に好物から味わうらしい。
味覚は食べ始めの方が鋭敏だ。最初に美味しいものを頬張る方が合理的なのも頷ける。食事を終える前に隕石が飛んで来ないとも限らないし、思い残すことがないように最初に味わうのは理に適っている。
一見道理なその理論には落とし穴が存在する。
大半の人々は肉を好み、青臭い野菜を嫌う。焼き肉屋が多い一方で焼き野菜屋が珍しいことからもその傾向がうかがえる。
誰だって美味なものを口に入れたい。
しかし最初に美味なる皿を平らげると、視界を彩る野菜を見てげんなりする羽目になる。もういいやとお勘定に逃げる可能性大だ。繰り返せば生活習慣病に悩まされる日々が待っている。
その点、最初に野菜を食べ尽くしてしまえば残す心配はない。血糖値も抑えられるしいいことづくめだ。
「まあ、朱音が言ったことも間違いじゃないけどな」
「そうなの? やっぱりお兄ちゃん羊だったか」
「やっぱりって何だよ。いいか朱音、人はみな羊なんだ。聖書にそう書いてあるんだから間違いない」
少なくともキリスト教信者の中では。
「は?」
素の声で返された。妹が小さく息を突く。
「お兄ちゃんって、頭のいい学校行ってるくせに時々バカになるよね」
悔しい。何かこう、朱音にギャフンと言わせたい。
ネタが思い浮かんで口を開いた。
「そうだ妹よ」
「何だねお兄ちゃん」
「そんなに男欲しかったら紹介してやろうか?」
朱音が目をぱちくりさせた。
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