第9話 白金の少女、異変
9.
困惑を宿した問いかけに、しかしアンリは答えない。緩やかに笑みの形を描く口元で人差し指を立て、「しー」と僕を嗜める。
「……なにか言いたいことか聞きたいことでもあった――――ッ……アンリ?」
僕は思わず声を上げる。しかしそれも仕方がないだろう。なぜなら、ゆっくり僕のそばへ寄ってきたアンリが、そのまま当然のような動作で僕が寝るベッドへと入ってきたのだから。
反射的に身を引いた僕の隣に滑り込み、その柔らかな肢体を押しつけるように寄り添ってくる。僕は動揺しながらもアンリに訳を聞こうとその顔を見て、そしてなぜか首筋がぞくりとする。
僕を見つめ返すアンリの目は、髪と同じ白金のまつ毛を透かして、ドロドロとした感情を覗かせていた。その濃い感情は――強いて言うなら、強い執着だろうか。再会してからそんな様子は見せていたなかったのに、今のアンリからはどこか危うい雰囲気を感じる。
僕はいまだ混乱しながらも上体を起こす。大切な仲間の異変を見逃すことはできず、寝ころんで下から僕を見上げるアンリに問いかけた。
「アンリ、どうかした? なにかあったの? 勘違いだったらいいんだけど、いつものアンリらしくない」
「んー、なにかあったっていうか……せっかく久しぶりにテイルが帰ってきたんだから、一緒に寝ようかと思っただけなんだけど。なにかおかしい?」
「……おかしい、とは思う。夜なのに男の部屋に来て、軽々しくベッドにもぐりこむなんて」
僕の言葉を聞いて、アンリがその顔色を変えた。まるで酷いことを言われたかのようにさっと血色が失せ、目を見開き、開いた口をわななかせる。
突然の変化に呆気にとられる僕に、アンリは震える声で言った。
「……そんな、軽々しくなんて……。なんでそんなひどいこと言うの? 久しぶりに会った
「え……恋人?」
「急にそんなこと言うなんて、もしかして街を離れてた間に他の女でもできたの? 男が他所で浮気して冷たくなるなんてよく聞く話だし…………もしそうだったら、私許さないから」
僕は頭が真っ白になる。いま、アンリは何と言ったのか。僕の聞き間違いでなければ、アンリは自らを僕の恋人だと言わなかっただろうか。
まったく心当たりがない。記憶が正しければ、僕には彼女など存在しない。アンリはずっと一緒に過ごしてきた幼馴染というだけで、けして僕と恋愛関係にあったわけではないはずだ。
体を起こして眦を上げるアンリに、僕はますます困惑した。そんなにきつく睨まれたところで、そもそもアンリの話す恋人という前提から身に覚えがないのだから当然だ。
なんと返答したものかと困っていたところで、僕ははたと気づく。
――今の会話に、何かおかしなところがなかっただろうか。
そもそも恋人うんぬんがおかしいという話は置いておいて、それよりも一点認識が大きくかみ合っていない部分がある。
――アンリはいったい、僕がこの街を離れていた三か月間をどう認識している?
「あの、アンリ。こんなこと聞くのおかしいかもしれないけど……気を悪くしないでほしいんだけどね。――――今日、僕たちがブレンで再会するまでの間、僕がいったいどこで何をしてたかって分かってる?」
僕の真剣な問いかけを誤魔化しだとでも思ったのだろうか。視線は鋭いまま、アンリは不機嫌そうな調子で鼻を鳴らす。
「なに言ってるの? そんなの、分かってるに決まってるでしょ。テイルとは三か月前あの山で一緒にグレイウルフを討伐して、そしてそれから……それから…………」
しかし、アンリはなぜか話の途中で言い淀み、痛みをこらえるように顔を歪めた。どうしたのかと心配していると、アンリの呼吸が次第に早くなり、暑くもないのに顔に汗が浮き始める。明らかに異常な様子だ。
「……テイルは、えっと、任務で他の街に……でも、一人だけで? あれ、なんでだっけ…………あの時、テイル……たしか…………崖から、落ちて――?」
アンリは見てはいけないものを見たように目を見開き、もはや過呼吸のようになって僕の肩を掴む。
「で、でも! テイルはここにいるし、じゃあ、テイルは落ちてなんかなくて、でも三か月ずっと帰ってこなくて、もう死んじゃったのかと、思って……! う、ううぅぅ……!」
「アンリ……! もういい、もういいから」
頭を抱えて唸り始めたアンリを見て、僕はとっさにその体を抱き寄せた。その細い体は僕の胸にすっぽりと収まり、今は小さく震えている。
こうして抱きしめていないと壊れてしまうような危うさを今のアンリからは感じる。腕の中で体を固くしているアンリを見て、割れやすい硝子細工のような印象を抱いた。
僕の知っているアンリは、強くて、自分を持っていて、他人の視線や思いに惑わされることのない少女――そんな心像が幻のように消える様を幻視した。
僕は腕の中で大人しくなったアンリを強く抱きしめ、優しく語りかけた。
「変なこと聞いてごめん。もう聞かないから落ち着いて。アンリも色々あって疲れてるんだよ」
「う、ん……」
「ほら、横になって。今日はここで寝ていいから。僕は横にいるから、安心して」
素直に従うアンリの頭を寝かしつけるように撫でる。乱れていた息は次第に整い、アンリは目を閉じやがて疲れたように眠りに落ちた。
僕はほっと息を吐いて、先ほどまでのアンリの様子を思い返す。
――僕が谷底に落ちてからの三か月間について、なんだか記憶が混乱してるようだった。無理に思い出させたらまた不安定になるかもしれない……。明日、アンリの目を盗んで他の二人に話を聞かないと。
あの様子はとてもではないがこのまま放置できるものではない。
おそらく僕がいなくなったことが原因なのだろうから、僕がなんとかしなくてはいけない。『麦穂の剣』のメンバーとして恥ずかしくない強さを身に付けられたのは良かったが、その代償がこれとは。
僕は自分の犯した罪の重さを痛感し、拳を強く握る。
まずはアンリの様子につい詳しいことをウルとリエッタに確認する。それに、僕が犯した過ちを告白して謝罪もしなくてはならない。場合によってはみんなから嫌われてしまうかもしれないが、その時は甘んじて受け入れるほかない。
僕は顔に手を当てながらアンリの隣へ身を横たえる。
――ままならないな。みんなのためと思った行動で逆に大きく傷つけて、やっと役に立てるようになれたと思っても別の問題が起きる。
僕の行動がもたらした結果を思えば、思わず自分を殴りつけてしまいたくなってしまう。
だが、それよりもまずはアンリだ。罰が与えられるというなら大人しく受け入れる。ただその前に、アンリのことは責任をもって僕が何とかする。僕にとって一番大切なのは、彼女たち幼馴染なのだから。
僕はそう固く胸に誓い、目を閉じる。
考えることはたくさんあるし、明日もやらなければいけない予定がある。頭の中には雑多な物事が次々浮かんできては不安の種を残していく。
しかし、今日この時ばかりは積もり積もった疲労が僕を逃してはくれなかった。
アンリの寝息を隣に感じながら、次第に僕の意識は薄れていく。脳裏の考えも泡のように消えていき、気づけば僕は深い眠りの海へと沈んでいくのであった。
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