第41話 藤宮氷菓のお弁当


 屋上は心地よい秋晴れであった。秋の頭ということもあってか、日差しはまぶしくも風は涼しかった。乾いた匂いが鼻腔をくぐり抜け、こんなところで食べるお弁当はさぞかし美味しいだろうと思われる。


「ここちい~ね~」


 藤宮はお弁当をコンクリートに置くと、風を全身に受けるように両手を広げてクルクルと回った。絶対領域があらわになるのも気にしていないようで、僕は座るに座れず立ち尽くしていた。


「こら、はしたないぞ。下着が見えるだろ」


「あはは、ごめんごめん。楽しくなっちゃって」


「……ったく」


 頑張って作ったよ、と藤宮は言いながら弁当の包みをほどいていく。宝石のように白い手が慣れた手つきで花柄の包みをほどく。僕はにわかに期待してふたが開かれるのを待った。


「実はね、今日のお弁当は私が作ったんだよ」


「へぇ、藤宮って料理できたのか。その爪でよくやったな」


「さすがに落としてやったよー。だからもっかいネイルしなおしたの」


「その美意識は本当にすごいとおもうね」


「えっへへー。もっと褒めてもいいんだよ? ………ね、見て」


 と、包みをほどき終わった藤宮が弁当箱の蓋を開ける。


 しかし、その中から出てきたものに僕は驚愕きょうがくした。思わず「これを、どこで?」と言ってしまうくらいには、予想外の料理が並んでいたからだ。


 彼女の顔は緊張していた。


「…………………どう、かな?」


 その料理というのが、色とりどりの具材が混ぜ合わせられたポテトサラダとだし巻き卵だった。いつか、ピクニックの日に舞羽が失敗した料理の完成形だ。申し訳程度のウィンナーや白米が詰め込まれているが、メインはその2品だと言わんばかりに中央に盛り付けられている。


「食べて……欲しいな」


「………………………」


「きっと、美味しいよ?」


「………………………」


「ゆう君。私、頑張って早起きして作ったよ。ゆう君の好きなモノ、ちゃんと美味しく作ったよ。だから、食べて……?」


 僕は言葉を失って弁当箱の中を見つめている事しかできなかった。それは本当に美味しそうで、漂う匂いがよりいっそう食欲をそそった。だけど、僕の体は雷に打たれたように動かない。


 いや、動けなかったというべきだろう。


 どうして藤宮が僕の好物を知っているのかとか、誰かに聞いたのかとか、そんな疑問は湧いてこなかった。


 ただ、裏切りである。と強く感じた。それは純粋な衝撃だった。舞羽の事を想起したわけでは無い。ただ、強く裏切りだと感じたのだ。もっとも感じるのが遅すぎたくらいだと言われたら、僕には返す言葉が無い。


 そして、その沈黙こそが藤宮にとっての返事だった。


「……どうして、天ヶ崎さんなの?」


 藤宮の声は震えていた。


「どうして天ヶ崎さんなの? 私じゃダメなの? 近くにいるよ。ずっとゆう君の事そばで見てたんだよ。ずっと好きだったんだよ? ねえ、私の事も名前で呼んでよ。氷菓って、名前で呼んでよ」


「藤宮………」と、僕はかすれた声で言った。


「……やっぱり…………だめ……だよね………」


「……ごめん」


 僕の答えは初めから決まっていたのだ。天ヶ崎舞羽をおいて他に伴侶足りえる女性はいない。そのことに気づくのが遅すぎた。僕の心が弱かったために藤宮氷菓を傷つける事になった事を、しかし、苦しいと思ってはいけない。それは僕の甘えである。厳然たる事実として受け入れなければいけない。今一番苦しいのは藤宮氷菓なのだ。


 天ヶ崎舞羽を選ぶと決めた以上、藤宮を慰めることは出来ない。それは傷口に塩を塗りこむ行為に他ならない。ただ僕にできる事は、きっぱりと藤宮の気持ちにけじめをつけてやることだけだろう。


「僕には、やはり舞羽しかいない。だから藤宮の気持ちに応えることは出来ない」


「………………………」


 藤宮は俯いて両手をギュッと握りしめた。悲しみを紛らわしているのだろうか。泣きだしたいのを必死に堪えているようにも見えた。


「…………じゃあ、さ。嫌いって言ってよ」


「……………………」


「ゆう君が優しいのは知ってる。きっとこれからも変わらず友達でいてくれると思う。ゆう君はかっこいいから。でも、でもさ、それじゃあダメなんだよ」


「……お前、泣いて………」


「私、またゆう君の事を好きになっちゃうよ……だからお願い。一言、嫌いって言ってよ。そうしたら、私もやっと諦められるから」


「………………………」


 ヤマアラシのジレンマという言葉を思い出した。今の藤宮を慰める事は彼女を傷つける行為に他ならない。しかし、僕が僕の選択をすることもまた彼女を傷つける行為である。お互いの針が刺さりあって僕達はこれ以上近づくことができない。


「僕は、僕は…………」


「お願い、ゆう君」


 泣いた藤宮の顔には紫色のラインが幾本も流れていた。化粧がぐしゃぐしゃになって、元の顔は見る影もない。だけど、僕は、そんな藤宮を美しいと思った。


「藤宮氷菓。僕は、君の事が…………嫌いだ」


「……………うん、ありがとう」


「………………………」


「………………………」


 しばらくの間僕達は無言だった。ただその場に立ち尽くしていた。


 けれど、振り切らねばならない。どちらかがこの気まずい沈黙に引導を渡さねばならないのだ。


「じゃあ、もう、行くから」


 僕は屋上のドアに向かって歩き出した。


「どこに、行くの?」


「東京」


 僕はそれだけ言って、あとは振り返らなかった。


 階段を降りているとき、うわああああああああん、と、誰かが泣く声が聞こえた。

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