第37話 朝ヶ谷ゆうと恋
僕にとって天ヶ崎舞羽がどういう存在であったか。それは前頁までで散々触れたことであるので今さら書き記す事はしないが、とにかく、僕の人生の大部分を占めていた事は間違いない。苦楽を共にするような関係ではなかったけれど、気づいたら隣に居るような関係ではあった。
なるほど。水無月の言うとおりそれは恋とは呼べないだろう。
恋とはキラキラした感情であると思っている。相手の事を想うと胸がキュンキュンしたり苦しくなったり、少女漫画的お星さまが目に浮かんだりするのだ。そんな綺麗な感情を僕が抱いていたとは思えないし、仮に、僕が恋をしていたとしたら今は苦しんでいるはずである。舞羽のいない夜を泣き明かしているはずである。
それが今は
水無月が何を考えているのかは知らない。
だけど、僕は断言する。僕の人生に恋は必要無い。そんなキラキラしたものは気骨ある男には無用である、と。
☆☆☆
ところが、僕はいとも容易く恋に落ちた。
「あ、次の授業は現国だって!」
「もはや机をくっつけたままがデフォルトになったな」
「だって動かすのめんどくさいんだもーん」
二学期が始まってからの僕の毎日はほとんど藤宮に占領されていた。舞羽のように四六時中べったりではないけれど学校にいない間は彼女の事を考えたりした。部屋で一人でいるときに明日も会えるのだと思うと、不思議と活力が湧いてくるようで、僕は漠然と希望が湧いてくるように思った。それは舞羽が居なくなった空白を埋めるにはあまりある活力だった。
「教科書を持ってくる事は出来ないのか?」
「そんな余裕はありませんなぁ」
「むしろ、他に何持ってくるんだよ」
「えっへへー、聞いちゃう? それ聞いちゃう?」
藤宮のカバンの中には「かわいい」と「好き」が詰まっている事は以前述べたと思う。僕は教科書を持ってくるようにと再三注意しているのだが、彼女は持ち前の愛嬌を発揮してまともに聞かないのだ。
「ほら、私、かわいーでしょ?」
と言って花咲くような笑みを浮かべる彼女は確かに可愛かった。女の子は可愛くあるべし! がモットーの藤宮であるから、きっと自身の努力の成果を見て欲しいのだろう。
まったく反省する気が無い満面の笑み。僕は文句を言う気も失せて、
「手のかかる生徒ほどかわいいって言うしな」と、いつもため息をついてしまうのだ。
「あっ、その可愛さじゃないよぅ。見て見て、この満面の笑み。これは恋しちゃうよね? こんなに可愛い女の子がゆう君の隣にいるんだよ? 他の子なんて目に入らないよね?」
「これで教科書も持ってこれたら、きっと君は素晴らしい女性になるよ」
「善処します!」
ハキハキとした元気な声であった。
君は恋をしていなかった。なぜだか水無月の言葉が耳を離れない。それが大切な事であると心のどこかで分かっているからだろうか。この喪失感から抜け出す
この新鮮な活力を、まるで胸中に若葉が芽吹くような爽やかな気持ちを、僕は初めて体験した。
こんな時間が永遠に続けばいい。そう思う瞬間が幾度もあった。
例えば授業中に腕が触れる事がある。僕が先生の話に合わせて教科書を
「あ………ごめん」
顔を赤らめて縮こまる藤宮のなんと初々しいことか。男子の肩をスパーンと叩いて笑う彼女とは思えぬ初々しさ。僕の前だけで見せる表情である。僕はそれでドキドキしてしまって、「いや、いい」と答えるしかないのだ。だが、これで本当に良いのか? と思う。
他には、放課後は2人で帰るようになった。彼女は電車通学であるが、僕の通う道と彼女の利用する駅からの道が途中まで一緒であると判明したためだ。
「でさでさ、りなちゃんがすっごい可愛くてね」
「ネイルアートねぇ。教師にばれたら面倒だぞ?」
「……実は、私もしてるのです。じゃーん」
「ふぅん、もっとよく見せてよ」
「きゃっ、そんな事言って手を繋ぎたいだけじゃん、もうっ」
「ばれたか」
天ヶ崎舞羽は僕が手を取るととたんに黙りこくったが、藤宮氷菓は反対に
こんな事が数日続いた。
藤宮は日増しに可憐になっていくようだった。恋をすると女の子は可愛くなるというが、彼女はそれを体現していた。たった数日で藤宮は見違えるほどに可愛くなった。僕が言うのだから間違いない。
今だから分かる事だが、僕は完全に藤宮に恋をしていた。藤宮の見せる舞羽とは違う表情の一つ一つが新鮮に感じられ、彼女の新たな一面を知る事が楽しかった。新しい小説を読んでいるようなドキドキを感じていた。
しかしこれも今だから分かることだけれど、僕が藤宮に感じていたドキドキはすべて『天ヶ崎舞羽とは違う女の子』との触れあいからくるものであったのだ。
舞羽はこうだったけれど藤宮はこうだった。舞羽が笑わないところで藤宮は笑った。その新鮮さに恋をしていたのであって、もし舞羽と出会っていなければ藤宮に恋をしなかったのかは僕には分からない。とにかく、僕の判断基準になったのはいつだって天ヶ崎舞羽であった。
僕がそのことをハッキリと自覚したのは水無月東弥との会話によってだった。
「君は、藤宮氷菓が好きか?」
と、彼が話しかけてきた。9月4日の事であった。
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