第31話 天ヶ崎舞羽と最後の夜
「ホットミルクが飲みたい」と、舞羽が言い出した。
「ホットミルク?」
「………うん」
ちょっと落ち着きたいという彼女の願いを叶えるべく僕は台所に向かったのだ。舞羽の苦しみを知ることは出来なかったけれど僕がそばにいる事で緩和できるなら、可能な限り彼女の願いは叶えたいと思った。
僕は気骨ある男だから自分の感情は自分でどうにかできるけれど、他人の感情はどうしようもない。ことに舞羽は寄り添おうと思っても、近づきすぎると逃げ出してしまうのだから。彼女の方から言い出したことはなるべく叶えるようにしている。
これからは人の想いを汲み取る練習をしないとな……そう思った。
「分かった。………そこにいろよ?」
「行かない。どこにも行かない」
「すぐ戻ってくるからな」
そう言って僕は立ち上がった。
☆☆☆
階段を降りて一階へ行く。
ぎしぎしぎし、と、夜更けという時刻もあってかやけにその音が響くようだった。
築20年の我が家はいたるところがボロボロである。両親の結婚を機に建てたということだが、それにしては痛むのが速い気がする。愛着とは風化を愛おしく感じさせるものなのだろう。ところどころにひずみができても気づかせずに、長い間住んでいたからなぁ、などと思わせて修復の手が遅れてしまうのだと思う。本当は綺麗な状態を保つのが理想なのに、なぜかそれを裏切りのように錯覚させてしまうのだ。
せめて人間関係だけはひずみのないようにしたい、と僕は思う。
特に舞羽とは長い付き合いになるだろうから綺麗なままでいたいものだ。
「そういえば、舞羽と初めて話した日もホットミルクを作ったっけか」
ふと、そんな事を思い出した。
6月のとある雨の日。捨て猫に傘をあげたとか言ってびしょ濡れになった舞羽を僕の家の風呂に入れ、ホットミルクを作って僕の部屋に寝かせたのだった。今にして思えばあれが運命の分岐点だったに違いない。あの日から舞羽と過ごす時間が増えて今では四六時中一緒にいるのだから。人生とは分からないものである。
「あれからもう10年くらい経つのか。懐かしいな。あの日の舞羽こそ捨て猫のようだったが……あの時出会っていなければ僕達はどんな人生を歩んだのだろうか」
僕は台所でホットミルクを作りながらそんな事を考えた。
もし僕が舞羽に声をかけていなければ、彼女はただの隣人であり続けたのだろうか。一切の交友を持たず、一切話しかけたりせず、それぞれの友達を持ってそれぞれの人生を歩んだのだろうか。
舞羽が隣にいない人生を、僕は歩んだのだろうか?
いや、僕の人生は柔らかいマシュマロに狂わされてしまうのである。もしかたわらに舞羽がいなかったら。そんな人生は想像すらできない。
舞羽がいてよかったと思う事はあっても、いなければ良かったと思う事は無かった。
このまま社会的有為の人材になったところで、そのとき隣に彼女がいなければ意味が無いのだ。
「それに舞羽の事だ。例え交友が無かろうと、そんなのお構いなしに向こうからやってきたに違いない。それでやっぱりこうなるのだ。やはり僕の人生は彼女に狂わされてしまうのだ」
僕はそう呟いて、満足した。
やがて、ホットミルクが出来上がった。弱火でゆっくりかき混ぜるのが美味しいホットミルクを作るコツである。温度は約60度。あの日は電子レンジを使ったが、成長した僕なら美味しいホットミルクを作るのもお手の物だ。
僕は出来上がったホットミルクをマグカップに移して取っ手が熱くならないうちに部屋に戻った。
こんな日がこれからも続くのだと思うと、なぜだか頬が緩んだ。
「あちち……、できたぞー舞羽ー」
「わっ、早いね。もうちょっとかかると思った」
「そうか? こんなもんだろう」
ドアを開けると、舞羽が窓辺に立って外を見ていた。泣きはらした顔は幾分かスッキリしているように見えて、もう声も普段通り。とてとてとテーブルのそばに来るとクッションを
「ゆうの分は? 私、ゆうと一緒に飲みたいのに」と、頬を膨らませた。
「分かった分かった。いま入れてくるよ」
泣き止んだとはいえ今の彼女はナーバスである。言う事はなるべく聞いておいた方がいいと勘が
☆☆☆
ところが、ホットミルクを手に部屋へ戻ると舞羽は今度は「そっちの方がいい」と言い出した。
「何も変わらんだろう」
と、僕がカップをテーブルに置きながら言うと、舞羽は不服そうに頬を膨らませて「カップの柄」と言った。
「柄? こっちは花柄だぞ? そっちの猫の方が可愛いのではないのか」
「そっちの方がいいのー!」
「分かった分かった。換えてやるからはしゃぐなって。牛乳がこぼれるだろう……」
「わぁーい!」
バンザイをする舞羽からカップを守りながら、僕は彼女の目の前にいまいれたホットミルクを置き、さっきいれた分を僕の目の前に置いた。
うちにはそもそもマグカップというものが少ない。せいぜい4つくらいだろうか。その中でも比較的可愛いほうを舞羽に渡したはずだが、猫柄の何が気に喰わなかったのだろうか。
「えへへー、やったー!」
あたかも最初からこっちに決めていたという風に断固として花柄を選びたがる舞羽に若干の不信感を抱きつつ、僕はカップを取り換えた。
それからはとりとめもない話をして夜を過ごした。僕達は話の合間にホットミルクを飲みながら、出会った日の事や旅行の思い出などを語り尽くしたのだった。
そうして、僕は、不思議な眠気に襲われて、コクリコクリと眠りに落ちていった……。
☆☆☆
「睡眠薬は……やりすぎたかなぁ……。でも、ごめんなさい。こうしないと、私、ゆうのそばを離れられないよ」
と、舞羽はぐっすり眠りこける僕に向かって言った。
彼女はカラリと窓を開けると、名残惜しそうに部屋を振り返る。しかし一度決めた事だと
「今までありがとう、ゆう」
―――――――――—さようなら
そうして、彼女は僕の部屋から立ち去ったのだった。
翌朝目が覚めた僕の隣に舞羽はいなかった。
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