第3話 神の思し召し
(寒っ…)
去年の冬に買った黒のネックウォーマーを口元まで引き上げる。住宅街はひっそりと静まっていて自分だけが世界から取り残された様な気分になった。歩いて駅に着けばようやく感じられた人の気配にほっと息を吐いた。
「神よ………」
すれ違った男の呟きに思わず振り返る。危なっかしい足元で、フラフラと人の集まる方へと寄って行く。どう考えてもヤバそうな気配に関わり合いになりたくは無い、と一刻も早くそいつから離れるべく自分の目的地へ足を早めた。
少し歩いて、やっぱりあの怪しげな男がどうしても気になってもう一度振り返る。男は相変わらず覚束無い足元で歩いている。
刹那、光が目に刺さった。
数瞬だけ遅れてやってくる衝撃と音、本能的に目を瞑る。風で吹き上げられた前髪が揺れて前頭部にチリチリと焼け付くような熱が伝わった。
「は?」
目を開けて、1番に飛び込んだのは黒く焦げた地面と、教室で見た赤。周りには横たわる人と、泣き叫ぶ声。思わず走り寄った。
「痛いっ!痛い!」
「お母さん!お母さん!!」
「誰か、誰か!」
どっと溢れる人の声の波に、足が止まる。自分と同じ様に駆け寄ったスーツ姿の男性やバスの運転手、駅員も呆然とした表情をしているのがマスク越しにでも分かった。
ポケットからスマホを取り出す。震える手で電源ボタンを押して「緊急通報」の文字をタップして119の数字キーを押した。
「消防署です。火事ですか、救急ですか」
「き、救急です!駅前に、えっと、5、6…7人、怪我をしてて」
「落ち着いて下さい、どのような怪我ですか?」
「火傷、骨折、あと……血が沢山出てます」
「救急車は既に向かっています。落ち着いて、誘導可能でしたらサイレン音が聞こえた際に誘導をお願いします」
「はい」
「それでは、電話を切って救急隊の到着をお待ち下さい」
プツリ、と電話を切って周囲を見る。
「お母さん!お母さん!!」
小さな女の子が彼女の母親らしき女性に縋って泣いていた。女性に意識は無さそうだ。近付いてよく見れば胸が動いている事だけは分かった。呼吸はしているらしい。少女を見れば腕に大きな傷を作っている。袖から赤色が滴っていた。
「大丈夫、お母さんは生きてるから、大丈夫。君の名前は?怪我、手当しよう」
目線を合わせて、出来るだけ優しく声をかけた。びぃだまの様なくるくるとした濡れた瞳がこちらを見つめている。
「ほんと…?」
「うん、ほんと、だからほら、これ使って」
ハンカチを取り出してそっと少女の腕に当てる。じわりとハンカチに赤が染み込んでいった。
「君っ!少し手伝ってくれ!」
スーツ姿の男性がこちらを見て声をかける。駅員が担架を持って来て、重なり合うように倒れている人達を運ぶ様だ。
ちらり、と少女を見やる。不安げなその表情に家で待っているであろう母さんが何故か重なった。
「すぐ戻るから、大丈夫だよ」
そう言うと少女はこくりと頷いた。
「いい子だね」
頭を撫でて男性の方へ足に力を込める。サイレンが遠くから聞こえ始めた。
救急隊が来てからは怪我人達を彼等に任せ、警察に事情を説明し、全てが片付いて解放されたのは3時間後だった。ようやくスマホを見てみればいっそおぞましいと感じるほどの不在着信とメッセージの通知。不安定な母さんを思い浮かべる。きっと心配をかけてしまった、安心させなければ、と電話帳から「母さん」と書かれた欄をタップする。
コール音が1回鳴り終わる前に悲痛な声が耳に劈く。
「悠!?悠よね!?無事なの?無事よね?何処にいるの?怪我は?」
「母さん、落ち着いて?僕は大丈夫、警察に事情を聞かれたりしていたから、連絡出来なくてごめん」
「あぁあ……!良かった、ニュースで悠が向かった駅で爆発があったって速報が流れたから…!!」
「うん、ごめんね」
「なんで連絡してくれなかったの!心配したでしょう!!」
「うん、ごめん」
そうか、確かにあれ程の規模の爆発ならニュース速報が出てもおかしくは無い。心配する母さんの反応は理解出来るし少しでも連絡をしておけば、と反省はした。しかし、それでヒステリックに怒鳴られても、という思いが無い訳ではない。こちらも必死だったのだ、人の命を救う為、経験した事の無い事態にしては冷静に、よく対応出来た方だと思う。こちらも疲れた。言い争う気力も無い。
「ごめん、今から買い物して帰るからさ、あとちょっと待っててね」
電話の向こうでは何か喚いていたがそれを無視して切る。どっと疲れが押し寄せた。それでも帰らねば、自分の帰る所はあの家にしかない。まだ、片方の親が残っているだけマシなのだから、と自分を無理やり納得させる。
「はぁ……」
買い物帰り、指にビニール袋の持ち手が食い込んで、家に帰る頃には赤い線が入っていた。
「おかえり」
「ただいま」
人が変わったように穏やかに自分を迎え入れる母親が不気味に感じた。2人でキッチンに並ぶ、ずっと機嫌良さそうに話しかけてくる。何がトリガーになるのかが分からない。母さんの、あのヒステリックな発作とも呼ぶべきあれがいつ起こるのかが分からない。気が休まらない。笑顔を貼り付けて話に相槌を打つ。オムライスは上手くいかず、ぐちゃぐちゃになってしまった。
テレビは久しぶりの鮮烈な事件を少々大袈裟に報じていた。なんでも、信者を増やして強大になってきた例の終末論を振りかざす黄昏教が声明を出したらしい。
『あれは我が信徒が神のお言葉により実行したもの』
簡単に言うとこんな感じ、何が神のお言葉だ。あんなのただのテロ、暴力以外の何物でもない。あの教祖は少女の悲痛な叫びを聞いただろうか、痛みに呻く怪我人を、流れる液体の赤黒さを、何も出来ない己の無力さに煮えくり返る腹の熱さを、あいつらは知っているのか。
「馬鹿も休み休み言えよ」
少なくとも、そんな事を指示するようなやつは神ではない。ぼそりと呟いた言葉は母さんに聞こえているだろうか。黄昏教にご執心の母さんはこのニュースを見て何か思う事があるのだろうか。焦げ付いたオムライスを無言で頬張る母さんからは何もうかがえない。それがひどく不気味な事に思えた。
「悠」
夕食を食べ終えた後、食器を洗う母親が不意に僕の名前を呼ぶ。その声はいつも通りの、手伝いでも頼むような気軽なものだった。
「行きたい所があるの。明日、悠も着いて来てくれない?」
「どこに行きたいの?」
「秘密よ、ひみつ」
「まぁ……いいけど」
学校が閉鎖されている今、やる事も無い自分は退屈を余らせるほどだ、断る理由もない。母さんの気分転換になるのなら外出についていって荷物持ちになるのも悪くないだろう、なんて考えた。
「悠―、準備できた?」
翌日、玄関で僕の名前を呼ぶ母さんは参観日にでも行くようなきっちりとした格好だ。靴を履こうと傍で屈めばファンデーションの香りがふわりと鼻をくすぐる。セーターにズボンという簡単な格好で言ってもいいものなのかと訊けば「まぁ、学生だし…大丈夫よ」との返答だった。大丈夫との事ならきっとそうなのだろう。
「行くわよ」
「うん」
玄関を出れば昨日より暖かいとはいえ、まだ皮膚を刺す様な寒さに目を眇めた。
「寒いわね」
「そうだね」
ポケットに手を入れセーターの網目を抜ける寒風に身体をぶるりと震わせた。
「……ここ?」
「えぇ。ここよ」
母親の後ろに合鴨の様に着いて行けばやけに外観の白い建物に到着した。門の傍らにある掲示板には沢山のビラが重なり合いつつ貼られている。何の気なしにそのビラを見れば一枚一枚の隅に全て“黄昏教”と記されていた。かすれ気味のスタンプが少しだけおどろおどろしい雰囲気を醸し出している。
「母さん」
まさか、ここが目的地なのかと顔を覗き見る。母親の顔は真っ直ぐ、門の内側に伸びていた。あのニュースの映像と、目の前で起こった爆破テロの惨劇が脳裏によぎる。母さんには悪いがここには悪いイメージしかない。出来る事ならここの敷地に入る事すらしたくない。
「悠、行くわよ」
母親はさっさと開かれた門扉を潜り先へ進む。黄昏教、怪しげな新興宗教、あのテロを起こしたと吐かすあの、黄昏教の本拠地に
「行かない」
思わずその言葉が口から飛び出した。こちらを向く母さんの顔が心底不思議そうに傾く。
「悠?」
「僕は、行かない」
セーターの裾をぎゅっと握る。母さんはこちらに歩み寄って暖かな手でこちらの顔を包み込んだ。
「悠、いい子だからお母さんと一緒に来て?」
「いやだ」
「ここは優しい所なのよ?悠もお父さん達がいなくなって不安でしょう?寂しいでしょう?ここはね、悠と同じくらいの歳の子もたくさんいるの、お友達も増えるわ。それにお勉強も教えてくれるらしいの。学校、なかなか始まらないじゃない?だから、ここを学校代わりに……」
「行かないっ!!」
何か揉めていると思われたのだろうか、建物から誰かが出てくる。その人は母さんの知り合いらしく何やら二言三言交わしてからその人に頭を下げた。白装束に包まれたその人はこちらに近付いてくる。母さんは僕の手を取ったまま僕が逃げ出さない様に足を踏ん張る。絶対に逃げ出せるはずだ。こちらは高校生男子、しかも陸上部に所属しているんだぞ?なのに、なんでこの手を振りほどけないんだ。
「悠人くんだね?お話はお母さんから聞いているよ。お父さんや妹さん、お姉さんは残念だったね。でも君はまだ生きている。これがどういうことか分かるかい?」
「僕がまだ答えていないだけだ。それ以上でもそれ以下でもない」
顔を真っ白な紙で隠したその人は声からして男の人のようであった。背は高いが体格はそこまで良くない様に見えた。母親は信じられない力で僕をここに留めようと腕を離さない。僕は抵抗しつつも逃げる隙を伺った。
「お父さんと、妹さん、それにお姉さんは選ばれなかったんだよ」
「……は?」
「残念だけどね。神は多くなり過ぎた我々を選別しようとしているんだ。その選別に君のお父さん達は選ばれなかった。だから……」
「うるさいっ!!」
選ばれなかったからなんだ。だから父さんや弥絵や陽は死んだというのか。あの三人が死ぬ事が“神の思し召し”だったと言うのか。だとしたら僕はそんな神を信じない。
「君は聡明だそうだね。だから分かるんじゃないかな。これは神の意思なのだよ。君のお母さんは選ばれたんだ。君はまだ選別が終わっていないらしいが……君の賢さなら大丈夫。それに、我々も着いているからね」
さぁ、と伸ばされた手を思い切りはたく。
「ふざけるな……!!父さんは、陽は、弥絵は、神に殺された。そんな神を信じられるか、誰が崇めるか。僕はあんた達とは行かない。神の思し召しとやらで他人を傷付けるあんた達の所になんか行ってやるものか!!」
そこまで一息に言ってしまえば母さんの手首を掴んで引っ張る。
「母さん!帰ろう!」
「……いやよ」
ピシャリ、と手を叩かれて痛みに思わず手を離す。冬の寒さも相まってそこは熱を持ちピリピリと痛んだ。
「か、母さん?」
下を向いた母さんの表情が見えない。思わず後ずさる。
「お父さんも、陽も、弥絵も!みんなみんないなくなって、悠だけしか残ってないの!お願いだから、お母さんの言う事を聞いて!!」
再び手首を掴まれる。振り払おうとしても、どこにそんな力があるのか、がっしりと離れてはくれない。
「ほら、行くわよ」
母親がずんずんとあの白い建物へ向かう。引き摺られるように自分の足もそちらへと歩み出す。
「…っ!」
本能が恐怖した。何故、と問われても答えられないがそこに入るのは、嫌だ。母親と話していた男はこちらに向かって手招きをしている。
「っやめろ!!」
懇親の力で母親の体を押す。高校生男子の本気の力だ、母親はよろりとよろめいて手を離す。
その隙に自分は踵を返して全力で走り出した。もう、母親を連れて帰ろうとは思えない、呼び止める声も無視して夕方の住宅街を1人、全力で走り抜けた。この時以上に自分が陸上で走り込みをしていた事に感謝した事は無い。
陽が暮れれば空気は途端に冷たくなる。肺に入る空気が体温を奪っていくがそれでも走るのはやめられない。後ろから白装束の集団と母親が追いかけてきているのではないかという妄想に追いかけられては足を止めるなんて選択肢を選ぶ事なんてできなかった。夕方の住宅街は前より静かになったものの温かい色の電灯がぽつりぽつりと点灯し中には食事の匂いが漂ってくる場所もある。
帰った家には、誰もいない。
「なんなんだよ・・・」
玄関のドアを閉め、ずるりとしゃがみ込む。暗くなり始めた玄関で、頭を抱え込んで何が起こったのかを整理する。
あそこは、多分黄昏教の支部みたいな所なのだろう。そこに母親は自分の事を連れて行こうとしていて、嫌がる自分を、無理やり、あんな事をするような人では無いのに、なんで、いつの間に、何がきっかけで。さっきまでお母さんは普通の人だった。玄関で僕の名前を呼んでいる母さん、今日のご飯は何だろうと行きがけに笑っていた母さんは豹変した。いや、僕が見ようとしていなかっただけかもしれない。母さんと向き合おうとしなかった結果がこれだろうか。時が癒してくれるだろうと考えていたから罰が当たったのか。
ぐるぐると思考が渦巻く。考えても考えても分からない。推測しても、納得のいく答えはいつまで経っても現れず時間が無駄に過ぎていく。
「悠?」
背後のドアの向こうから声が聞こえた。母親の声、いつもの、母親の声だ。
「悠、開けて?」
背筋が凍った。反射的にドアのチェーンをかけると同時に鍵が開かれる音がする。チェーンが引きちぎられんばかりに張った。
「悠、開けなさい」
「嫌だ」
「我儘言ってないで、ほら、開けて?」
母親のいつもの笑顔が酷く無機質に見える。
「開けなさい」
「嫌だ」
「お母さんと一緒に行こう?」
「嫌だ」
「…お母さん、寂しいな」
少し落ちた声のトーンに心臓が絞られるような感覚を抱く。しかしそれでも、ついて行っては駄目だという本能や勘に近い何かがその扉を開ける事を拒ませた。
「無理だよ、僕は行けない。黄昏教には行かないよ」
「どうして…?」
「母さんも見ただろ?あのニュースを、あんな事をする奴らの所へなんか行きたくない」
「あんな事…?あぁ、神の思し召しだから、仕方の無い事よ」
「は?」
「仕方ないでしょう?陽も弥絵もお父さんも、神のご意思で死んだのよ?あれも神のご意思ならば仕方の無いことだわ」
「僕は、ずっと考えてるよ。あの神からの問いを」
「悠は頭がいいものね。あそこでもきっと神のお役に立てるわ」
「僕は、僕の答えは僕が決める」
「悠」
「だから、母さん、行けないよ」
「来なさい」
「母さん」
鎖が大きく鳴った。
「早く来なさい!何が不満なの!?安心できる場所と、優しい皆に囲まれて過ごす事の何が!何が不満なのよ!貴方も、私の前からいなくなるの!?」
あまりの豹変に言葉が出ない。初めて、自分を生んだ母親に恐怖を感じた。
「そんなの、許さない」
ゾッとする程低い声。弾かれるように自分の部屋へ走った。フックにかけられていたリュックをひったくり、財布と携帯と充電器、毛布といくつかの服を詰め込んで窓を開ける。
「母さん、ごめん」
庭の芝生へ降り立って、音を立てぬように静かに塀を乗り越えた。
玄関の方からは何かの破壊音と自分の名を叫ぶ母親の声が聞こえた。
「くっそ・・・!」
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