第2話 待ち望んでいた非日常

その日は朝から薄い曇り空だった。白っぽい空を眩しく感じながら足元に視線を下ろしながら昨日考えた通りに少しだけ遠回りをする。いつもは見ない風景に少しだけ退屈が薄まった気がした。

「はよー」

「おはよ」

「悠、今日ちょい遅くね?」

「遠回りしてきたからな」

「は?なんで?」

「気分」

「気分で遠回りかよ。やっぱ分かんねー」

「たまにはいいだろ。ほら、行くぞ」

始業チャイムが鳴る前の教室はざわざわと騒がしい。1つの机の周囲に集まって談笑する塊がちらほら見受けられた。友人達と挨拶を交わし鞄の中身を引き出しに移し替え一限目の教科書とノートを開く。

「授業始まるじゃん。だるー」

「やべ、宿題やってねぇ」

教室のそんな声に耳を傾けながらノートを開く。今日最初の授業は科学だ。予鈴が鳴った、教師が教室にやって来るのももうすぐだろう。

「席に着きなさーい。授業は始まってるぞ」

ガタガタと椅子が鳴らされて皆がそれぞれの席に着いたことを確認すれば先生は「よし」と呟いて号令をかけさせる。課題のプリント提出から始まり、いつも通りの授業が始まった。黒板に展開される化学式や解説文を移して眠たい解説を聞く。これで実験なんかあればもう少し面白いのにな、なんて考えていれば自然と欠伸が込み上げた。朝一の授業ですらこれである。午後の授業が思いやられる。


『皆さんこんにちは』


突然、脳内に声が響いた。低めの女声にも高めの男声にも聞こえ、どこか幼く老齢なその声に思わず周囲を見回す。ぽかんとした表情で同じく周囲を見回していたり、身体を大きく跳ねさせ眠りから強制的に起こされたり、怪訝な顔をしていたり、様々な反応を見せるクラスメイトの反応が見える。ざわざわと途端に騒がしくなる教室だが、教師もあの声を聞いたのだろう、それを注意する事もなく少し目を見開いている。

「え、今の俺だけじゃないの?」

「私にも聞こえた」

「じゃあ全員?」

無秩序な音のざらつきの中、時折聞こえるハッキリとした会話に無意識に相槌を打つ。先程の声は自分にだけ聞こえた幻聴の類いでは無いと確信した。

心臓がドクドクと脈打ってマスクの下の口角が上がっているのがはっきり分かった。これはまるで漫画やアニメのような展開、ここから始まるのは命をかけたデスゲームか、それとも人類の存亡を賭けた超常的な存在との戦いか、それとも全く予想のつかない展開か、高揚が腹の内を持ち上げさせる。退屈な日常が一変した。


『突然、驚いた事でしょう。私は、神様とでも名乗りましょうか。本当は少し違うのですが……貴方達の言語に表すのならこれが最も適切です』


神様?なんて誰かが呟く。先程までの喧騒は何処へやら、皆、脳に響く言葉を固唾を飲んで待っている。

耳が痛くなるほどの静寂だ。もう、眠気なんて何処にもない。


『皆さんに、お聞きしたい事があるのです』


声は続ける。


『皆さんは、他の動物と自分達、つまり"人"をどの様に区別しますか?』


静寂は続く。


『"人"は何をもって"人"になるのでしょう。貴方達の答えを、教えて下さい』


カラリ、と誰かのペンが落ちた。


『期限はあなた方の暦で1年間。各自1回ずつ、私に向かって答えを出してください。もし、1人でも答えない者がいれば・・・そうですね、これまで培ってきた素晴しい文明の剥奪でもしましょうか』


喉が鳴った。


『それでは、楽しみにしておりますよ』


時が止まったのだと錯覚した。秒針がぐるりと回る。誰かの身動ぐ衣擦れの音が、唾を飲む音が、呼吸の音が教室を満たして、それから誰かが咳をした。

「な、んだったんだ、今の・・・」

乾いて剥がれなかった喉がやっとの事で動いて空気を震わせる。それが水鏡に垂れる一滴となり、ざわりと波立った。

「なんだ今の!」

「え、神様?って言ってたよな?」

「私だけじゃないんだよね?」

「え?ドッキリ?」

途端に皆が好き勝手に話し始める。これでは授業どころでは無くなった。教師がいくら注意しても一度動いてしまった水面はなかなか静まらない。放送が、教師の集合を呼びかける。先生は教室への待機を命じてから、慌てて飛び出していった。きっと、彼も信じられないのだろう。


その日の授業はすべて中止になった。前代未聞、未曾有の事態に学校は生徒を一旦帰宅させることにしたのだ。学校は責任からなるべく逃れたいらしい、何かあった時に追及されるのが嫌なのだろう。

曇天の空の下、一人帰る通学路で改めてあの声が言っていたことを考えてみる。人は何をもって人となるのか、きっと有史以来様々な人が考えたであろうその問題をまさか全人類が考えさせられる事になるとはだれが予想できただろう。もし答えなければ文明を剥奪するとあの声は言っていた。文明の剥奪とはどういったものだろう。ライフラインも奪われるのだろうか、通信は、言語は、人類が現代まで培ってきた学問は、全て奪われてしまうのか。

「ただいま」

帰宅して最初につけたテレビでは臨時ニュースしか流れていなかった。同じく学校から帰されたのであろう陽が「つまらない」と嘆くのを横目で見る。

「お母さん帰ってくるまでゲームでもするか?」

「えっ!いいの!?」

「あぁ、でもお母さんには内緒だぞ」

ソファーに座りながら画面をぼんやりと眺める。部活も課題もない日は何をしていいのか分からない。走り込みに行こうにも「外に出るな」と言われているし陽を一人にしておく訳にもいかない。

「退屈だなぁ」

やる事といったらあの“神”からの問いに対する答えを探す事ばかり。それはそれであの神にいいように使われているようで気に食わない。


劇的な事が起こったからといってその後の世界が激動になるとは限らないらしい。あの声から一週間もすれば生活は普通に戻りつつあった。連日の報道も下火になり新たな事件や事故に塗り潰され、国民が混乱する事も無く、ライフラインが止まる事も無く、商店が閉まるなんて事も無かった。あの日以降、学校も会社も通常通り、休みになるなんて事も無い。あの声もとんと音沙汰なし。飽きっぽい世間の関心は1ヶ月経った今となっては次の話題に移っていった。

僕はと言えば、失望にも近いけだるさで毎日の学校生活を消費していた。世間と同じように、友人たちの関心も既に移ってしまって話題に上がる事すらしない。あれから世界中の宗教の終末論について調べてみたり、他の動物にはない人間のみの機能について調べてみたりしてみたが答えはまだ出せていない。まずは目の前に迫る大会に集中すべきだろうかとまで考え始めている頃だ。

そうそう、少しだけ変化した事もあった。新興宗教の一つである黄昏教という宗教がやけにクローズアップされる様になった。どこかで聞いた事がある様な「神の審判」の時に向けて徳を積んでいこう、なんて教えが主体だったらしいが今回の“声”でそれ見た事かとばかりに終末論を振りかざしている。信者も随分増えたらしく街頭でよく演説しているのを見かける様になった。母さんはその黄昏教にご執心らしい。家族を救いたい、その一心で奉仕活動を熱心に行う様になった。特段我が家が影響を受けている訳ではないので父さんも本人の好きにさせるらしい。

見えないものに縋って、神の思し召しとやらに従って、神の教えに沿って生きる。それで精神的に楽に生きられるのなら別に否定はしない。しかし、調べれば調べる程に宗教が引き金になった戦争のなんと多い事か。互いの信じるものの為に争い、血を流す。それが神の思し召しだとするのならその神は随分と邪悪な存在だと思う。そんなものに縋っていても、なんて思うのは僕だけなのだろうか。どうしても好きになれそうにない。

ひねくれている、とよく言われる。自分の思っている事をそのままに言えば、大人からは「子供らしくない」と、クラスメイトからは「何を考えているのか分からない。何を言っているのか難しくて分からない」と怪訝な顔をされる。自分は、自分の思うままに言えと言われたから、貴方の意見を書きましょうと言われたから、その通りにしただけなのに、何でそこまで言われなくてはならないんだ、と主張すれば「またか」なんて言いたげな表情がこちらを見つめるのだ。

面白くない、面白くない、義務教育を抜ければ多少はマシになるかと思った高校も、教育的配慮とやらが息づいて、退屈極まりない。均した考えの何が楽しいのか、尖った意見の何が悪いのか、それを教えてくれる人は何処にもいなかった。

「神ならどんな意見も聞いてくれるのか?」

何となく空に向かって問うてみるが答えは無かった。


今日は国語から始まる日だ。自由な題で作文を書くらしい。

「うえー」

「作文苦手なんだよねぇ」

そんな声を聴きつつシャーペンを走らせる。何を書くか、折角だから他の人と被らないものがいいな、なんて考えだした時


『お久しぶりです。皆様、私からの問いは如何でしょうか』


あの声だった。年齢も性別も特定できない不思議な声。全員の動作がぴたりと止まった。クラスメイトはやはり緊張した様な面持ちで声に耳を傾ける。教師も同様だ。


『沢山の方々が、早くもお答え下さっています。ご協力、ありがとうございます』


その声はまるで、原稿を読み上げている人工音声のような平べったい抑揚で薄っぺらな感謝を述べる。

『しかし、私は面白くないです』


空気が変わった。


『皆さんからいただいた答え、どれも似たような物ばかり。私は、多種多様な意見を期待していましたが……仕方ないですね。ルールを変更します』


雰囲気がざわめいた。


『皆さんの答え、同じ答えが1000万人に到達した段階でその答えを出した人には死んでもらいましょう。だって、面白くないですから、もっと真剣に考えていただきたいのです』


クラスメイトの何人かの顔色がさっと変わった。きっと、もう答えを出した者なのだろう。


『さて、現在時点では……』


パンッと風船が弾けるような音がした。

静かな教室にそれはよく響いた。


『さぁ、皆さん、奮ってご参加下さいね』


声が止むと同時に、息を吸った。鉄の匂いが、つんと奥に刺さる。

「きゃあああぁぁぁ!!!」

劈く悲鳴に顔を顰める。

教卓の、首の無い身体が、赤い噴水を上げながら、ゆらり、ゆらり

斜め前の、首の無い身体が、ゆらり、びちゃり

生暖かい液体が、顔にかかった。

「ははっ・・・」

最早笑うしかできなかった。日常では決して嗅ぐ事の出来ないむせ返るような死の匂い、悲鳴をあげる女子の蒼白の顔面、ふらりと力を失って気絶する隣の席、床に広がる赤黒い液体とその上に倒れた首の消えた身体、それが纏う白のシャツが赤を吸い上げる。

求めていた非日常。自分だけの答えを強要される。80億人の人口に対して同一が許されるのはたったの1000万人。阿鼻叫喚の地獄絵図の中、吐き出した息は異様に熱かった。


あんな事があって授業が続けられるはずも無く、学校は急遽休みになり自宅待機となった。1人、帰り道を歩く。

("ヒト"と"人"の違いか・・・)

カサカサと音を立てて枯葉が足元を追い越していく。冬特有の重たくどんよりとした曇天が、自分には心地よかった。まったく、夏の太陽は眩しすぎるのだ。

「ただいまー」

家に帰っても返事は無い。父さんも弥絵も仕事だろう。母さんは陽の迎えか…?姿が見えない。リビングやキッチンを見ても赤黒い液体も首なし死体も無かったから少なくとも母親は死んでいないはずだ。そうやって、冷静に分析する自分が何故か可笑しくてくすり、と1人笑う。すっかり習慣づいた手洗いうがいを済ませ、ソファーに寝転がる。目を閉じれば教室のあの風景が瞼の裏に浮かんで離れない。目の奥が重くて痛い、熱があるのだろうか。

「冷静になんて、嘘だな」

体温計を引き出して脇に挟めばその体温は微熱を指していた。きっと、あまりの体験に心も体も追いついていないのだろう。冷蔵庫から冷えピタを取り出す。頭に貼れば思考が晴れるような気がする。ソファーに寝転がっていれば玄関のドアが開く音が聞こえた。母親と陽が帰ってきたのだろうか、ドアから顔を覗かせる。

「悠……」

母親が、見た事もない表情でこちらを見ている。

「良かった、良かった…!!」

「どうした…うぉっ」

その場で崩れ落ちた母さんに駆け寄ればいきなり抱きつかれた。風で乱れたのだろうか、髪はクシャクシャで化粧が落ちるのも構わずに涙をボロボロと落とす。

「ようが、陽がね、陽が…」

それだけでも、全てを察した。これほどまでに取り乱した母親を見た事がない。あまり頭が良いとは言えなかった陽は、神様への答えを出してしまっていたのだろう。そして、あのクラスメイトの様に、不条理にその未来を奪われたのだ。

「母さん、僕は」

「言わないで」

まだ答えていないだけ、と言おうとしたがそれは止められてしまった。彼女は、もう答えを出したのだろうか、それすらも聞けず、ただ泣きじゃくる彼女の背中を撫で続けるしか無かった。


結局、その日帰ってきたのは僕と母親だけだった。それが何を意味するのか、母さんも僕もきっと分かってはいたがとても音に出来る状態とは言えない。それを言葉にしてしまえば、現実として直視しなければならないような気がして、一言も発する事が出来ない。その日の無言で食べた夕食は味を一切感じられなかった。

次の日も、学校は休みだった。

その次の日も

その次の日も

教師も生徒も、多くの犠牲者を出したあの日から学校の再開のめどは立たないままだ。あれだけの血液、きっと清掃に時間がかかるだろう。匂いだって染み着いているのかもしれない。親を失った生徒、家族を失った教員、日常は一気に崩れ去った。

「神罰が下ったのだ!」

四角い画面の中にいる教祖は声高に論じている。それを食い入るように見ているのはやつれた母さん。あの日からなにかが壊れてしまったかのようなリビングに、いつもの賑やかさはない。

「神は愚かな我ら人類の選別を始めたのだ!!」

実の所、実感が湧かないのだ。陽も弥絵も父さんも、帰って来れなくなっているだけでどこかで生きているのではないかと。こうやってテレビを見ていれば「ただいま」なんて笑って帰って来るんじゃないかなんて思ってしまう。葬式はまだ挙げられていない。父さんも陽も弥絵も他の首なし死体と並んで学校の体育館に並べられて火葬の順番を待っている。こんなに一気に人が死んだことなんて無いから、町の火葬場も葬儀屋も大忙しらしい。亡骸は見せてもらえなかった。見たとしても、実感が湧くとは思えない。

「母さん」

だから、母さんの気持ちが分からないんだ。家族の首なし死体を見せられて本人確認をさせられて、悲しみを一人で抱える彼女の気持ちは、自分には分からない。こうやってテレビ画面に食い入るように教祖の言葉に耳を傾ける彼女の気持ちは。

「……なに?」

「……ごめん、なんでもない」

テレビの音だけが響くリビングはひどく居心地が悪い。女は三人集まれば姦しいとか、どこかの国の諺では「女三人と鵞鳥があれば市ができる」と言われる。そんな賑やかさも今となっては恋しい。女三人が集う我が家はいつも音に溢れていたのだ。

母親は、あれからひどく不安定になってしまった。不安がる彼女のためにリビングに居続けるのも限界だ。外に出たい。こんな暗い場所に居続けていれば気がおかしくなってしまいそうだ。

「神へ、赦しを乞おう!」

テレビが煩い。

「愚かな我らに残された道は一つだけ!」

白装束の男が声を張り上げる。

「赦しを乞い、裁きの時を待つのみ!!」

気付けばリモコンを握っていた。ブツリ、と音を立て画面が真っ黒になる。母さんは「どうして?」とでも言いたげにこちらを見上げている。

「母さん、買い物行ってくる」

「……」

「大丈夫、僕はちゃんと帰ってくるから」

「悠」

「大丈夫」

「ごめんね」

「なんで母さんが謝るんだよ。何が食べたい?僕はオムライスが食べたいな。母さんが作るオムライス。作り方教えてよ、材料買ってくるから」

「いってらっしゃい…」

「行ってくる」

財布を持って玄関の戸を開ける。冷たい冬の風が頬を切った。

「バイト、始めるか」

この余った時間を何かに使わなければ気が狂いそうだ。あの陰鬱とした空間から逃げ出したい。そうだ、パズルなんか買って母さんと一緒にしたりすれば、花の種を買って庭に植えたりするのもいいのかもしれない。家庭菜園だって、やれば食費も浮く。気を紛らわす事が出来る何かを与えればきっと、あとは時が癒してくれる。

誰かが死んでも世界は残酷に回り続ける。誰かが支えてくれている。鉄道も、電気も、水道も、きっと誰かが働いてくれているから今も止まっていないのだろう。

前に、進まないといけない。

自分達だって、前に進まなければ。

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