第5話:女上司が婚姻届を書けと迫ってくる
「あ、そうだ。お風呂入りなよ」
上機嫌な葉月美乃梨は泡立てたスポンジで食べ終わった食器を洗っている。手伝おうとしたのだが、断られしまい、間宮湊はただ突っ立っているだけだった。
そんな暇を持て余していたからこそ、間宮湊はその言葉に甘えたのだが……。
「いや、これで本当に良かったのか?」
頭をシャンプーでゴシゴシ、体をボディソープで足指まで洗い終えて、湯船に浸かっているのだが、疑問は消えない。
「あのひとは悪い人じゃない」
それは事実だ。異様にめんどくさい性格の持ち主で、鬱陶しいことに変わりはないのだが。
それでも実質的な被害を受けてもないし、警察に届け出るほどでもない。勿論、連絡を入れて、面倒な女に絡まれていると報告してもいいのだが……。
葉月美乃梨の人生を左右するほど、大きな変化はないだろう。男という生き物は、女性に甘いのだ。ストーカー被害に遭う男の面倒など、誰が見るか。逆に羨ましいと批判され、恨み節を言われるだけかもしれないのである。
「まぁ、信じよう」
お風呂に入っている間に、実は部屋の中で何か変なことをしているのでは。
人様の私物を漁り、盗んでいるかも。
などと、尊敬する女上司に対する不信感が募るのだが、間宮湊は心に決めた。
正にその瞬間であった。
脱衣所のドアが開き、人影が動く。
磨りガラスには、長い髪の女性の姿。
「葉月さんが……脱衣所にいるだと?」
壁一枚先の人影は服を脱ぎ始めた。
最初は下から脱ぐ派らしい。スカートを脱ぎ、お次はショーツへと手を掛けている。曇りガラス上に映る姿だけでも、間宮湊は扇状的な気分に陥ってしまう。
「な、何をやってるんだ。葉月さん」
風呂場に先客がいることを知らないのかと疑問に思いつつも、ラッキースケベ的な展開が起きるのではと期待もある。
だが、間宮湊は欲望に打ち勝ち、壁一枚向こう側にいる相手へと喋りかける。
「は、葉月さん。そこで何を??」
「ん? お風呂一緒に入ろうと思って」
「はぁ????」
「私たち彼氏彼女でしょ? 一緒にお風呂入るぐらい普通のことじゃない? ホテルの時も最後は洗いっこしたじゃん」
◇◆◇◆◇◆
全くそのような記憶はございません。
国家の中枢を担う政治家様が上記の言葉を放つ際、間宮湊は「そんなことないだろ」と呆れるタイプであった。
だが、現在の現状は正にそれだった。
「俺たちってそんなことしたの……?」
「忘れたなんて言わせないよ、湊くん」
イジメっ子が謝罪しても、イジメられっ子が彼等の行為を一生許さないし、忘れないと意思表示するような冷たい声で。
「湊くん、最後まで凄かったんだよ。もうやめてって言ったのに、湊くんは私のカラダを何度も何度も……」
間宮湊は一旦頭の中で整理してみた。
あの日の出来事は……。
金曜日の夜。社内の飲み会に参加し、お酒を大量に飲用していたはずだ。一次会が長引き、そろそろ解散となった頃合いで、「二人だけで二次会しない?」と葉月美乃梨に誘われたのである。
頼れる上司であり、人生の先輩でもある葉月美乃梨。入社当初は教育係として、間宮湊を支えてくれた良き恩師だ。
久々に二人で飲んだ酒は特別美味く感じ、次から次へと注文し、記憶が全て消え去るほど飲み干し——。
翌朝、間宮湊はキングサイズのベッド上で目を覚まし、隣には裸体の憧れの女性が眠っていたわけである。
断片的な記憶は定かに覚えている。
葉月美乃梨がお腹の上に跨り、さぞかし気持ちよさそうに腰を振る姿を。
清楚で強気な彼女が性欲に負け、聳え立つオス的部位に屈服する姿は新鮮だったのだろう。脳裏に焼き付き、目を閉じるだけでも、その情景が蘇ってくる。
「というわけで入るね。湊くん」
「いやいや。入るのはまずいですよ」
「大丈夫だよ、減るもんじゃないし」
「羞恥心の欠如があるよ!」
こほんと一回の咳払い。
その後、気を取り直しましてという風に。
「人生とは何かを失い、何かを得ることだって、聞いたことがあるよ」
同じようなことをベストセラーのビジネス本でも読んだことがある。確かに、何かを得るには、何かを失う必要があるかもしれないな。
葉月美乃梨はリズムを一拍置き。
「羞恥心を捨てて、肉棒を大きくしよ」
「学んだ教訓から得た答えがこれか! ど下ネタに使われるビジネス書作者の気持ちをもっと考えろよ!!」
エロ広告バナーのキャッチコピーでありそうな発言を残した葉月美乃梨は続けて。
「一回見たことあるし、今更じゃないかな? 私は何も思わないけどなぁ〜」
「強風が吹いて、捲れるスカートを必死に抑えている若き乙女に謝れ!!」
第一ですね、と間宮は呟いてから。
「一人暮らし専用の風呂場に、二人は狭すぎる。窮屈すぎますよ!」
「それでいいんだよ。二人の愛がもっともっと加速するはずだよ。やったね」
「俺が暴走したらどうするんですか!」
「私が受け止めてあげる」
「大問題だよ! 赤ちゃんできるよ!」
葉月さん、性欲全開だな。
てか、ボケで言っているのか。
判断できなくて、大変困る。
「めでたい話だね。少子化改善だよ!」
謎のポジティブシンキングである。
ふざけているのか。それとも本気で言っているのか定かではないが……。
間宮湊は真剣に返答する。
「そんな甘い話じゃないでしょ! 子供を育てるというのは大変なんですよ。分かってますか? それに俺と葉月さんは結婚してませんし。色々とダメですよ」
子供を育てるのは大変なのだ。
出産や育児は易々とできるものではない。多くの人々から力を借りながら、やっとこさどうにかなるものなのである。
「なら、結婚すればいいの? 赤ちゃん作っても」
「結婚すれば赤ちゃん作ってもいいとは、なりませんがね。ていうか、結婚?? あのねぇー、葉月さん。結婚というのは、お互いの気持ちを理解——」
「それなら大丈夫だね。私たち、両思いだし。あ、それに、こーいうこともあろうかと、婚姻届も持ってるんだよね〜」
こーいうこともあろうかで、婚姻届を手元に持ってるってどういうことだよ。
間宮湊はツッコミたい気持ちがあったものの、心の奥底で押し留めた。
「今からそっちに行くね。赤ちゃん作る前に、婚姻届書かせるから安心してね」
弾んだ声が聞こえてくる。
語尾に音符が付いてそうだ。
「葉月さん、入ってこないでください」
マジ拒否する間宮の声に、葉月美乃梨は喜びを感じてしまう。大好きな人が嫌がる声は可愛らしく聞こえてしまうのだ。嫌よ嫌よも好きのうちというのだ。
もしかしたら、自分はドSかもしれない。そう思いながら、あの日は逆に犯されまくり、オホ声まで晒した真正のドM女上司は、大好きな人が待つ部屋へと繋がるドアに手を掛けるのであった。
そして、気付くのであった。
「と言っても無駄だっっ……ん〜? 湊くんぅ〜、ダメだなぁ〜。鍵を掛けちゃうなんて……それは反則だと思うよ?」
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