第4話 りんどう姫は、立ち上がれない。


 生徒がぜんいん揃うと、準備体操から水ならしの足浴を経て、浅い部分で水中歩行、それからレーンごとに班にわかれて泳法の練習となる。


 竜胆りんどうは二番レーン、花奈かなはとなりの三番レーンの班となった。


 まだ、竜胆には充電チャージが残っている。少し前に冬夜とうやとハグしたばかりだから、しばらくは余裕がある。だから、竜胆の所作はいつものように美しく、表情には自信が満ち、彼女自身は得意ではないという平泳ぎですら、周囲の生徒がうごきをとめて見惚れるほどであった。


 が、竜胆じしんは、わかっている。

 ほんのわずかではあるが、ブレが出てきている。身体の軸がさだまらない。やがてそのブレは大きくなり、隠せなくなる。

 涼やかな瞳の奥で、竜胆は、すでに泣きべそをかいていた。


 ううう。とうやくん……こわいよ、ひとりぼっち、こわいよお。たすけて……。


 「……?」


 花奈は竜胆の泳ぎを目で追っていたが、首をひねった。なにかが違う。形も強さもふだんどおりだが、どこか、なにかが欠けていると感じた。

 竜胆がターンして戻ってくる。次の生徒と替わって、水からあがる。ベンチに腰をかけ、俯いてタオルで身体を拭いていると、花奈がやってきて目の前にたった。


 「……竜胆。舐めてんの?」


 びくっ、とする竜胆。顔を上げられない。足元の床に目をやったまま、動かない。


 「たしかに勝負は高飛び込みだけどさ。いまからそんなに手を抜くことないじゃない。なに、あたし相手ならそれでも余裕ってわけ?」


 竜胆は、返事をしない。

 周囲の生徒たちからは、ふだんどおりに冷たく、静かに応対する女帝と見えていた。花奈にとっても同様である。ちっ、と舌打ちをして、花奈は腰に手をあてた。


 「……まあいいわ。その余裕と勘違い、あたしが叩き潰してあげるから。それより飼い犬くん、ジャッジできなくなっちゃったけど、どうする? だれか代役、指名してよ」


 飼い犬くんとはもちろん冬夜のことだ。

 男子はいま、校庭で走っている。プールのなかを見ることはできないから、高飛び込みのジャッジは、室内にいる女子がせざるをえない。

 だが、竜胆は、くちを開かない。


 「……ちょっと。なにかいいなさいよ」

 「……」

 「わたしとはクチもききたくないって? まあいいわ。じゃあジャッジは芽衣めいひとりにさせるけど、文句ないよね? あんたが指名しないならそうなるよ」


 芽衣は、花奈の幼馴染で、こんかいの勝負の発端となった生徒だ。花奈は芽衣のために闘うのだから、いかに花奈が平等にといったところで、とうぜんジャッジは、竜胆の不利に傾く。

 そんな条件を竜胆がうけるわけがない。それをわかっていて、花奈はからかったのだ。


 と、竜胆は両の手のひらをあげて、耳の横あたりに添えた。耳を隠しているようにも、なにも見たくない、と言っているようにも見えた。小さく呟く。


 「……ぃ」

 「ん? なに?」

 「……それで……いい」


 ばん!


 花奈が手にもっていたタオルを床に叩きつけた。濡れているから、おおきな音がでる。いつの間にかふたりを囲んで様子を見守っていた生徒たちがびくっと動く。


 「ふざけないでよ! 勝負する気がないならそういいなさい!」


 それでも竜胆がうごかずにいるのを見ると、ふうと大きな息を吐き、踵を返した。


 「……見損なった。あんた、そういう子だったんだ。いいよ、お望みどおりに潰してあげる。でも、約束は守ってもらうからね」


 花奈が立ち去る。取り巻いていた生徒たちは顔をみあわせ、それぞれ練習にもどる。むこうの方で指導教員が、もうすぐ自由練習に移るから、飛び込み練習する生徒はこっちへ集合、と呼びかけている。


 竜胆は、うごかない。うごけない。

 とうや……こわいよ……わたし、だめだよ……できない、とべないよお……。


 その頃、校庭では男子がいくつかのグループにわかれてトラックを走っていた。


 冬夜は陸上が苦手ではない。短距離もそれなりに強いが、三千メートル以上の中長距離では学年で一、二位を争う脚力をもっている。とうぜん陸上部に勧誘されたが、断った。竜胆の水泳部での活動を支えるためである。

 それでも、だれもが冬夜の実力をしっているから、グループ分けでは彼はいちばん速く走る組に振り分けられた。


 しかし、いま、冬夜は薄く目をすがめ、むしろ半分つむったような状態で、ゆっくりゆっくり、刻むように、あしを運んでいる。

 その速度は、もっとも遅い集団よりもなお遅い。


 「おい真備まきび! だれがのんびりジョギングしろっていった!」


 教員の声が飛ぶ。

 が、冬夜は、ちらとそちらをみたきり、また、同じ姿勢に戻った。黙々と足を運ぶ。やや俯き、なにかに集中しているように見えた。


 「……おい、冬夜のやつ、どうしたんだ」

 「しらねえよ。腹でも壊してるんじゃねえの。いつもりんどう姫、独占してるからバチあたったんだわ」


 男子たちが冬夜のことをいろいろ言い、それは冬夜にも聞こえているが、動じない。そもそも幼少期から竜胆を支え続けた冬夜にとって、陰口はもはや日常的な雑音にすぎず、頬をなでる微風ほどにも気にならない。


 いま彼は、聴いている。

 プール棟の窓のいくつかは、換気のために薄くあけられている。そこから漏れる、内部の音。教員の、生徒の声。水の音。足音。

 全身の気を集中させ、わずかな音も漏らさず捉え、分析し、あたまのなかで情景を再現している。プール棟のなかではいま、なにが行われているか。どんな練習が指示されているか。そして、自由練習はいつ、開始するのか。

 そのためにごく低速で走り、風切り音と足音を最小限に抑えている。


 竜胆のうごきを察知し、先回りしてあらゆる手段を講じる。それをずっと、ずっと行ってきた冬夜にとっては、多少はなれた場所の情景をとらえることはさほど難しくない。が、わずかに漏れる音だけを頼りにそれを行うのは、至難だった。

 まして、走りながら、である。

 冬夜は、しかし、その困難なタスクを遂行している。


 もはや、神韻を帯びた、達人の域にたっしている。


 りん、ちゃん……。

 冬夜は遠く、プール棟の窓をあおいだ。



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