第18話

妻の死、そしてあまりに不可思議な幻視。立て続けに人生が大きく揺さぶられる中で、極めて実際的な問題が立ち上がってきた。


金である。


元々、妻の介護をしていた一年弱の期間は当然、働きに出ることは出来なかった。


また、精神的な疾患は当時も今も、日本の一般的な保険診療の範囲外となっており、治療費も馬鹿にならず、貯金は既に底を尽きかけている。


私は、妻の幻に気持ちを囚われながらも、働かざるを得なかった。


そんな時に、まるで誰かが『はい、ここですよ』とタイミングを計ったかのように、あの電話がかかってきた。


今思うと、運命の悪戯だと言えるし、奈落への一歩とも言える。



さて、ある日の朝、私は電話の着信音で目を覚ました。


時計を見ると、まだ朝の7時過ぎである。早朝の着信に違和感を覚えながらも、私はベッドから体を起こして、電話が置いてあるリビングに向かう。


余談ではあるが、妻が生前、茫然自失のていで家を飛び出し、警察の厄介になることが、多々あった。その時に、警察から掛かってくる電話は、早朝もしくは深夜であることが多かったので、これらの時間の電話は、私にとって不吉そのものである。


波佐見はさみです」私は受話器を取り上げ、答えた。


「朝早くに申し訳ありません。クゼと申します」


電話の向こうは、落ち着いた雰囲気の男性であった。しかし、『クゼ』という名前にまったく心当たりがない。私には、友人と呼べる人間は片手の指で足りる程度しかいないので、名前を失念したということはあり得ない。


「はい。クゼさん...失礼ですが、どこかでお会いしましたか?」


「いえ、ご面識がない状態でお電話を差し上げています。非礼は重々承知をしておりますが、少し私の話を聞いて頂けないでしょうか?」


相手の丁寧な口ぶりや話し方から、私はピンと来た。ヘッドハンティングだ。しかし、それにしては、なぜこんな朝早くの電話なのかが引っかかる。


「ええ。構いせんけど」


「有難うございます。実は、私の友人にアメリカでコンピュータサイエンス関係の仕事をしている者がおりまして、波佐見さんのお仕事ぶりについては、大変よく聞き及んでおります」

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