第9話 堕ちた瞬間

 どういうことだ。

なぜこの子は、俺の顔を見て心拍数が上がらない?

思わせぶりなことを言っても、なぜ気に留めない?

あからさまに距離を詰めたのに、どうして俺を意識しないんだ?


 出会ってから、もう三ヶ月だ。毎朝、時には千夜の下校後にも店を開けて、二人きりの時間を設けている。会話は毎回弾む。とても打ち解けた関係だ。しかし。


 一向いっこうに甘い雰囲気にならない。甘い香りは充満してるのに……


 どうしてなんだ。

……もしかして、恋愛対象が男ではないのか?……いや、違う。そんな特記事項出てこなかった。彼女の生体情報は、精神面も含めて調査済みだ。


 地球における美男の基準が、エスリとは異なることも疑った。けどそれも違うようだ。

一応外見の調整はしたが、本来の俺の容姿から大きな乖離はない。それに地球では見目の良い男のことを『イケメン』と呼ぶそうだが、俺はちゃんとこの中に含まれるらしい。『逆ナン』なるものをされたのだから。


 俺は、イケてるはずだよな? 見た目にも態度にも、抜け目はない……そのはずだ。

……千夜の態度は、俺の自信を削ぎ落としていく。

 

 佐藤千夜。

なぜ彼女は、俺に恋をしない?

チョコレートか? 

俺の周囲に常にチョコレートがあるから、注意がそちらに行ってしまうのか?

誘き寄せるためにチョコ屋を演じたのは、失策だったのか?

……残念ながら、その通りのようだ……それにしたって! 

チョコは食い物じゃないか!


人間の俺を見ろよ。


***


 千夜は毎朝、登校前に来店した。

嬉しそうな顔しちゃって。ドアを開ける時満面の笑みだけど、自覚してないんだろうな。

俺に挨拶をする前に、「チョコだぁ」ってニヤニヤしながら呟いてるの、知ってるんだぞ。まさかこれも無意識なのか。


「今日はこれを食べたいな」


 陳列されたチョコレートを、一つ一つ真剣に見ている。丸い目をしていて、結構可愛い顔立ちだ。


「これもいいですか?」


 おねだりするように小首を傾げるの、狙っているのだろうか。


「昨日食べたあのチョコが、凄くツボにはまっちゃって……」


 食べた感想を言う時、うっとりしながら遠い目をする。こういう表情、割と好みかも知れない。


「食べるのが勿体ないなぁ。宝石みたい。ま、食べちゃうんだけどね」


 千夜の笑い声は、耳あたりが良いな。ずっと聞いていても飽きない。


 少しずつ口調も軽くなってきたのは良い兆候だが――彼女の口から出てくるのは、いつだって店のチョコレートの話ばかり。


 ある日、話題を変えてみようと試みた。これくらいの年齢の子には、周囲の大人に打ち明けられない話の一つや二つあるはずだ。


「千夜ちゃんは、何か悩み事とかないの?」


 聞き役に徹するのは得意だ。相談役から、一気に親密度を高める狙いだった。


「ありますよ。結構本気で困ってる」

「どんなこと? 俺に助けられることかな」


 良い掴みだと思ったんだ。本当に久々に、手応えを感じたんだ。それなのに。

 俺の目をじっと見つめながら、彼女が口にした言葉は――


GIIギーのチョコ意外、美味しいと思えなくなっちゃった……」


 そりゃそうさ。粒子レベルで地球上の全てのチョコを分析し、千夜の好みのド真ん中を突く味で組み立てて作ったのが、この店のチョコレートなのだから。


「前は色んなチョコを食べても、値段に関係なくそれぞれの良さを見つけられたの。でもこの店のチョコを知ってから、他のチョコを食べても、全然満足できない。食べた瞬間良いって感じても、すぐにGIIギーのチョコが欲しくなる」


 結局チョコの話かよ!

 ガックリ来るのと同時に、よく分からない感情が、ぐるぐると胸の中で蜷局とぐろを巻き始める。


GIIギーに飛んでいきたくなる」


 そんな目で俺を見るな。俺を見て欲しいけど、でも困る。何だこれ。苦しい。


GIIギー(のチョコ)に、会いたくて仕方なくて、辛いの」


 店名を俺の本名にしたのは、間違いだったかも知れない。都合の良い言葉だけが耳に入ってきて、動悸が止まらないじゃないか。


「ねえ、銀くん」


 仮の名を呼ばれて、ようやくはっと息をつけた。何だろう、けれど胸の高鳴りは止まらない。


「ずっとここで、お店を続けてね。GIIギー(のチョコ)がいなくなっちゃったら、きっと私は生きていけないよ」


 涙が浮かんだ憂いの瞳に、心臓がドキリと大きく一跳ねした。


 俺はこの時、知らなかったんだ。


あの一跳ねが、恋に堕ちた合図だったなんて。

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