第6話 奇妙な縁談話
ミレーヌをやり込めた日からひと月ほど経ったある日、アレクシアは父の執務室に呼び出された。
ノックの返事を待って入室すると、執務用の椅子に座る侯爵がにこにこと娘を迎えた。
「執務室に呼び出しとは珍しいですわね。何かありましたか? お父様」
「まあまあ、こっちへおいでアレクシア」
父侯爵の言葉を受け、執務机の前まで足を進める。
ブラッドフォード家にしては一見地味な執務室だが、美しく磨かれた重厚な机や一流の職人が手掛けた革張りの椅子は当然一級品で、最高級の宝石にも匹敵するほどの値段である。
その机の上に、一枚の書類と、一枚の姿絵。若い男が描かれている。
「お父様。もしかして縁談、ですか?」
「その通りだ」
「ずいぶんと早く見つかりましたのね。お相手は?」
「ヴァンフィールド辺境伯の長男、レニー・ガードナー殿だ。年齢は十九歳」
「ヴァンフィールド辺境伯家……ですか。たしかに縁談相手としては人気のあるとは言い難いお家柄ですから、十九歳で縁談が決まっていなくても不思議はありませんが」
ヴァンフィールド辺境伯領。
王国の北西に位置する、広大な領地。
領内はそこそこ栄えているが、毎度縁談相手に苦労すると言われている。
なぜなら、ヴァンフィールドは魔獣の出る地だから。
蝶よ花よと育てられた貴族の令嬢にとって王都から離れた危険な地に嫁ぐというのは耐え難い話で、最終的にガードナー家の傍系から妻を娶ることも少なくないらしい。
「さて、レニー卿だが。顔も美形という感じではないが、男らしく整っていて悪くない。誠実さだけは保証するという辺境伯の言葉だったが、たしかに調査しても浮いた噂一つ出てこないな。社交界に顔を出したことも数えるほどしかないようだ」
「王都から少し離れたい気持ちもありますし、条件としては悪くありませんわ」
「魔獣は怖くないのかい?」
「わたくしが戦場に出るわけではありませんし、今のところそういう意識はありませんわ。町に魔獣が出ることもほぼないと聞いております。次期辺境伯との婚約話は、もう確定ですの?」
「あー……。それなんだが」
侯爵が複雑な表情を見せる。
「何か?」
「それがな。婚約届を提出せず、仮の婚約でどうかと先方に打診された」
アレクシアが柳眉をひそめる。
「仮とはなんですの。もしかしてわたくしの噂を聞いて、辺境伯家の嫁として相応しいかどうかを見極めたいということですか?」
社交界では「アレクシアは高慢で贅沢を好みか弱い令嬢をいじめる悪女だから第一王子に捨てられた」という噂がすっかり広まっている。
噂の発生源は第一王子か、ミレーヌか、もしくはほかの貴族か。
いずれにしろ、半分くらいは事実だから否定することも傷つくこともないが、縁談という点で見れば決して喜ばしい話ではない。
「そうではなく、逆だ。本当にレニー卿に嫁いでもいいか、その仮の婚約期間中に君に見極めてほしいということだ」
「……?」
貴族の結婚だから、恋愛感情が伴わないことは決して珍しいことではない。
それなのに、仮の婚約期間を設け、なおかつ男性側から女性側に「見極めてほしい」などと申し出るのは、異例中の異例である。
「レニー卿には何か重大な欠点でもあるのですか?」
「まあ、あるといえばある。そして次期辺境伯というのも確定ではない」
「他に後継者候補がいますの?」
「辺境伯がレニー卿を後継者にするかどうかを迷っていて、その答えを彼が二十歳になるまでに決めるそうだ。後継者に相応しくないと判断した場合は、レニー卿の妹君に婿をとって後継ぎとするらしい」
「長男がいるのに妹に婿をとって後継ぎとは……。ヴァンフィールドの性質を考えると、後継者に相応しくない、よほど脆弱な男ということなのでしょうか」
ヴァンフィールドでは、代々辺境伯が先頭に立って魔獣討伐を行う。
つまり、心身ともに強い男でなければ辺境伯にはなれない。
アレクシアからしてみれば騎士団がいるのになぜわざわざ辺境伯自ら戦場に、と思うところだが、その地にはその地の伝統があるということも理解している。
ヴァンフィールドがそうして魔獣を防いでくれているから、他の領地では魔獣に怯えることなく安全に暮らしていられるのだ。
「レニー卿は脆弱とは少し違うようだな。腕はかなりいいそうだ。だが、気弱すぎるとのこと」
「気弱……」
なんとなく話が見えてきたとアレクシアは思った。
なぜ辺境伯子息を後継者にするかどうかを決める前に仮の婚約など打診してきたのか。
それも悪女と噂のある自分に。
「まさかと思いますが、辺境伯はその気弱さをわたくしの気の強さで叩き直してほしいなどと考えているわけではありませんよね!?」
侯爵が声をあげて笑う。
「まさにその通りだよ、アレクシア。辺境伯は腹芸はできないようで、そのまま素直に伝えてきた」
「辺境伯はわたくしをなんだと思っているのかしら。気弱男の教育係ではなくてよ」
「ははは、その通りだな。叩き直してほしいというよりは、いい影響を受ければ程度に考えているようだが。諸々隠して普通に婚約を打診してくるよりはいいだろう? 素直さと誠実さはある家系のようだ」
「それはそうですが……」
アレクシアは黙り込んだ。
「もちろんアレクシアが嫌なら断るよ。辺境伯も断られるのを覚悟ですべて打ち明けたと仰っていた。表向きは婚約者ではなく客人として滞在してもかまわないということだった。レニー卿が後継者になれなかったり、アレクシアがレニー卿を好きになれなかった時に戻ってこられるように」
「年頃の男性がいる家にある程度の期間滞在するのですから、世間はただの客人としては見てくれないでしょう。下手したら傷物と見られますわ」
まあそれでもいいか、とアレクシアは思う。
社交界での評判はすでに悪い。
それならたとえ辺境伯子息が気に入らずここに戻ってきたとしても、せいぜい「婚約者候補が気に入らず捨てて帰ってきた傷物悪女」という噂が追加される程度だ。
その後も貴族との縁談を望むならそれは致命的ではあるが。
「婚約者候補としては、彼を除いては爵位のある方や爵位を継ぐ予定の方はいらっしゃらなかったのでしょう」
「ああ、その通りだよ。そういう立場の人間は、さっさと婚約者が決まるからね。このレニー卿やうちのアーヴィンに婚約者がいないのが異例中の異例なだけだ」
「特に爵位にこだわりを持っているわけではありませんが、中途半端な貴族と結婚するメリットはありません。それくらいなら自分で身分にこだわらず相手を選びたいですわ」
「はは、そうだな。さて、アレクシア。どうするかな? 私から勧められる縁談はおそらくこれで最後だろう。この話を受けるか、自由恋愛を選ぶか」
アレクシアは机にさらに近づき、姿絵を手に取った。
短い金茶色の髪に、紫がかった青の瞳。
たしかに男らしく整っていて、だからといって荒々しい印象はなく、よく見ると目元は優しそうに見える。
首は太く肩幅は広く、絵姿からしても鍛え上げられているのがよくわかる。
「お受けいたしますわ」
「ほう? もう答えを出してしまっていいのか?」
「ええ。彼が気に入らなかったら帰ってくればいいだけですし、自由恋愛はその後でも遅くはありませんもの」
「即決するとは意外だったな」
ふふ、とアレクシアが笑う。
「この顔と体つきでどれほど気弱なのか、見てみたくなりましたもの。社交界に少し飽きていましたし、退屈しなくて済みそうですわ。それに」
「それに?」
「彼の見た目が、なかなかわたくし好みですから」
侯爵は「さすがアレクシアだ」と声をあげて笑った。
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