第6話 人生のゴールはすぐそこで、
意識的に意識を飛ばして夢とうつつの狭間に漂うことで現実から逃避するなんていう、出来ても誰も褒めてくれない特技を駆使し続け、およそ八時間。
ようやく六限終了のチャイムが鳴ったときの安堵感は、それはもう半端じゃなかった。
祝福の鐘だ。解放の音だ。
ただひとり、まるで夏休み前最後の授業が終わったみたいなウキウキ気分で、ホームルームが終わったらすぐ帰ろう、帰ってゲームに没頭しよう、なんて考えていたのに、僕のその怠惰な希望は、地理のおばさん先生の一言によって挫けることになった。
「じゃあ、教科係さん。先週出した課題集めておいてね」
……誰も返事しない。
おずおずと、名前も知らない人の良さそうな女子が答える。
「先生、今日大倉さん休みです」
「あら、そう。それじゃ、もうひとりの教科係さんは?」
「あの……」
女子は言い淀んでから、
「陰野くんです」
青天の霹靂。
近くの席の人たちが僕を見ていた。クラス中の意識が、僕に向いているのがわかる。
「じゃあ、陰野くん。集めておいてね」
容赦なく、配慮もなく、情けもなく、というか僕が不登校復帰二日目なのをまず知らないのだろう彼女は、あっさり言い放って教室を去っていった。
それからホームルームの間までで、僕の机には積み重なったプリントの山が形成されてしまった。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
最初は、あの人の良さそうな女子にいじめられたのかと思ったが……
どうやら長期欠席になると思われていなかった四月の委員会決めで、地理の教科係が割り当てられていたらしい。
まぁ、それに文句はない。
普段は他の子が代わりにやってくれてたようだし。申し訳ないとすら思う。
ただ、なぜ今日なのか。
精神的体力が底をついたまま、体だけ動かして、特別棟四階の準備室に向かう。
一歩一歩上がる度に、足が重くなっていくような気がする。
嫌だ、嫌だ、嫌だ……
ネガティブなリズムに合わせて、無心で足を進める。
……が、さすがの僕も、違和感を覚えた。
まだ着かないのか?
もう百回は、嫌だと言った気がする。
踊り場なんて、何回通っただろう。
首を捻り、前を向いて、ゾッと震えた。
白色の蛍光灯で統一されているはずの階段が、いつの間にか不気味な黄色に染まっている……
踊り場の壁に描かれているべき階数の部分は、まるで潰して捻って再構成したみたいな、僕の知らない文字に変わっていた。
壁の真ん中には、大きな逆三角形がてらてらと水気の残る血で描かれている。
六月の暑さも、湿気も、匂いも、音も、何もかもがなくなっている。
ここは何階だ?
いや、どこだ……?
さっきまでは、中庭に面した背後の窓から、外の明かりが入っていた。
だから、きっと後ろを見れば、今どこにいるかが分かるのに、振り向こうという気が不思議なくらい起きない。
一体僕は、どこに進もうとしているのだろうか。
この階段を登り続けると、どこにたどり着くんだろうか。
不意に、視界の上で何かがふらふらと揺れているのに気づいた。
それは、太い麻の紐。
輪っかになって天井から吊り下がり、まるで催眠術師の五円玉みたいに周期的に揺れ動いて、僕の視線と体を誘っていた。
その下には、おあつらえむきにも、足を乗せるのにちょうどいい高さの椅子が用意してある。
用意された紐と踏み台を目にすると、僕の不安は一変して、安らかな気持ちに包まれた。
あぁ、そういうことか……
どうすれば幸せになれるのか、ようやくわかった。
このまま、あの紐に首を括れば、全てから逃げられるんだ。
手からバサバサッと地理のプリントが落ちたが、そんなことはどうでもいい。
あそこに行けば、葛藤する必要も、自分を責める必要も、嫌な記憶を思い出すこともないのだから。
やっとゴールに辿り着いたんだ。
これで、楽になれる。
……それは、自分の意思だっただろうか。
考える間もなく。
僕の足は、吊り紐に向かって階段を昇り始めた。
あと八段……七段……六段……
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