五作品目「推しますか?推しませんか?」
連坂唯音
推しますか?推しませんか?
仙台市に微かに雪がちらつきはじめた時間だった。
大学の講堂で純粋数学の講義を受けている長内しずるは、頭を抱えていた。たった今教壇に立つ教授が数式の説明を省略したのである。必死にノートに書いた殴り書きの数式を何度見返しても、しずるには黒板に記された解答の導き方が分からなかった。円を用いて面積を求めなければならないらしいが、どこで円を使うのか分からなかった。
そんなときだった。
「最近さ、推しができたんだよね」と後ろに座る学生が言った。
「おっ、みのりの初推しぃ?」と左斜め後ろから別の学生が反応する。
「そうそう。YouTuberの■■■ま■■ろっているひとなんだよね」
この会話がしずるの思考を中断させた。何気ない会話の中で発せられた「推し」という言葉と、まったく聞き取れなかったYouTuberの名前が、しずるの意識を彼女たちの会話へ取り込んだ。しずるは聞き耳を立てる。
「とにかく推しだけを推していたい感覚が、なんかね、分かった気がする」
「みのりも推しデビューですね~。LoveなんだけどLoveじゃない感じだよね」
「そうそう愛ではないLoveっていうのかな」
しずるはノートの隅にペンを走らせる。ノートに「推しの感覚とは、LoveだがLoveではないこと???? 推しとはいったい?」と記されてあった。
仙台市に夜がちらつきはじめた時間だった。
しずるは市内の小さな個別指導塾で、生徒に二次関数を教えていた。雑談中、生徒が
「先生聞いてください、私帰ったら推しの生配信みるんですよぉ。すぐ帰って配信みなきゃいけないんで、今日巻きでおねがいしまあす」と溌剌とした口調でしずるに喋りかけた。しずるは、
「ねえ、りなちゃん、ちょっと聞いていいかな。俺はもう大学生でそれなりに人生経験を積んだつもりなんだが、その推しっていうのがわからないんだよ」
「え、推しできたことないんですか?」
「恋愛的に好きな人ができることじゃないんだろ? その推すという感覚はどういうものなんだい?」
「ええー、先生推しいないのー。うけるー」
「いないけど、教えてほしいんだ。その推すってことを」
「推しは推しですよ。とにかく愛おしい。でも愛しているとは違いますからね」
「その台詞、今日もどこかで聞いた気がする」
「先生でもわからないことあるんですね。ふふ」
「だからぁ、推しってなに?」
「ちなみに私の推しは、ジャニーズの◆◆る◆◆んくんね」
「え?もう一回言ってくれる?」
「先生、耳クソつまってんじゃないの? ジャニーズわかんないの?」
「とりあえずそれは置いておいて。推しとは?」
「ジャニーズ知らないのやばくなーい? あと私、もう一人推しいるよ」
「はい。傾きがこの図の直線の傾きと同じとき、座標Mの値を求めよ」
「きゃー、先生意味わかんなーい」
仙台市に完全に夜の帳が落ちる時間だった。
しずるは自宅で家族と夕食を済ませた後、自室で大学の講義で理解できなかった問題を解き直していたが、捗っていなかった。
しずるの姉が部屋に入ってきた。姉はいきなりスマホを近づけてきて、
「ねえ見てみて、推しが今日新曲だすんだよ? やばくなーい?」
「
「はいはーい、てかあんた今日何の日かわかってる?」
「知らねえよ」
姉が部屋を出ていくと同時に部屋の窓からノックが聞えた。
「おいおい、うそだろ。ここ二階だぞ」
しずるは窓際へ体を向ける。
窓が開く。鍵を掛けていないことをしずるは悔やんだ。窓から侵入してきたのは、塾で授業を今日担当したあの生徒だった。
「せんせーい! 私のもうひとりの推しは先生だったんだよ? 先生が推しについてしつこく聞いてくるから先生の家特定しちゃった!」
「りなちゃん、待ってくれよ。何をやっているんだ? 警察沙汰になっちまうぞ。一旦帰ってくれないか?」
「先生に問題です。誰かを推しますか? 推しませんか?」
「は?」
「いいから答えて。早く。三秒でね?」
窓に立つ「りなちゃん」は、右手にコンパスをもっている。
「はい! 三秒経過しちゃったよ先生! お仕置き!」
りなちゃんは部屋の床に土足で降り立ち、そのまましずるへ突進した。手に持つコンパスが振り下ろされる。コンパスはそのまま、しずるの机へ振り下ろされた。
グルっと、コンパスは机に置かれたノートに円を描いた。
「はい、先生。誕生日おめでとうございます! 私からの誕生日プレゼント!今日の大学の講義で先生が解けなった問題の解法と、『推しの感覚』」
「は」
「はっきり言うけど、最近私は先生の行動をつけてたのね。だから、今日先生が悩んでいるとこを目撃しちゃったから、誕生日プレゼントにその問題の解法を教えてあげようと思ってね」
「は」
「私が先生を推すきっかけになったのは、先生が純粋数学の蘊蓄をやたらときかせてくるから。純粋数学を知った私は、その面白さにのめりこんでしまったの。ある意味、推しは純粋数学ね」
「は」
「だから、悩みを抱える先生に、誕生日プレゼントとして今の円を贈ってあげたのよ、そしてこんなにも愛おしいという推しの感覚を先生に体感してもらったわ。どう?」
「なにを言っているだ………」
「もう。先生たら。とにかく、今、私が書いた同心円を使って面積を求めてみて!」
しずるは言われるがままにペンを手に取り、立式した。
「解けた………」
「きゃーっ。うれしいっ。私、先生よりも賢くなってた? アメリカだったら飛び級ねっ」
「とにかく帰ってくれ………」
「ちょっと。推しの感覚の方は片づいていないじゃない。そっちの方ははどうなのよ」
「わからないよ………。今の恐怖は推される側の心理を体感させるためのものじゃないか」
「そっか。先生は推す感覚を求めていたんだ」
りなちゃんは後ろを向いて窓の方へ歩き出した。
「じゃあ、先生。その推すのことについてはまた今度ね。バイバーイ」
彼女は窓をまたいで、姿を消した。
しずるは茫然自失として棒立ちしていた。
五作品目「推しますか?推しませんか?」 連坂唯音 @renzaka2023yuine
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